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頑として譲らない私の気迫に、彼女はついに折れた。苦々しい顔の裏に、何か他の感情が隠されていないかと躍起になって探すほどに、渋い顔だった。
腕を掴んで無理やり連れてきたも同然な私に、彼女はそれでもついてくる。初めから、そうなるのが当然だったかのように……。
「で、あんたが来たかったとこってのはここのこと?」
対面する形になっているテーブル。
私は、彼女を、喫茶シュヴァルツ・カッツェに連れて来ていた。ドイツ語で黒猫という意味。普段の私の高潔とは反対な、不吉なイメージを孕む存在を冠したその喫茶店は、平日の昼ということもあり空いていた。
まるで、黒猫たちの中に私たち二人が迷い込んだような、幻めいた感覚があった。
「そうよ?」
理解できないというふうに首をかしげる彼女を前に、私はいつものようにメニューを開く。
そこには、いつも通りの照らった文字が羅列されていたが、今日ばかりは甘い響きに感じられた。
「そんなに驚くことでもないでしょう」
こちらは予想外に驚かれ、少しムッとしてから、内心首を振る。
脳裏では、いつもと違う状況に、いつもとは異なるものを浮かべていた。
――私が私を装っていることは、学院にとって事実ではない。貴賓優雅さ勤勉さ、私は学院の生徒から憧れられるような存在でなければならない。そして事実として、私は斯様な存在である自信が――ハリボテのように薄い自信が――あった。
「驚く、ね。普段のあんたを知ってるやつにとっては無理もないことでしょ。こんな、可愛らしい店………風紀委員長の雰囲気には、似合わない」
その刹那、カランカランと、入店の印が鳴り響く。けれど、私の耳にはほとんど届いてはいなかった。
意図的に誇張された空白が掴んでいる意味を、私は咀嚼し続ける。もしかしたら、彼女は……。
「そうかしら?………あなたも何か頼みなさい、滝夢さん」
何か言わなければ永遠に空いてしまいそうになる不自然な空白を、取り繕ったような言葉で埋める。
きらきらとして見える彼女の化粧をあしらった顔は、少しだけ緩んだように見えた。
苺のケーキとダージリンティー。いつもと違う紅茶。跳ねる気持ちを穏やかにしていたかった。
チーズのタルトとコーヒー。コーヒーの黒が白に変わる頃には、優しい香りで満たされていた。
「それで?これは何度目かしら」
藪から棒に、喉をすっと通っていった紅茶と入れ違いに、私はいつもの姿に戻る。
「さあ?………でも」
タルトが全て欠け、ケーキが無くなる。
しなやかさと甘さを持ったコーヒーと紅茶が彼女と私の喉を潤した。
2人迷い込んだ世界は、停滞の装いを見せていた。
でも、と言ったきり話を切ってしまった彼女が、満足げに席を立つのに合わせて、私も席を立つ。そして彼女の後に会計を済ませ、すっかり焼けてきた空の色が目立つ夕方の訪れた店の外で、彼女の後ろ姿に追いついた。
その私を見ずに、私が追いついたことを察した彼女は、きっと穏やかな表情で笑っていただろう。いや、そうであって欲しいと思った。
それは……。
「おいしいタルトのお礼に、サボるのはやめてあげるよ」
――その声が、滝夢さんからは聞いた事もないような柔らかさだったから。
滝夢さんのふわりとはためく前髪が、一度だけ私を向いた。
廊下で見た、むすっとした表情はどこへ、頬が少し緩くなっているのが見えた。「あっ……」何か言葉を返そうとした私に数秒も顔を向けないで、彼女は踵を返した。
そのとき、私はどこかで思っていたに違いない。
彼女なら、私の異なる姿を誘いだしてくれるのではないか、と。
私に背中を向けながらじゃあね、と手をひらひらと振って、彼女は颯爽と立ち去って行く。その後ろ姿に、一瞬前に想像した彼女の笑顔が重なって見えて、まんざらでもなさそうな様子を幻視した。
それに、なんと返せばよかったのか、あるいは、どう返せたのか。
私はついぞ、さよならも、再開の約束も言うことができなかった。
同じ夕闇でも、その日だけは、橙色が眩しいような気がした。
それはきっと、夕景を抱く滝夢奏という少女を見るのに、私が目を細めていたからだと、そう取り繕うしか、1人で立ち尽くす私にはできなかった。
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