たったひとつの叶わぬ恋

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 叶わない恋をした。神様には会ったことはないけれど、この世の何処かには居るんだろうなんて、ぼんやりと考えていた。それは僕が、可もなく不可もなく、どちらかと言えば幸せな人生を送ってきたからかもしれない。  今僕は初めて、神様なんて居ないと思う。今となっては、もう何もかもが、遅いんだ。     *    *    *  高校一年の新学期が始まって、一週間ほども経った頃。僕は、ひと気のない西階段の下で、ひとりウロウロとしていた。注意深く屈んで、冷たい床をペタペタと手探る。  早くしないと、ホームルームが始まっちゃう。悪目立ちしたくない僕は、泣きそうな心地で床に目を凝らしていた。 「どうしたの?」  不意に、上の方から声がかかった。声だけじゃ、男子か女子か判別出来ない、独特の響く声。見上げると、ぼやけた視界の中に、短いスカートを履いた女子生徒が見えた。顔は、分からない。 「コンタクト落としちゃったんです。探すの、手伝って貰えませんか?」  僕は藁にもすがる気持ちで、頼み込む。 「うん、良いよ」  思いがけなく、彼女はふたつ返事で引き受けてくれ、ステップを踏むようにして階段を下りてきた。そんな下り方をすれば、下に居る僕にはライトパープルの下着が丸見えになってしまうのに、彼女は全く気にしない。僕の方が恥ずかしくなって、ちょっと視線を外してみたりした。  階段を下りきる前に、彼女は足下を注意深く観察してから、そうっと床に立って僕と同じように屈み込む。  距離が近付いて、近眼の僕はようやくその顔が見えた。  チョコレートブラウンのぱっちりした二重。淡くピンクがかった薄い唇。うなじにふりかかるショートボブの猫っ毛。少し切れ上がった目尻もあって、何だか猫みたいだな、と思った。 「あった」 「えっ?」  同じ高校生とは思えない、大人っぽい綺麗な顔に見とれていた僕は、間抜けな声を出してしまう。彼女は気まぐれなシャム猫みたいに、薄く笑った。 「これでしょ? 探してたの」  白く長い人差し指の上には、透明なコンタクトレンズが光っていた。一瞬それに焦点が合って、その向こうに、長い睫毛に縁取られたチョコレートブラウンが像を結ぶ。  女優さんでもなければ、こんなに魅力的な女性の顔を、見たことがなかった。また見とれそうになってしまうのをこらえて手を差し出すと、掌にレンズが落とされる。 「さ、ホームルーム、始まるよ」  彼女は階段を上り始めた。と言うことは、二年か三年、上級生なんだろう。身長も僕より幾らか大きい。 「あ、あの!」 「ん?」  華奢な肩越しに、彼女は振り返った。 「名前、教えてください!」  瞬間。鮮やかに、彼女は微笑んだ。口元よりも目元からこぼれ落ちるような愛嬌は、(あで)やか、と言っても良いかもしれない。意識してるのかしてないのか、やけに色っぽい流し目で、僕は悩殺されてしまう。  こんなこと、どんな女性を見ても思ったことない。生まれて初めて、電流が走ったような気がした。 「ササキサラ。『サ』が多いから、覚えやすいでしょ?」  そうして、呆けている僕を取り残して、彼女はまた弾むように上階へ消えていった。何年何組かも訊きたくて追いかけようと思ったけれど、ホームルームのチャイムが鳴ったから、僕は慌てて自分の教室に向かって走った。  不思議な気持ちだった。僕はそれから、休み時間や放課後、西階段に通うようになっていた。また、彼女に会いたくて。弁当すらひとり階段に座って食べたから、当然友だちもまだ居ない。  あの中性的な声で、僕の名前を呼んで欲しかった。男子とも女子とも違う、彼女だけの個性の塊みたいな声で。まだ、僕の名前を伝えていない。  ひどく長く思えた三日目の放課後、所在なげに踊り場下の階段に座る僕に、あの凜々しい声が上からかかった。 「あれ? またコンタクトなくしたの?」  弾かれたように振り返る。彼女はまたリズムをつけて、身軽に階段を下りてきた。今日は、黒のレース。だって、見えちゃうんだ。  そして僕の隣に座った。身体の側面同士が、上から下までくっつくくらいの隣に。横からでも分かるほどに、胸の圧が凄い。ち……近い。そしてデカい。 「どうしたの、赤くなって。赤面症?」 「う、うん」 「ふふ。可愛いね」  わ。ポンポンと頭に掌が置かれる。僕はますます、頬が火照るのを感じた。いや、頬どころか身体中。 「で、私に用でもあった?」  照れ臭くて俯いていた僕はようやく、目的を思い出して顔を上げた。 「あ。この間はありがとうございました。お礼言ってないって気が付いて。僕、今宮(いまみや)あゆむって言います」  そして、心の中で何度も練習してきた言葉を絞り出した。 「あの、それで……もし良かったら、僕と友だちになってくれませんか?」  形の良い顎に頬杖をついて、彼女は面白そうに、僕を眺める。  このひと、やっぱり猫だ。猫が鼠を弄ぶように、掌の上で転がされているような気分になる。 「良いけど。私もあゆむが、気になってたから」 「え」  どうしよう。深い声で名前を呼ばれて、気付いてしまう。全身が心臓になったような、ドキドキに。小学四年の頃に味わった、初恋の始まりにとてもよく似ていた。 「でも、その敬語やめてよ。私も一年だから」 「え? でも、二階……」 「ああ。私、屋上が好きなんだ。ひとりでボーッとするの」 「何組?」  やっぱりシャム猫みたいに薄く笑って、ミステリアスに彼女はかわす。 「焦りは禁物だよ」  それが、何もかも見透かされているようで、僕は思わず左胸を押さえる。ドキドキが、聞こえてしまわないように。 「サラって呼んで。私はあゆむって呼ぶから」 「うん。……サラ」 「何?」 「何でもない……」  言った途端、明るい笑い声が弾けた。サラが、笑ってる。お腹を抱えて。切れ上がった目尻に溜まる涙を拭って、彼女は身をよじって細い肩を震わせた。 「っふふ……あゆむ、面白いね。久しぶりに爆笑した」  意図しなかったとはいえ、彼女が楽しそうなのは、嬉しかった。幾らか張っていた緊張の糸がプツリと切れて、僕はもっともっとと欲張ってしまう。 「なあ、一緒に帰らない?」 「ああ……ごめん。私、毎日屋上で時間潰してから帰るの」 「じゃあ、僕も屋上に行って良い?」  一瞬だけ、彼女の整った眉頭が寄った。怒った? それとも、悲しそう? 分からない。 「悪いけど、屋上ではひとりになりたいんだ。また明日ね、あゆむ」 「あ……」  彼女は下りてきた時と同じように、身軽に階段を上がって消えた。少しガッカリしたけれど、「また明日」という約束が、心に暖かく小さな火を点した。  それから毎日放課後、僕とサラは西階段でおしゃべりした。クラスメイトのこと、家族のこと、それから、恋愛のこと。 「好きな子って、なかなか出来ないんだよね。みんな子どもっぽくて、(おんな)じようで、カボチャ畑にしか見えない。僕は、個性的で清潔なひとが好きなんだ」    そう言いながら僕は、サラのチョコレートブラウンの猫目を見詰めていたらしい。 「例えば……私とか?」 「えっ!?」  度肝を抜かれたあと、僕はまた、トマトみたいに真っ赤に熟れた。少し迷って、打ち明けてしまう。 「……何で、分かったの?」 「分かるよ。私の顔見て、好きって言うんだもん」  クスクスと噴き出してからサラはすぐに恐いほど真顔になり、僕の長めに切り揃えられた前髪を長い指でくすぐって、顔を近付けてきた。  窮鼠(きゅうそ)だけど、猫を噛めない。蛇に睨まれた蛙と言った方が、近いのかな。固まって動けないでいる僕と、コツリとおでこを合わせる。ゼロ距離で、目と目が合った。  ――あ。キス、される。思わず、固く瞼を閉じた。 「……ん……?」  だけどおでこは触れているのに、いつまで待っても唇が触れることはなく、僕は(うっす)ら目を開けうかがう。  やっぱりゼロ距離で、サラは何とも寂しそうな表情で微笑んでいた。 「……何で? サラ」  唇の隙間は二センチで、吐息を交わらせながら囁き合う。 「出来ないよ。ファーストキスでしょ」 「そうだよ。サラとしたい」 「出来ない」  香水でもつけているのか、少しスパイシーな香りが遠ざかった。フローラルでないところが、彼女らしい。ゆっくりと、ゆっくりとサラが離れていった。 「どうして?」 「私は、清潔じゃないもの」  自分でもビックリするくらい、僕は急激に心乱れて、つい大きな声を出してしまう。 「どうして、そんなこと言うんだ? サラは綺麗だよ。僕、サラが好き。初めて会った時から、サラが好きなんだ」  目を伏せずに、真っ直ぐにサラのチョコレートブラウンを見て告白する。明らかに眉尻を困惑の角度に下げながらも、サラは緩く握った指の甲で僕の頬を撫でてくれた。  性別も正体も不明なサラだけの声色が、思い詰めたように応えてくれる。   「私も、あゆむが好きだよ。……最初にあゆむに会っていたら、こんなことにならなかったかもしれないね」  余韻が消えない内にサラは勢いよく立ち上がり、一段飛ばしで階段を駆け上がっていった。最後の台詞の絶望的な響きが気になって、僕はそのあとを必死に追いかける。  もうサラの背中が見えないほど遅れて、屋上の扉に辿り着いた。ドアノブを回すけど、ガチャガチャと鳴るだけで、回らない。鍵がかかっている。 「サラ! サラ、開けて!!」  嫌な予感がして、ドンドンと拳で力一杯扉を叩く。ドンドンとガチャガチャを何回か繰り返して、屋上に続く扉は開いた。 「サラ!!」  落下防止の金網の向こうに、こちらを向いてサラが立っていた。  切れ長のチョコレートブラウンは、十五年間の人生で初めて見る激しい悲嘆に暮れていて、目を合わせるだけでわし掴まれたように胸が痛い。もしそれが傷のせいなんだとしたら、心臓が大きく張り裂けて、今も血を流し続けていることだろう。そんな風に思わずにいられなかった。  白く長い指が金網に絡んでいて、それだけで後ろにかかった体重を支えている。  無音の中スローモーションで、その薄い唇が、「あゆむ」と形作るのを確かに見た。「あゆむ。大好きだよ」と。  金網を掴んでいた指が外れる。スローモーションのまま、美しいまま、彼女は視界から消えゆっくりと落ちていった。  走る。彼女の元へ。スローモーションから、急にリアルタイムが戻ってきた。  さっきまでサラの指がかかっていた金網にすがって、下を見る。飛び付く勢いだったから、ガシャン! と派手な音が木霊した。 「……サラ!?」  居ない。何処にも。亡骸(なきがら)さえ。  混乱して地上のあちこちに視線を巡らせたけど、部活のかけ声がのどかに響くばかりだった。  背後で、ガチャガチャとドアノブを弄る音のあと、扉が開く。振り返ると、驚いた顔の教頭先生と目が合った。 「君。鍵がかかってなかったかね? どうやって入った?」  その手には、黄色や白の菊の花束が握られていた。それを見た瞬間、全てを理解する。 「……先生。ここで、飛び降り自殺した生徒、居ませんでした?」  先生は、決まり悪そうにウッと詰まる。 「噂を聞いたのかね。あまり、変な噂に振り回されないように」 「じゃあ、何で菊の花束、持ってるんですか? 誰にも言わないから、教えてください。ササキサラさん、ですよね」  名前を言うと、先生は狼狽して何度も眼鏡を押し上げながら、少しだけ話してくれた。  十年前、佐々木咲空(ささきさら)という一年生が、教師と付き合っていたこと。だけど教師は他の女性と結婚し、遊ばれていたと知った彼女は、十年前の今日ここから身を投げたこと。それ以来、西階段には幽霊が出るという噂が立って、利用する生徒は殆ど居ないこと――。   「話してくださって、ありがとうございます。その花束、僕が供えても良いですか?」  先生から花束を受け取り、さっきサラが立っていた金網の下に置いて、手を合わせた。心の中で、「大好きだよ」と「安らかに」を唱える。  気のせいかな。「ありがとう」と聞こえたような気がした。感覚で、彼女は天国に行ったんだと感じる。  それは、もう二度と会えないということでもあり。不意に僕は、クシャッと顔をたわめて泣きじゃくった。コンクリートについた膝の痛みも、気にならないほどに。  叶わない恋をした。神様には会ったことはないけれど、この世の何処かには居るんだろうなんて、ぼんやりと考えていた。それは僕が、可もなく不可もなく、どちらかと言えば幸せな人生を送ってきたからかもしれない。  今僕は初めて、神様なんて居ないと思う。今となっては、もう何もかもが、遅いんだ。 「ありがとう、あゆむ」  今度は風に乗って、ハッキリと聞こえた。涼風が僕の前髪をくすぐってから、天に高く高く昇っていった。 End.
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