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3
甘い香りはアラステアのつけている香水の匂いだ。だとしたらこれは……?
重い瞼を開けると、焦点が合わないほどアラステアが至近距離に居て。これでは柔らかなものが彼の唇だと認めるしかない。
顔を左右に振ると、やっとアラステアの唇が離れた。
「アラステア様、どうしました?」
どうしたもこうしたもこれは口付けだ。いくら初心なカメリアだって知っている。だが、どういう理由でなのかが分からない。つまり、カメリアは恋情を伴った口付けなどしたことが無かったのだ。時々、「お休み、私の可愛い子ちゃん」というふざけた言葉とともにルークからおでこにされるくらい。 でも、あれは今のとは違うのだろうか?
親しみでする口付け……なんだろうか。いやいや、男同士でそんな事をしているのを見たことがない。じゃあ、今のは……。
「カメリア、君が好きなんだ」
切なそうな声にどきんと胸が飛び跳ねる。
「私もアラステア様のことが好きです。新しい世界を見せてくださいましたから」
カメリアの言葉は正解じゃ無かったらしい。むっとした表情になったアラステアが両手でカメリアの顔を包むとまた接近してきた。
「私が言う好きは、そんなんじゃないっ。教えてくれ、どうしたらいい? 本気だと君が思うのにはどうすればいいんだ」
怒らせてしまったと思う故に、カメリアはアラステアの口付けに抵抗できない。
ぐっと押しつけられるだけの口付け。そのくらいアラステアも子供で。
だからこそ、ただひたすらにカメリアを慕うのだろうけど。
――自分はどうなのか。友情とは違う「好き」とはどんなもので。それを知ってしまっていいのだろうか。
「ただ、好きではいけませんか」
だって分からないのだ。
経験も何も。
自分の歳を言いそうになって、慌ててカメリアは口を噤む。まだ十七歳なのだと打ち明けられたらどんなにいいか。恋愛感情なんてまだ知らないと言えればどれほど楽になれるか。
あなたと同じだと。
教えを請いたいのは自分のほうだとカメリアは思った。
唇が離れて、濡れた唇が冷たく感じた。さっきまでの熱が気化して奪われたみたいに心までなぜか寂しくなって、カメリアは自分の顔の両側に手をついたアラステアを見上げた。
「ただ、好きでもいい。カメリア、好きだ」
肩口に顔を埋めて抱き締められて、また熱が戻ってきたことにほっとする。これがアラステアの言う「好き」なら、受け入れられるのかもしれない。
手をアラステアの背に回そうとしたが……結局はできなかった。
――私は魔導師だ。一般人のような振る舞いなど許されるはずは無い。
そうだ、そうだった。
楽しくて、忘れていたふりをしていた。同じ年頃の友人と屈託なく笑えるような関係が自分にもできるのだと思いたくて。
でも、友人じゃない。良く考えてみろ。
彼は、自分がいま仕えている主人の息子――なのだ。
「アラステア様、もう戻りませんと仕事に支障がでます。城に戻りましょう」
「カメリア」
咎めるような、哀願のような声に思わずカメリアは目を逸らす。
「もう……ご一緒できません」
ショックを受けた顔で、上体を起こしたアラステアを押し退け、カメリアは起き上がると近くにいた馬に跨った。
「お先に失礼いたします」
後ろを見ずに馬を走らせる。目の前が霞んで良く見えない。
ああ、自分は泣いているのか。そう気づいて片手の甲で涙を拭った。
悲しい。こんなに悲しいことは初めてだと思う。それほどに、この何カ月間はカメリアにとって宝物だった。
いつまでもアラステアと一緒にいたかった。でも、自分の時間は閉じられていて、動くことは無い。アラステアは違う。どんどん自分を置いて大人になっていく。
いつまでも十七歳の自分を置いて。
その時はどうなるのか。同じ関係でいられるのか。
初めてカメリアは自分が上級魔導師になったということの意味を考える。 自分は人生という直線の枠を外れて、メビウスの輪の中に入ってしまったのだと。
同じ空間にいても、もう二人の道は交わることは無く、寄り添うことは叶わない。
「違う」
始めから交わったことなど無かった。自分が勘違いしていただけ。
夢を見ていた、魔導師では無かった自分の夢。
冷めてしまえば、見る前より虚無の闇が広がるような幸福な夢だ。
「ハンゲルに帰りたい」
本気でそう思った。一人、異世界に放り出されてどう生きていけばいいのか。そう考えると普通に暮らせていたのが嘘のように思えた。
後ろから自分を呼ぶ声が聞え、それから逃げるようにカメリアは馬に鞭を入れる。もう止めて欲しい。
始めから手に入らない夢など要らない。知らなかった自分に戻して。
城に戻って、何食わぬ顔をして仕事をしよう。そう思っていたのに、結局何も手を付けられなくて、体調が悪いと自室に籠った。
「どうした? 上級魔導師が体調不良なんて変な言い訳だな」
ふいに懐かしい声がして、カメリアは被っていた上掛けを首までずらした。
「ルーク様」
顔を見たら、もうダメで。
カメリアはルークに抱きついて泣き始めた。
「おいおい、どうしたんだ」
抱きつかれたルークは驚きながらもカメリアの細い体を抱いた。ゆっくり背中を何度も撫でる。
「……わ、私は……まだ未熟な……ただの子供……でした」
しゃくりあげるカメリアにルークはおやおやと片手で顎を掬う。
「今頃分かったのか? 十七歳は魔導師じゃ、まだ孵ってもいない雛鳥だよ」
「じゃあ、なぜ私をこんな重要なポストに任命されたのですか」
自分の不甲斐なさをぶつけているのは分かっていたが、止まらなかった。 怒りをぶつけて、怒られて。
それですっきりできればいいと甘えだと知りながらやってしまう。
でも、ルークは怒るどころか、カメリアの鼻先にチュッと口付けを落とした。
「それはね。自分が魔導師だということを思い知って欲しかったから、かな」
ふんわりと笑うとカメリアから離れて置いてあった椅子に腰かける。
「州宰は、州候に仕えるんじゃない。魔導師庁の意向に沿って州を動かし、州候の独走を阻む。州の内情を探り、逐一魔導師庁に報告する。それが一番の役割なんだよ」
「で、でも」
「魔導師の益になることを最優先にする、それが大事だ」
「ルーク様」
「候子とねんごろになるならなってもいい。色仕掛けで手玉に取れるならわざと仕掛けてやれ」
でもね、そう言ってルークは立ち上がった。何でそれを知っているのかと、カメリアはぞっと鳥肌を立てた。
「本気になるなよ、私の可愛い子ちゃん。ここは武者修行の場だと言ったろ? やるべきことはたくさんある。枢密使が来る前にね」
――枢密使? 何で枢密使が……。
ルークの言葉にカメリアは声を失くした。
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