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 窓を固く閉め切っていたとしても、冷気は部屋に入り込む。 ここは、もう十月を超えると冬支度を始めるのだ。せっかちな冬はこの国で体をほぐしてから海を渡って大陸に寒さを運ぶつもりなのだろう。 「ま……ここは結界が張ってあるから常春なんだけどね~っ」  どっかりと肘掛椅子にふんぞり返り、机に足を上げている男がのへらと笑う。 男が着ているものはローブと言われるもので腰から下はスカート状だ。 勢い良く乗せられたせいで裾がめくれ、脛が剥き出しになっていた。 「どうでもいいからその汚い足を机からどけろ。書類が下敷きだぞ」  その部屋の主が大きなため息をつく。 「なあ、リッチー」 「リッチー言うな、仕事しろ、仕事」  机の上に乗っかった二本の足の下から、どうにか書類を引っ張り出す。リチャードはできた皺をできるだけ伸ばしながら、こいつは一体、いつ仕事をしているのかと思う。  ルークのところで働いている文官魔導師たちは優秀だと聞くが、これじゃあ優秀にもなるだろう。 ボスがそこら中で歩いて執務室にいないんだから。 「おまえの髪って椿の花みたいだよね」 「は……?」  突然の口説き文句のような言葉にとうとう頭に虫が湧いたなと思った。相手が私ということからして尋常じゃない。まさか呆けたか。 「ルーク、説明しろ」 「だからさ、おまえって髪が真っ赤だし……昔の話なんだけどね……」  いきなり始まった昔話にリチャードの目が逃げ場を探して彷徨う。いつもこうやって捕まってしまうんだと恨みがましい目でルークを見るが、嬉々として話し始める彼を止められる者はめったにいない。  見たところ戸は術で閉じられているし。こんなことに禁則と言われている廟内での魔術を使うとは。リチャードは諦めて書類を棚に仕舞った。  トーラス州はゴート山脈を隔ててちょうどモンド州の反対側にある。と、言ってもゴート山脈には結界が張ってあるために間違って入りこんでしまう――なんてことはない。  ただ、山脈が邪魔をして他州に向かうのに手間がかかるのは否めない。 サイトスや海峡沿いの州に向かうには大きく他州に迂回しなければならないため、物流という面では不利な場所だった。 「いけません、わたしは魔導師です」 「そんなこと、知っている」  諍いの声とは違う、僅かに水を含んだような二人の声が西日の差し込む中、交わされていた。 「アラステア様、お放しを」  壁に灰青色のローブを着た魔導師を押し付けるように拘束しているのは、やっと少年の域を脱したばかりくらいの若者だった。  そして押し付けられているのも十代に見える姿だが、十代という訳では無いかもしれない。 彼はこのトーラス州の州宰としてこの州城に詰めているのだから。  不老不死の上級魔導師において、外見の年齢と実年齢は同じではない。 「カメリア、おまえはわたしの事が嫌いか?」  熱く見つめてくる候子をどう宥めたらいいのか、魔導師は思案する。施政のことなら。あるいは軍事のことでさえ。そういうことだったら何でも応えようと思ってる。  だが、ことが恋愛のことになると、対処の仕方など何も思い浮ばない。  ――せっかくルークさまに見込まれて上級魔導師になったというのに。  こっそりと魔導師はため息をつく。  上級魔導師になるには、二つの方法がある。一つ目は、幼い頃地元の廟に入り、下級魔導師として修業し、そこの廟主の推挙を受けてゴートの廟に行く。そこで認められれば中級の魔導師になれる。  中級魔導師になるのだって、実は並大抵ではない。還俗が認められるのも下級魔導師だけ。魔術の深淵に足を踏み入れる中級魔導師以上は、秘密保持のためにも市井に戻ることはできない。それに上級魔導師はもう人間の範疇には入らない。なぜなら、竜印を胸に受けた上級魔導師は不老不死になるせいだ。  もう一つといえば、王の子供の場合。  王は必ず双子を授かる。それこそが呪をかけられているということなのだろうが、上にいくら子供ができようと次代の王は、その双子のいずれかになる。  そして他方は人質として廟に引き取られ、魔導師となる。自分の兄弟が王になる頃に上級魔導師になり、王に仕え、王の死後は廟に戻る。  王は死ぬまで不老だが、次代の王が成人する頃に寿命は終る。若いうちに双子を授かった王は四十代の初めで亡くなることになる。  そのため、見かけが年若い上級魔導師は王子出身のことが多く、歳を重ねているものは叩き上げが多い。  カメリアは十歳でゴートの廟にやってきた 早くから神童と言われていたにしても、ここで長い間研鑽積むことになる。そう周りも言い、自分も当然そうなると思っていた。  だが、ある日、ゴート山脈の支廟の庭先を掃除していたカメリアはナンパされた。ものの例えとかでは無く、本当のナンパだ。 「ねえ、君、可愛いねえ」  え? 驚いて顔を上げたカメリアが見たものは、横に大きく広げた枝の一つに座った一匹の猫だった。 「あの……どちら様でしょうか。今廟主様はハンゲルの廟にお出かけなんですけど」 「ああ、知ってるよ。ここは確かモーガンだよな」  どう見ても猫だ。だが、喋るなんてケレンめいた事をすることや、廟主を呼捨てにするということは、きっと高名な魔導師なのかもしれないとカメリアは居住いを正す。 「あのさ、今からやる呪が何かを見切ってね」  灰色の猫は、カメリアの返事なんか気にするそぶりもなく、さっさとあり得ない速さで空中にレーン文字を描いていく。  釘で引っ掻いたような文字が光跡を僅かに残しながら現れては消えていく。 「水? 氷? ああ、氷柱だ。それに……風。って東風? わあああっ、大変だっ」  その文字の意味に気づいて、カメリアは必死に横っ跳びでその場を逃れる。その直後、大きな氷の柱がカメリアの居た場所に突っ込んで来て、地面に刺さって砕けた。 「な、何するんですかっ」  この際、高名だろうが歳上だろうが関係無い。いきなり殺そうとするなんて、どんなサイコ野郎なんだ。四つん這いの姿勢で見上げたカメリアの目前に、ひらりと猫は舞い降りた。
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