1.秋風はまだ夏の余韻

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駅ビルのたくさんの人が行き交い、彼らはちらと視線を彼女に向けるものの、誰も彼女のことなど取るに足らない存在だと言わんばかりに過ぎ去っていく。その光景を彼女も見ているはずなのに、ただ目の前の鍵盤をじっと眺めて、集中力を高めていた。 彼女はそっと鍵盤に指を置いた。とても繊細に触れ合い、まるで彼女とピアノが心を通わせているかのようだった。 一呼吸、間を置いて、彼女は指に微かな力を込めた。 コロンと撫でるような旋律が流れた。 学校で弾いてくれたドビュッシーのアラベスク。それなのに、なぜだろう。あのときとはまた違う流麗な曲調を感じた。哀愁が少し潜んでいるような、夕暮れの気配がそう思わせているのか、不思議な感覚だった。 夜が夕暮れの茜色を紫色に変えていき、より深く染めていく。その移ろいゆく空のパレットは次第に無数の星を次々に瞬かせていく。それはそよと吹く夜風の仕業のように、鈴のような音がころころと心地よく響いていた。 朝と夕方では、情景がこうも違ってくるのか。 僕は彼女の弾くアラベスクに驚いていた。気付けば、何人か足を止めて、彼女の演奏を聞いていた。 しかし、彼女はまたふつりと落ちた。突然、旋律が切れ、彼女が突っ伏したことで、無数の音が乱立する。聴衆はいったい何が起きたのかと戸惑いを見せ、近くにいたお守り役の男性が素早く彼女を揺さぶって、目を覚まさせる。 今回も、最後まで弾けなかった。 普通なら、残念がると思うけど、彼女は目を覚ますと、何もなかったかのように立ち上がり頭を下げる。謝ってお礼を言う。そして、体調を理由に演奏を終わりにした。
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