1.秋風はまだ夏の余韻

3/14
前へ
/151ページ
次へ
そんな中、一人、不思議な演奏者がいる。今日はちょうど金曜日で、その演奏者が来ているのを確認する。 レース素材の白いブラウスとレモン色のスカート、白いベレー帽という姿の女の子。彼女はちょこんと椅子に座って、高さ調節し、ピアノの鍵盤をじっと見つめる。 その近くには、ミルクコーヒー色の薄いサマーニットと紺のジーンズを着た大学生くらいの男性がお守り役として立っていた。 喧騒はその女の子を容赦なく孤立させる。彼女はゆっくりと深呼吸しているのがわかる。とてもちっぽけな存在だ。彼女とピアノだけが孤島にあるように見える。通りがかった妙齢の女性が、一瞥(いちべつ)をくれるものの、過ぎ去っていく。 孤島だけが、とても静かだった。女の子はゆっくりと鍵盤に白く華奢な手を添える。喧騒という沈黙がそこに生まれていく。その奇妙な感覚を持つのは、おそらくもうすでに彼女に魅せられているからに違いない。 息を飲む。そして、僕は少し大きく呼吸する。まるで、その女の子にリズムを合わせるように、同調するかのように、自然と緊張してしまう。ただの通りすがりの男子高校生なのに、緊張してしまう。 そして、ふと、空気の流れが止まり。 鍵音が空気を透明にした。 落ちたくるみが地面を跳ねて……跳ねて跳ねて、その旋律がショパンのワルツ第1番変ホ長調『華麗なる大円舞曲』を奏でた。 上流階級の明るくて楽しそうなパレードに胸をときめかせる少女が、ひょんなことからパレードに参加する物語を聞いているようで、その軽やかに踊る曲調にこちらまでパレードの中に紛れ込んでしまった気持ちにさせる。 ピアノを弾く女の子の横顔はとても幸せそうで、鍵盤を触れる指は踊るように音を奏でていく。通行人も何人かが足を止め、彼女の演奏をスマホで撮影したり、聞き入ったりする。二階のガラス張りの手すりからも演奏に引き寄せられた人がピアノを見下ろすように顔をのぞかせていた。 駅ビルの中の小さなパレードを、たった一人の女の子が夢のように描いていく。 夢の中は、カラフルな風船が飛び、歓声が上がり、人々が心の底から楽しんでいる。 そして、それは突然……。 落ちるように。 女の子はピアノに突っ伏した。 ジャーン……。 みんな、いったい何が起きたのかわからず、固まっている。気を失うように押され出た崩落の音が止み、静寂が喧騒へと変わっていく。そうして、ようやく周囲は彼女の異変にどよめき始めた。 女の子の近くにいた大学生くらいの男性が駆け寄って、ぐったりする彼女を椅子の背もたれにもたれさせた。彼は声をかけ、軽く肩を揺らす。そうすると、女の子は目を覚まし、男性の顔を見た。それで、男性は周囲の人たちに、彼女の無事を伝えた。 女の子はぼんやりとした目で、ただ白と黒の鍵盤を眺めて、残念そうとも楽しそうとも判別できない曖昧な表情を浮かべていた。しばらく、そうしていると、少しずつ顔に血色が戻ってきて、立ち上がった。 ごめんなさい。ありがとうございました。 女の子は頭を下げる。聞いていた人たちは演奏が終わりだと知ると、拍手をすることもなく、人混みの中にまた溶けていってしまった。ずっと頭を下げていた彼女も顔をあげると、荷物をまとめて、お守り役の男性とともにその場から去っていった。 僕はその二人の姿を遠くから眺めていた。 どうして、毎回、最後まで弾けないのに、あの女の子はここでピアノを奏でるのだろう。 いつもの喧騒にどっぷりと浸かってしまった僕には、頑張っても理解できない光景だった。
/151ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加