橘かれんの場合

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橘かれんの場合

 大学一年の夏、気になる人ができた。  普段、滅多に行かない図書館で彼を見かけた。  白衣に黒のサンダル。一見、大学の教員かと思ったけれど、そうじゃないと気付いた途端、分かりやすく二度見していた。  その彼は、数冊の分厚い本を手にすると、足早に受付へ向かい、貸し出しの手続きを済ませるなりすぐに図書館を出て行った。持っていた本を慌てて本棚に戻し、見失わないように彼の背中を追いかけた。  しばらくして、私の通う校舎とは違う建物へ向かっていることに気付き、さらには、そこが大学院であることに気付いた。  廊下の角をいくつか曲がると、突き当たりにある部屋へと入って行った。  その部屋の上には、遠慮がちに「研究室A」と書かれていた。  そこで一旦、冷静になる。  ──何してるんだろう私……  思ってから、来た道を引き返した。  院生と私とでは、どう考えても釣り合うはずがない。この大学に受かったことですら、私には奇跡でしかないのだから。  私の勝手なイメージは、理系の代名詞は白衣で、文系の代名詞はメガネだ。イメージが古すぎると友達に言われたことは、もちろん言うまでもない。今では文系でも白衣を着るし、理系に関わらずメガネをかけている人はたくさんいる。  追いかけてきたその彼も、メガネをかけていた。  そんな彼が、「研究室A」と書かれたこの部屋の中で、私には到底理解のできない研究に日々を費やしているのだと思うと、尊敬する反面、私とは全く世界が違う人間なのだと、嫌でも思わざるを得なかった。  諦めるしかないと、分かりやすく肩を落としていたけれど、それでもやっぱり、彼がどんな人なのか知りたくて、次の日から、こそこそと彼の姿を探すようになった。  図書館の中を目的もなく歩き回るくらいなら誰にも怪しまれずにいれたけれど、大学院の入口ともなると、人が通るたびに意味なくスマホをいじってはどうにかやり過ごしていた。  ──これじゃあまるで……  わざわざ確認しなくても、自分の行動が何を意味するのか分かっている。それでも、話しかける勇気はなくて、あわよくば彼から声をかけてはくれないだろうかと、そんなずるいことを考えていた。  ほんの少しの希望を胸に、今日もまた、ストーカー紛いなことをしながら、今日こそは、今日こそはと、一応は思ってみる。けれどいつも、本当に思うだけだった。  行動に移さなければ、なんの意味もない。  自己嫌悪になりながらも、今日あたり、借りた本を返却に来ないだろうかと図書館で待ち伏せをしていた。その時、知らない男の人に声をかけられた。 「ねぇ」  遠慮がちに見上げ、とりあえずの返事をする。 「最近学院の入口によくいる子だよね」  そう言って小さく笑うから、穴を掘ってでもそこに入りたいほど恥ずかしくなった。 「院生じゃないよね?」  笑顔のままで言われた。 「……あ、はい」 「彼氏でも待ってるの?」 「いえ……」 「じゃあ、もしかして好きな奴でもいるの?」  その人の誘導尋問とも取れる質問に、分かりやすく言葉に詰まった。 「当たってんだ。俺の知り合いなら紹介するけど?」
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