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水面に浮かぶ白い腹。それを目にしたとき、紗己子は失神するかと思った。それほど驚き、同時に恐怖したのだ。
金魚が死んでいた。
水槽を揺らしてみたり、軽く叩いたりしてみるが、状況は変わらない。艶やかに色付く背中をひっくり返し、ぷかぷかと水に浮かんでいる。
「どうしよう……」
自然とつぶやきがこぼれた。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
紗己子はうろうろと部屋のなかを歩き回り始めた。無駄な行為だ。しかし、こうでもしていないと、今にも空が落ちてきそうな絶望に、押し潰されてしまいそうだった。
一月前、縁日で、父に買ってもらった金魚。
紗己子の両親は忙しいひとたちだ。一人娘の紗己子を置いてけぼりにして、帝都の屋敷を空けていることが多い。そんな現状を申し訳なく思ってくれているのか、屋敷へ帰ってきた両親は、紗己子の我が儘をなんでも聞いてくれる。
ただ、唯一、生き物を飼うことにはいい顔をしなかった。犬や猫を欲しがる娘に、「命には責任を持たなければいけないよ」、と。生き物を飼ったとして、両親が留守にしている間、その責任を持つのは、最終的に紗己子ということになる。まだ数えで七歳の紗己子には荷が重いと、両親は判断したようだった。
でも、それでも、寂しかったのだ。
この屋敷はあまりに広すぎるから。
使用人がいて、世話をしてくれるひとがいて、それでも紗己子にとって、父母のいない屋敷は空っぽだった。何でもいいから、ずっと自分に寄り添ってくれるモノが欲しかった。だから———。
「お父さん、お母さん。わたし、あの金魚がほしい」
あれくらいならいいでしょう? 娘の必死さに、両親は顔を見合わせた。そして、
「金魚くらい、いいんじゃない、あなた。世話だってそんなに難しくないわよ」
「そうだなぁ。紗己子、きちんと世話をするんだよ」
「もちろん!」
紗己子の部屋には小さな水槽が置かれ、その中には可愛らしい金魚が泳ぐことになった。紗己子だけの金魚だ。ずっとそばにいてくれる代わりに、紗己子が生かしてやらなければならない。わかっていたし、そのための努力だってしていたはず。
それなのに。
餌は? 毎日あげていた。水は? 定期的に換えていた。……次に両親が帰ってくるのはいつ?
忙しく思考を巡らせていたせいだろうか、紗己子はふいに足をつんのめらせてしまった。そのまま倒れ込む。ビロードの絨毯が衝撃を和らげてくれたおかげで痛みは少なかったものの、紗己子の丸い瞳には、じわりと膜が張っていた。
「金魚くらい、いいんじゃない」
母の言葉が蘇る。
金魚くらい、いいんじゃない。それくらい、この子でも世話ができるでしょう……。
「……どうしよう」
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