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それからというもの、紗己子は自室に閉じこもりきりになった。外へ出れば、知らぬ間に、誰かの目に金魚が触れてしまうかもわからない。そう思うと、水槽のそばを離れることができなかったのである。
掃除に来たと言う女中を追い返しながら、途方に暮れる。いつまでも、こうやって誤魔化しつづけられるはずがない。先ほどの女中だって、わけも言わずに閉め出され、訝しげにしていた。
紗己子は扉の前に座り込む。秋も始まったばかりだというのに、部屋がひどく冷えている気がして、しきりに二の腕を摩った。
そのときである。
沈黙のなか、コツ、と物音。ノックに似ているが、扉がたてた音ではない。
瞬きをする紗己子の視界の端で、窓越しに小さな影が跳ねた。コツ。硝子を叩くそれに、慌てて駆け寄る。
窓を開けると、二階にある紗己子の部屋を見上げるようにして、少年が手を振っていた。
「治生……」
少し前から奉公に来ている下男だ。年が近いこともあり、よく紗己子の遊び相手になってくれる。しかし、ふたりが親しくしていると、周囲はあまりいい顔をしないので、会うときは人目を盗むようにしていた。
紗己子は慌てて周囲を見渡し、人影がないことを確認してから、窓辺に身を乗り出す。
「治生、どうしたの」
抑えた声で訊くと、
「お嬢さんこそ、どうしたんです。いつもならとっくに外へ遊びにいらっしゃってる時間じゃないですか」
「えっと……」
「おれ、ずぅっと待っていたんですよ」
ふてくされたように言う治生。紗己子とて、外へ行って、飯事や鬼事をしたい気持ちはあった。しかし、今はいつもではない。
「あの」とか「その」とか、もごもごと口を動かしたあと、
「……きょ、今日はいかない」
「どうして?」
あんまりな答えに、治生が目を丸くする。正直にわけを言うことはできないが、かと言ってうまい言い訳も思いつかない。さっきだって、女中を部屋へ入れないのに、とても苦労したのだ。
「治生、あっちに行って。だれかがきたら……」
「大丈夫ですよ、誰も来ません。そういうときを見計って来たんです。それよりお嬢さん、もしかして、おれに怒っているんですか。昨日、鬼事のとき、あなたの服を泥で汚してしまったから」
「あれはわたしがころんだせいよ、治生に怒ったりしないわ」
「じゃあどうして出てきてくれないんです」
「……」
「お嬢さん?」
太陽のひかりを吸い込んで、煌々と輝く瞳が見上げてくる。
「お嬢さん、なにか困ったことでもあるんですか」
問いかけに、心臓がどきりと跳ねた。
「なんにもないっ。わた、わたし……いそがしいの、お勉強がたくさんあるから」
「お勉強」
「だから今日はだめ」
「じゃあ明日は」
「明日もだめよ」
「いつならいいんです?」
「……わかんないわ」紗己子は大きく息を吸った。「そんなの、わたしにだって、わかんないわ!」
両親が帰ってくるのは一週間後。それまで隠し通せたところで、どうなるというのだろう。わからない。それでも、本当のことを言うのが怖い。
頭を引っ込め、窓を閉める。床に蹲った途端、後悔の念が噴き出してきた。治生は、いつまで経っても現れない紗己子を心配してくれていただけだ。だというのに、あんなふうに八つ当たりされて、きっと失望したに違いない。
すっかり落ち込んでしまい、床に蹲って、どれくらい経っただろうか。コツコツ。今度こそ、ドアを叩くノックの音が響いた。のっそりと顔を上げる。
「……だれ」
「お嬢さん、おれです」
文字通り、紗己子はその場でとび上がった。聞き覚えのある声。というより、先ほど聞いたばかりだ。
扉を開けるなり、隙間から覗く小さな手——紗己子に比べれば大きい——を、部屋のなかへと引っ張り込む。きょときょとと瞬きしながら見つめてくる治生に、紗己子は意味もなく足踏みをした。
「なにしてるの、治生はこっちにきちゃダメなのにっ」
「でも」
「だれかに見つかったら!」
使用人とて、屋敷の大抵の場所は行き来自由だ。しかし、治生は幼いこともあり、紗己子や両親の部屋がある二階への立ち入りを禁じられていたはず。だからいつも、紗己子が外へ出て、ふたりで遊んでいたのだ。
「見つかったら、は、治生、やめさせられちゃうかもしれない……っ」
まさか泣かれるとは思っていなかったのか、治生が慌てたように顔を覗き込んでくる。土と花の匂いが鼻先をくすぐった。
「ごめんなさい、お嬢さん。二階へ来ちゃいけないことはわかってるんです。でも、あの、おれ、心配で……ねェお嬢さん、やっぱり何かあったんでしょう? だって、様子がおかしかったもの」
仕事があるだろうに。
見つかったら、きつく叱られてしまうはずなのに。
それでもこの部屋へやって来た治生に対し、焦りとか、喜びとか、相反する感情が入り混じって、次の言葉が出てこない。黙りこくる紗己子を宥めるに、治生は穏やかな声音で告げた。
「あのね、お嬢さん。おれはこの通り、このお屋敷の使用人です。けど、だけど……誰にもひみつですけれど、おれの本当のご主人は、お嬢さんだと思ってるんです」
「わたし?」
思いもよらぬ言葉に、目を丸くする。
「そりゃ、お給金を払ってくださってるのは旦那さまですよ。けど、旦那さまも奥さまも、めったにお屋敷にはいらっしゃらないじゃないですか。お嬢さんはちがいます。ずぅっとこの屋敷に、おれたちの近くにいてくださいます。そっちのほうが、よっぽど本物のご主人ですよ。だからね、おれは、お嬢さんの力になりたい。主人の役に立つのが、使用人ってモンでしょう」
紗己子を見つめる治生の目は、とても真摯だ。彼の言葉を聞いて、ぐちゃぐちゃに入り混じっていた感情が、少しだけ落ち着くのがわかった。
……このひとなら、わたしにガッカリしても、そばにいてくれるんじゃないだろうか。
そんな期待が、心のなかで、うっかり鎌首をもたげる。
紗己子はぽつりと、
「……ひみつにしてくれる?」
「もちろんですよ」と治生はうなずいた。
「だいじょうぶです、おれは信用できる男です。だっておれ、実はお嬢さんが勉強をたくさん溜め込んでいらっしゃるのを知ってますけれど、それをおとなに言いつけたこと、ないんですからね」
そんなことを得意げに言うものだから、紗己子は、金魚が死んではじめて、少しだけ笑った。
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