きみは花の下

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      *  少しだけ穏やかな心持ちになったはずの紗己子だったが、いざその時が来ると、どうしようもなかった。水槽を覗き込む治生の背から目を逸らしながら、何度も頭の中で反芻してきた事実を述べる。 「ちゃんとお世話してたの。餌もあげてたのよ。でも、でも……死んじゃったぁ……」  実際に口に出し、音にしてみると、なんと薄っぺらい言葉だろうか。紗己子は絶望した。治生が振り返るのを、まるで断頭台に立つ罪人のような心地で待つ。 「お嬢さん」 「う、うん」  きた。 「コイツ……」  水槽を見つめたまま、思わずといった様子のつぶやき。「な、な、なぁに」ひどく吃りながら紗己子が聞くと、そこでやっと、治生が振り返った。紗己子の目に触れないようにか、さりげなく、水槽を隠すように立ち位置を直しながら。 「ううん、何でもないです。お嬢さん、コイツのこと大事になすっていたものね。悲しかったでしょう」  紗己子は瞬きをした。  悲しい。そうだ、とても悲しかった。本当に大切にしていたから。 「うん」 「事情はわかりました。悲しいけれど、生きものっていうのは、こういうもんですもんね。いつかは皆、死んじまう。難しいでしょうが……あまり、気を落とさないでください」 「……うん」 「いっしょにお墓を作ってあげましょうか。このままじゃあ、不憫ですもの」  わかっている。ぜんぶわかっている。いつまでも水槽に死体を浮かべていたって、どうにもならないということは、紗己子とてわかっていた。  治生は正しい。  それに比べて、わたしは。  再びはらはらと涙を零しはじめる紗己子に、治生が慌てる。 「ごめんなさい、おれ、またなにか失礼を?」 「ちがうわ」紗己子はすぐさま否定した。そうではなくて、「お父さんやお母さんが、このこと知ったら……」  結局のところ、すべてはそこに行き着いてしまうのだ。  父と母の顔が脳裏に浮かぶ。彼らは呆れた目をして、紗己子のことを見下ろしている。 「……嫌われちゃったらどうしよう」  嫌われたら。  嫌われたら。  嫌われたら……。  ……ふたりはもう、この屋敷に、帰ってきてくれないかもしれない。  叱られるのは構わない。紗己子には、ただそれだけが恐ろしいのだった。そうしたらほんとうに、本当に、ひとりぼっちになってしまう。 「まさか。おふたりがお嬢さんを嫌うだなんて、ありえませんよ」 「そんなの、わかんないもの」 「お嬢さん」  治生が困り果てた表情になる。慰めの言葉だとわかっているのに、彼の優しさを無駄にしている自分に腹が立つ。けれど、今の紗己子には、楽観的な希望を抱くことができなかった。  ふたりして黙りこくっていると、部屋には沈黙が訪れる。それを破ったのは、治生の神妙な声だった。 「もしかしたら」確かめるように、治生は言う。「どうにかできるかもしれません」 「え?」 「を用意すればいいんですよ。でもね、お嬢さんも協力してくれなくちゃいけません。ひみつにしろと仰いましたよね? それを、今だけじゃない、ずっとおれたちだけのひみつにするんです。ずっと、ずぅーっと……」  紗己子は困惑した。どうにかするもなにも、金魚は死んでしまっている。その代わりなんて、いるはずもない。  ただ、治生の目が、紗己子の部屋へ訪れた時のように、まっすぐだったから。  ——本当にどうにかなるような気がして、うなずいてしまった。それくらい、紗己子はなにかに縋りたかった。
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