2.過去、おじさん

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2.過去、おじさん

   人通りの少ない交差点。その日のぼくは傘を持っていた。濃いグレーの、柄が木製の傘だ。ぼくはそれをそこそこ気に入っていた。そんな僕の視界に不意に青空が飛び込んできた。  なんのことはない、ぼくの横をすり抜けたおじさんの傘が青色だっただけ。よくよく見るとそれは空よりも濃いめの青をしていた。群青色、というのだろうか。どちらかというと夜空だよな、どうして青空だと思ったのだろう。いつもだったらこんな雨の日は俯いて他人なんて気にもかけず、一直線に家に帰っている。なのになぜだが、その青色から、見え隠れするくたびれた背広から、目が離せなかった。追い抜かれた際に一瞬だけ見えた、そのおじさんの横顔があまりにも哀しそうで。いや、その人の口元は微かに上がっていた。…そう。笑っていたんだ、笑おうとしていたのだと、思う。でもそれにしては余りにも、その人の雰囲気は哀しさに満ちていて。…だから、だろうか。それとも。ぼくが持つ厄介な元々の性質のせいか。その他人(ひと)のことがやけに気にかかってしまったのは。  おじさんはぼくを追い抜いた割りにはここら辺の地理に詳しくない様で、手元に持った地図や周囲を見ながら、たまに立ち止まったりしながら、のろのろと歩いていく。今時、地図なんて珍しい。つい、そのおじさんに対する興味が湧いてしまったのが幸か不幸か。  昔っから自分の好奇心に抗えない性質だった。疑問を覚えてしまったら、その答えを明確にしないとどうにも体がむずむずするのだ。何度もこの性格のせいで痛い目にあっているくせに、それを治すことをしなかった。それ故、今回もそのおじさんが気になってたまらなくなって。思わずその背中を追った。知らない人の後をつけるなんて、まるでストーカーみたいだと、頭の片隅で小さな声がしたが、聞こえなかったふりをして、おじさんを密やかに追う。  おじさんは、ぼくの数メートル先を歩いている。必要以上に距離を取っているのは、こっちの姿があちらに見えることを考慮した為だ。雨の日は、人が少なくて追いやすいが、配慮しなければいけないことも多い。下手に隠れたりしないで、自分もたまたま目的地がこちらなのだといった顔をして歩く。雨でよかった。万が一、振り向かれても、傘で顔は見えないだろう。警戒するのに越したことはないのだ。普段はさほど回らない頭がこういう時に限って素早く回るのが楽しくて、思わず笑みが零れる。そして、ふと我に返る。…一体ぼくは何をしているのだろう。こんな雨の中、知らないおじさんをこんな真剣に尾行したりして。楽しいけれど。好奇心には逆らえないけれど。でも、前からそれで痛い目にあってきたじゃないか。好奇心は猫をも殺す、というのに。でも、それで止めたためしなんてなかったじゃないかと、ぼくの中で好奇心が囁く。でもこれは、モラルに反するだろうと、越えてはいけない一線を越えているだろうと、ぼくの中で僅かに残った良心が、喚いている。そんなもん、今更だ、アノヒトに対してやったことに比べれば、と刃を持った好奇心が、良心を刺した。何度も、何度も。良心が薄れていく。好奇心は良心をも殺していく。 …ああ、本当に。今更、だな。ぼくはいつの間にか閉じていた瞼を押し上げる。 「…っ。」その視界に、入ったのは黒い背広。おじさんは立ち止まっていた。 ぼくも立ち止まる。距離をとっていて良かった。首を傾げる。おじさんが立ち止まったのは、何の変哲もない何処にでもある、赤い物体の前。誰かのための言葉を運んでくれるもの。おじさんの持つ傘と対照的な赤い色。    ポスト。 なんで、ここなんだろう。いや、もちろん手紙を出す為、なんだろうけど。でもおじさんはこの辺に詳しくないみたいだし、ポストならどこにでもあるし、なのに。なぜここで。どこかからの帰りで、という可能性はどうだろう。でも、あの一瞬見えたおじさんの表情は、どこかに行った帰りのついでに、といった感じではなかった。なにかを必死に探していて、でも見つからないことを望んでいるような、そんな。ぼくは今立ち尽くしている、おじさんの表情が見たくて見たくて、堪らなくなる。 ぼくは立ち止まっていた足を一歩前に出す。そのまま足を速めてさりげなくその人の横を通り過ぎる、振り返らずに。  おじさんは、ぼくが横を通り過ぎてもポストの前で突っ立ったまま、微動だにしなかった。ただただ、俯いて、赤いそれを見つめている。 ぼくは、近くのカフェに入る。ドアベルが揺れた。雨のせいか、それとも中途半端なこの時間帯のせいか、人の姿はあまりない。 いらっしゃいませ、一名様ですか、という言葉に適当に頷く。 お好きな席にどうぞ。店員の高く作られた声が少し耳障りだった。 ぼくは、ポストが目線の先にちょうど見える窓際の席に移動した。 背中に背負っていた荷物を下ろす。お冷が目の前に出された。 「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びくださいませ。」 若い女の人だった。といってもぼくよりは歳上に見えた。おそらく二十四、五だろう。 ぼくはメニュー表に目を落とす。オリジナルコーヒー、イタリアンブレンド、カプチーノ、カフェオレ、ココア。僅かだが、軽食もある。サンドイッチ、サラダ、季節のデザート。カフェに入ったはいいが、持ち合わせが少ないことを思い出した。それにそこまで長居するつもりでもない、ただぼくは自分の好奇心を満たしたいだけ。尚且つぼくは、甘党だ。珈琲なんて飲めたものじゃない。なんとか出せるだろう、飲み物一つくらいなら。ぼくは近くを歩いていた店員さんを呼び止める。 「…すみません、ココア一つください。」 「はい、ココアをお一つですね。ココアは冷たいものと温かいものがありますが、どちらにいたしましょう。」  いかにも接客業に向いていそうな温和な顔。手が(かじか)んでいた。 「温かいので。」 「かしこまりました。ココアのホットがお一つですね。ご注文は以上でよろしいでしょうか。」 「はい。」 「では、少々お待ちくださいませ。」 声が太めの男の人だった。店員さんに軽く頭だけの会釈をし、ぼくは雨粒が張り付いた窓ガラスに目を移す。否、その奥の赤いポストに目線を向ける。  おじさんは、まだそこにいた。雨のせいだろうか、涙は流れていないのに、泣いているみたいだった。なぜ、そんなに哀しい顔をしているのだろう。なのに、なぜ口元は弧を描いているのだろう。疑問は次から次へと湧いてくる。でも、ぼくは赤の他人だから直接問い詰めることはしない、というかできない、する必要性も無い。そんなことをしたら確実に不審者だ。それにぼくには、喋ったこともない年齢も何もかも違う他人に、初対面でそんな疑問をぶつけて、その人の事情に踏み込むほどのコミュニケーション能力の持ち合わせなどない。ぼくができるのはただ見ていることだけだ。勝手に想像し、凶暴な好奇心を満足させられればそれでよかった。数週間前のぼくと、同じ表情をしているその人の行動を。  雨の隙間から微かにおじさんの手が動いたのが見えた。ゆっくりと、鞄の中から、華奢なものを扱うような手つきで。そっと、取り出した、ビニールに包まれた封筒。分厚くもなく、薄っぺらくもない。  …ああ、やっぱり。おじさんは、同じだ。誰か、大切な人にそれを送るんだと、わかってしまう。ぼくの中の気持ちが、暴れ狂う。アノヒトの影が脳裏に蘇る。いたい。いたい、とどこかで声がする。硝子に薄く反射したぼくの表情は、おじさんの表情と、よく似ていた。  おじさんは、封筒の表面を親指で柔らかく撫でている。大切な人との時間を想いかえしているんだろうと、わかる微笑み方。幸せそうな、優しい笑み。ただの遠距離の恋人に送る手紙なのかもしれないと、ぼくの予想が外れているのかもしれないと疑ってしまうくらい、羨ましいくらい。…愛おしいものを想っている顔だ。でも。唐突に、柔らかく弧を描いていた唇がキュッと結ばれたのが、遠目からでもわかった。  …ああ。くしゃくしゃっと崩れる。夜空が落ちる。おじさんの動作がコマ送りにゆっくりと動いているように見えた。  その時ぼくは、入れないでくれ、と願っていた。入れるだろうことは分かっていたのに、性格悪くそれを期待していたのに。入れないでくれたら、あの日、ぼくが投函した手紙も、無かったものになるような気がして。そんなことはないのに。過去は変わらないのに。馬鹿みたいだ。もう、終わったことなのに。    おじさんは、するり、と手紙を、ポストの中に吸い込ませて。落とした傘を拾い上げて。去っていった。その背中は晴れ晴れとしているようでいて、やっぱり泣いているようにみえた。  それを見て、カっと目頭が熱くなる。その時、ぼくの中を満たしていたのは激情だった。その背中を、怒鳴りつけてやりたかった。手紙をどうにかしてポストの中から拾い上げて、追いかけて、カッコつけてんじゃねえよと怒鳴りつけたかった。こんなもの送りつけて楽になるとでも思ってんのかと諭して、おじさんが納得するまで話を聞きたかった。そんなことは、できないけれど。こんなもの決して赤の他人に抱くような感情ではないのだろう。だって、それは、ぼくが、ぼくに投げつけたい言葉だから。あの日のぼくに、投げつけたい言葉だから。馬鹿だ、ぼくは。何度も繰り返した言葉をもう一度反芻する様に咀嚼する。硝子の中の顔は歪んで、雨粒が涙の様だった。  「お待たせいたしました。こちら、ココアでございます。」 高い声がして一気に現実に引き戻される。そうだ、ここはカフェだった。いつの間にか、ぼくも雨に打たれている気がしていた。冷たかったあの日の雨に。  目の前に置かれた茶色い液体は仄かに甘い香りがする。最初に案内してくれた若い女の人だった。伝票をおいてにこやかに笑んだ、その人。笑顔でそれに会釈を返す。ちゃんと上手く笑えていただろうか。どうにか、何でも良いから甘やかされたい気分だった。  
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