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3.過去、アノヒト
ココアにそっと手を伸ばす。
あまい、あまい、あまい味がした。臓腑に染みわたるようなその感覚。
ああ、アノヒトは、このココアを大きな目を細めるようにして、飲んでいた。猫舌だから必死に冷まして、でもなぜかアイスココアは決して頼まなかった。温かいココアに触発されるようにして、暖かい記憶が目を覚ます。
ぼくは、あの時アノヒトと、一緒に居たんだ。一緒に居るのが当たり前だった、あのころ。ずっと昔の様な気がするけれど。もう、居ないけれど。
あのヒトは雨が好きだった。音楽のようだと言って。
綺麗でしょう、と言って笑っていた。ぼくにしたら、そんなアノヒトの笑顔の方が、ずっと綺麗に見えた。綺麗だ、と素直にあの時、言えていたなら。
なに言ってんの、とか茶化さなかったなら。アイスココアを頼まない理由を尋ねていたなら。そんな些細な行動から変えていたなら、変わったんだろうか。まだ一緒に居れていたのだろうか。あんな馬鹿みたいな独りよがりな手紙を出さなくても、済んだのだろうか。
ココアを啜って、アノヒトとの記憶を揺り起こす。
全ての原因は、ぼくで。自業自得だ。
好奇心の強い馬鹿なぼくはアノヒトが、どういう反応をするか、期待していたんだ。アノヒトを試したんだ。そんな必要性なんか、無かったのに。アノヒトとの関係性は、人に伝えるのには友達という枠組みしかぼくには思いつかなかった。出会った瞬間から同じ概念で言葉を交わせていた。語り合うのに何かを擦り合わせる必要はなくて、鏡合わせのように。ぼくはアノヒトのもので、アノヒトはぼくのものだった。幸せで、でも不安だった。ぼくたちの関係性を明確に言い表せる言葉がなかったから。だから、ぼくはそのぼくたちの関係性に気付かないふりをした。ぼくたちの関係性を、無理やりただの友達という枠組みに当てはめようとした。
ぼくは怖かった。いつか、変わってしまうのが怖かった。変わってしまっていつか壊れるくらいなら、他の人と一緒に居た方がましだと、思ったんだ。他の人なら、ぼくはぼくのままでいられるから。他の人を大切という枠組みに当てはめた。一番の枠を無理やり作ったんだ。幼稚だった。でもそれが必要だと。アノヒトとの関係性から、ただぼくは逃げ出したかったんだ。アノヒトは、ただの特別で一番ではないと。無理やり矛盾を矛盾じゃないようにして。
でもその時のぼくは、自分の感情全てに気づかないフリをして、自分を騙していた。だから、あっけらかんとアノヒトに、言えた。
特別な人が、出来たこと。
そしたらアノヒトは平然と。それなのにその目は、砕け散った硝子を抱いているように、ぼくには見えた。そしてアノヒトは「そっか。」と言った。
その時にはもう、聡いアノヒトは全部、ぜんぶ、解っていたんだろう。ぼくの弱さも矛盾も自己保身も。ぜんぶ、わかっていて、受け止めて、それでぼくの言葉に返事をしていたんだろう、と今ならわかるのだ。現在なら。今なら。…今更だ。
――そっか。そうなんだ。おめでとう。
―うん。…え、それだけ?
―なに言ってんの。
ぼくのセリフに少し、アノヒトは笑っていた。どんな気持ちで、笑っていたの。なんで、笑えたの。そのあと、アノヒトはふっと笑みを薄めて言った。
―…じゃあ…、これからは会いづらくなるね。
―…うん。…そうかもね。
ぼくは、アノヒトの顔が見たくなくて、窓の外を向いていた。その時見た桜色だけ、鮮明に覚えている。アノヒトの表情はおぼろげだというのに。
―あ、ごめん。ちょっと用事思い出したから、帰るね。
―…うん、またね。
―…ばいばい。
アノヒトは、手を振って笑ってすぐ出て行って。
そういえば。アノヒトはあの日、なにも頼んでいなかった、温かいココアも、大好きだと言っていたチーズケーキも。先に来ていたぼくの顔を一目見て、一瞬だけ止まって、それから、それから曖昧に笑って。彼女は、そのとき一体何を想ったんだろう。珍しくひらひらした可愛らしい服装をしていた。お互い久しぶりに予定が合ったから。いっぱいいっぱいだったぼくはその服装を春らしいな、と思っただけだった。アノヒトに、そろそろ言わなくてはと。ぼくがこのカフェに呼び出したんだ。アノヒトは何を想ってあの服を選んで、此処に来たんだろう。それはとても単純なことだったのだろう。それでも、聞けばよかった。なにも、なにも聞かなかった。
アノヒトが、居るだけで良かったんじゃないのか。好奇心なんか糞くらえ。変化するのが怖いなら、アノヒトにそう言えばよかったんだ。アノヒトはきっと笑って大丈夫と言ってくれただろう。あれからアノヒトから連絡が来ることは、めっきり無くなって、ぼくはその変化に戸惑って、アノヒトのことが気にかかって、大切にしていたその人もどうでもよくなって、アノヒトとようやく話しても喧嘩ばかりで。アノヒトもぼくも疲れ果てて。でもそれでも、ぼくは暖かかった記憶に縋った。壊したのは、ぼくなのに。
アノヒトも自分も変わってしまった。そう諦めて手を放したのは、またしてもぼくだった。笑えるだろう。素直に、恥も外聞もなく、気持ちを伝えられたなら、将来とか、一般的な常識とか、自分のプライドとか、かなぐり捨てて、捨て身でもなんでもアノヒトの目を見て、全部自分の気持ち言えたなら。全てが、今更だった。あの頃のぼくが選択したのはアノヒトに別れの手紙を書くことだけだったのだから。
ぽつん、ぽつんと。水滴のせいでココアが薄くなってしまう。アノヒトは雨が好きだった。綺麗だと言ってくれるだろうか。馬鹿じゃないのか、そんな訳ないだろう。自分で思って、笑ってしまう。アノヒトの笑顔が、好きだった。アノヒトの発する言葉が、好きだった。それが自分に向けられているだけで、子供なぼくは、うれしくて幸せで、それだけでよかったはずなのに。いまでも、いまでもさ、とてもとても、大切に想っているんだよ。そんなこと言っても、今更だけどさ。叱ってくれないかなあ。馬鹿じゃないのって、何言ってんのって。こんなこと、想うのもきっと甘えなのだろう。もう、きみは、二度と心を開いてはくれないんだろうな。そのことが、とても、哀しいんだ。でも、自業自得なのだろうね。
ココアが尽きて白い底が、顔を出す。甘やかすのも終わりだよって言われているみたいだった。外はまだ雨が降っている。あのおじさんは、ちゃんと家に帰れただろうか。アノヒトは、また雨を見て綺麗と笑っているだろうか。
もうすこし、此処に居よう。もうすこし、もうすこし、此処に居よう。
ぼくは、またぼんやりと、窓の外を眺める。赤いポストは当たり前に、まだそこに在って。今日もまた、カランコロンと、扉が開く音がする。
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