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4.現在
足元の水溜りが跳ねて、スニーカーに掛かる。
白色が湿り気を帯びて、薄く曇っていく。
コンビニからここまでほんの数メートルの距離なのに目的地に着く頃には、ぼくはずぶぬれで体の芯まで冷え切っていた。
あの群青色の傘を持ったおじさんを追いかけたあの日から、このカフェには久しく来ていなかった。人通りが多い方ではないので、もしかしたら無くなっているかもとも考えたが、その扉は以前と変わらず、電球を灯してそこに在った。どうしても、ここにくるとアノヒトを思い返してしまうから、立ち寄れなかったのだ。でも、あの時感じていた感情は、もう薄れかけてきていた。傷が治るように、アノヒトへの感情は平坦になりつつある。それでも春に雨が降ると、アノヒトの姿を、声を探してしまうけれど。
背中を風が撫でていく。その風は微弱なものだったが、今のぼくには十分に寒気を誘った。さっさと中に入ってしまおう。それで温かい珈琲を飲もう。一年前の珈琲を飲めずにココアばかり飲んでいたぼくはもういない、人は変わるものだ。
扉を引くとドアベルが鳴る。懐かしい音だった。頭の先からスニーカーまでびしょ濡れのぼくを見て店員達が僅かに固まる。一人の店員がタオルをお持ちしましょうか、とぼくに聞く。有り難くそれを受け取って、一年前と同じ席に着く。赤いポストの見える位置。勿論そこには誰も居ない。侘し気にポストが佇んでいるだけ。走ったせいかなんだか脚が重たく感じる。最近の運動不足を痛感する結果だ。
注文を取りに来た店員に珈琲をひとつ頼む。勿論ホットで。珈琲が来るまでの間、特にすることもないのでただ窓の外を見ていた。雨が綺麗、と言ったアノヒトの感覚が、今のぼくにはあの頃より遥かに分からなくなってしまった。頭の隅に鈍痛をもたらす、ただただ鬱陶しく厄介な存在にしか思えない。あの頃のアノヒトに今のぼくが会ったなら、雨を植物達は痛いと感じているらしいよ、なんてネットでちらりと見かけた記事のことを意地悪に言うかもしれないな。そのくらいぼくは捻くれてしまった。
「お待たせしました。ホットのブレンド珈琲でございます。」
差し出された、黒い液体を無感情に眺める。飲めるようにはなったけれど、未だこの液体をあの頃のココアと同じくらい美味しく感じられたことはなかった。まるでアノヒトへの当てつけのようにぼくはこれを飲み始めたんだ。掻き消したかった、あの甘みを。今も、そうだ。舌に残るのは渋めの苦みだけ。平坦になりかけていた感情が、思い出がむくりと芽を出しそうで、俯く。そのままテーブルの上に突っ伏して、頭を埋める。変われたと思っていたのに、ぼくはただ誤魔化していただけだったのだろうか。雨音がやけに鼓膜に響いて、春時雨なんて綺麗な名前の癖に全然美しくなんてないじゃないかと心の中で毒づいた。アノヒトはまだ、綺麗だと笑うだろうか。アノヒトの笑顔が見たかった。もう、記憶の中の君は、擦れて薄れて見えないんだよ。
あの日出した手紙に返事はなかった。それが答えだとぼくはアノヒトに連絡を取ることはしなかった。あの頃のぼくはアノヒトから返事が来ることを期待していた、のだと思う。でも次第に忘れようとそれがお互いにとって良い事だと思うようになって、その感情は今もずっと在って。
会うべきではない、会いたいけれど。ぼくはいつも矛盾してばかりだ。グッと額を腕に押し付ける。なんだかこのまま眠ってしまいたかった。昨日はなんだか寝つきが悪くて夜中の三時ごろまで起きていたから。今日は今日で大学の用事を済まさなきゃならなかったし。少し、少しだけ。
ドアベルが新たな客の来訪を告げて。
いらっしゃいませ。
おひとりさまですか。
お好きな席にどうぞ。
作られた多くの声。それに少しの安堵を覚えて、瞼を軽く閉じてみる。
足音がした。アノヒトは足音がリズミカルだったのを思い出す。
トン、トン、トトトン。
まるで踊っているような、ステップを踏んでいるかのような、楽しい音。
今聞こえている足音は平坦で。
それでもぼくの耳には少し、懐かしい軽やかさを伴っている様に聞こえて。
ここは、アノヒトとよく待ち合わせしたカフェだった。
平坦だった音が小走りになって、リズムを伴う。
トン、ト、トトト、ン。
足音はぼくのそばで止まって。まさか、と思う。
期待しているのだろうか、ぼくは。
目を開けるのが怖かった。アノヒトじゃない、アノヒトであるわけがない。
それでもアノヒトであって欲しかった。ぼくは瞼を押し上げる。足音はしなかった。ぼくはゆっくりと上体を起こす。テーブルに薄い影がかかっていた。影はまるでぼくを見つめているかのように微動だにしない。ぼくはその影を作り出している人物の方を向く。
ぼくの表情はきっと強張っているだろう。
ぼくはなにも変われていない、君の事が、今でも、。
「雨が、」
「綺麗だね、今日も。」
心地よいソプラノが、ぼくの鼓膜を揺らした。
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