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5.答え合わせ、休息。
「君の方が、綺麗だと思っているよ、今でも。」
寝ぼけて呟いたソノヒトの顔を私は見ていた。愚かな人だなぁ、と思う。
どんな都合の良い夢を見ているのやら。カフェで寝るなんてどれだけ疲れていたのか、以前なら絶対にそんなことはしなかった。寝ているソノヒトの顔には、濃く隈が浮き出ている。以前は無かった隈だ。そっと触れて起こしてやったらどんな反応をするのだろう。試してみたい気もしたが、それだとここに来た意味がないと、気を引き締める。今日は叱りに来たのだ。
実を言うと、ここのカフェは私の叔父が経営しているもので、もし店にまた彼が現れたら連絡してほしいと頼んでおいていた。これは賭けだった。彼がいつ現れるか分からなかったし、そもそも来るかどうかすら。
彼から手紙をもらったあの日、私はもう完全に彼との関係性は終わったのだと、彼は私から逃げたかったのだと理解した。ならば、追わないほうがいいと、そう思ったのだ。戻ってくる確信はなかった、だって、彼は何度も私の手を離したから。だからこそ、これは賭けだった。
もし戻ってきたのなら。何もかも私は彼にちゃんと伝えようと思ったのだ、昔感じていたことや今思っていること。彼が起きたら私は身勝手だったソノヒトの行動を詰るだろう。手紙の本意もソノヒトの口からきかないと気が済まない。ソノヒトはうんざりするかもしれない、また喧嘩になって手を離されてしまうかもしれない。でも、今度は私が手を引いて、ちゃんと仲直りをしよう。昔の私たちは、お互いにお互いのことを長い言葉で語り合うのを忘れていた。感覚で全てを、短くても伝わると思って、疎かにしていた。
もう、同じことは繰り返したくないから。
拙くても何も形に出来ていなくても、言葉にすること自体が大切なのだと、そんな当たり前のことをソノヒトと離れていたこの一年間で思い知らされた。
――ああ、でも彼はきっとそこまで考えていない。
きっと忘れる事に全力を傾けていたのだろう。
そういうヒトだ。不器用な、可愛いヒト。
彼の濃い隈、幾分か華奢になった肩。
全体的に彼は小さくなったようだった。愚かだなぁと私は又想う。
早く、目を開けて。
話がしたい。声が聴きたい。控えめな笑みを見たい。
でも、今は、まだ。
少し密やかになった雨音を聴きながら、私はココアを啜る。
もう少し。もう少し、このままで。
もう少し、此処に居よう。君の寝息と雨音を聴きながら。
「やっぱり、綺麗。」指先で触れた硝子は、当たり前に酷く冷たい。
硝子の奥には赤いポスト。
車道を挟んだ奥の歩道に、群青色の傘と空色の傘が寄り添って歩いているのが、ぼんやりと見えた。仲良しなのね。
彼の傘は濃いグレー。私の傘色は濃い赤色。
まだ、対の色には戻れないけれど。
それでも、一緒に居たいのよ。感情ってそういうものでしょう。
私はまたココアを啜る。今はまだ、この安寧に浸っていよう。
ソノヒトが起きたら、答え合わせをしよう。
未だ私の中に巣くっている感情に任せて、ひっそりと瞼を閉じる。
あと少しだけ、このままで。
今日もまた、
カランコロンと、扉が閉まる音がした。
終
※この物語はフィクションです。
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