第1章ー1 Side A

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Summer  2カ月が過ぎ、梅雨の時期に入り紫陽花が似合う雨の日が続いている。空気は重くて、まるで私の気持ちを表してくれている。そして会いたさは増すばかりだった。  私の母は末期ガンで、昨年の始め頃から病院を出たり入ったりしていた。約一年半の闘病生活は私の手を煩わすほどでもなかったものの、気疲れと食事作り、「今買いに行って」「今から迎えに来て」という言葉にメンタルが一杯一杯になっていき、出口の見えない毎日に押しつぶされそうになっていた。そんな時にトオリくんに出会えて、私は神様がくれたご褒美だと思った。そしてあの飲み会で思ったのは、若いっていいなということだった。私の日常生活にはない、爽やかさや輝きや純真無垢な感じを味わうことで、忘れかけていた物を得られた気がした。トオリくんとの楽しかったあの日をふと事あるごとに思い出すことで、辛い時や苦しい時も、私は頑張れていて勇気づけられている。でも今、この窓から見えるのは相変わらずの見飽きた雨の風景で、私の日常を嘲笑っているかのように思える。でもご褒美を貰ったのだから絶対に負けない、と私は嘲笑う梅雨空に誓った。  病院から家に戻ると、私はトオリくんからの着信に気づいて、掛け直す。 「もしもし、トオリくん。」 「・・・。」 「電話もらったのに出れなくてごめんね。どうしたん?」 「・・・今、トオリ席外してます。」 「あ、すみません。何度も電話をもらっていたので掛け直しました。」 私は「これケータイだよね」と頭の中で繰り返し、ケータイの番号しか知らないはずなのにケータイの画面を確認する。 「この間の飲み会の人ですよね、カケルです。」 「はい。アキと言います。あの時はお世話になりました。」 「トオリには言っときますね。」       すごく驚いた。携帯電話なので油断していた。今の電話をカケルさんはどう思ったのだろうか。知られてしまったトオリくんはどうなるのだろうか。嫌な予感がしている。カケルさんは間違いなく、とても勘がいい人だと思うから。  電話を切るや否や、私は即座に病院に引き戻された。それ以上、トオリくんの電話の件を考える時間を与えられない状況に私は置かれた。そして、彼からは何度か着信があったが出ることは出来なかった。 “ごめん。今電話に出れない。また連絡するね” とだけラインで伝えた。その後、なぜかお互いにこの日のことを避けていて、ラインでも話題にすることはなかった。  梅雨が明けた頃、3カ月ぶりに東京に行くことになった。もちろん息子に会いに行くためである。そして、東京に行く予定があることを彼にもラインで伝えると、すぐに電話がかかって来た。 「会えるかな?」 「うん・・・でも友達と夕食済ませてからでいい?」 「いいよ。待ってる。家の場所、憶えてる?」 「なんとなく。」 「ラインで送っとく。」  電話の後、息子のことをまた友達と言ってしまった自分が少し恥ずかしかった。年甲斐もなく恋をしている私が、また会える事に舞い上がっている私が、会いたくて仕方ない私が確かにここにいる。  やっと約束の日がやってきて、息子との早めの夕食を済ませてから彼のマンションに向かった。息子には東京の友人宅に泊まると話したが、息子は気がついているかもしれない。私は迷うことなくマンションにたどり着き、インターホンを押した。ドキドキしている自分を認識する。 「アキ、久しぶり。待ってたよ。」 彼の笑顔が眩しくて嬉しかった。 「お邪魔します。今日は買ってきたよ。」 と言い、私はおつまみとビールの入った袋を私は見せた。 「ありがとう。」 と彼は言い、私を正面からぎゅっと抱いた。私は今日、実はこうされたくて仕方がなかったので、嬉しくてたまらなかった。 「よし、飲もうか。」 3ヶ月ぶりの再会は楽しい。辛い日常があった分程、更に楽しいと感じていた。トオリくんも同じ気持ちでいてくれるのかな?という心配が過ぎる。そして今日もあの日と同じように、2人の話は尽きなかった。そう、出逢ったあの日と同じように、彼と一緒にいると孤独を感じない。ずっと感じてきた、誰と一緒にいても、どんなに楽しく会話をしていてもスッと襲われる孤独感がないことを知った。私の欠けていた心は、今確かに埋まっている。  今日初めて私は、彼がビールを好まないと知った。そしてワインも実は好きではなくて、濃度の高いお酒を好むことを知った。私の飲み物がビールからワインに代わった頃だった。 「付き合う?」 と、彼が突然言った。 「え?」 「俺たち、こんなに合うんだよ。会えたのってほぼ奇跡で運命じゃん。いっその事、もうすっ飛ばして結婚しちゃう?」 そして、その答えを出すことは私には出来ないから、出会った日を思い出して言う。 「嘘!」 そんな私の言葉に彼は微笑んで言う。
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