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ミッションカード
「佐山亜希子さん。東京都M市在住の50歳。
夫とふたり暮らし。子どもは娘がひとりいるが、結婚後、大阪に引っ越して看護師をしている。亜希子さん自身は先週、突然の派遣切りに遭い今は何となく、仕事を探しているところである……ざっくりとだけど、合ってるかしら?」
私の目の前で話すのは、今いる事務所『ミガワリ』の所長でシオタという女性だ。
「どうして、私のことを?調べたんですか?!私はこのポイントカードを届けに来ただけなんですけど。それに、年齢は49で仕事を何となく探してるわけではなくて、派遣会社の方からの連絡待ちなんです」
「それは、ポイントカードじゃなく、ミッションカードよ」
えっ、そこ?!
ミッションカードって何?トム・クルーズでもあるまいし。ポイントだろうがミッションだろうが、私には関係ない。これを返したら、もうここには用はないのだから。
私はソファから腰を上げた。
「亜希子さん、アキさんて呼ばせてもらうわね……アキさん、ここで働きません?」
「はい?」
思いもよらなかったシオタの発言に、私の声が裏返った。
事の発端は、遡ること28時間前。
昨日の9時半頃、いつものスーパーに買い物に行った時のことだ。ポイント10倍になるその日は朝から混んでいた。この店のポイントカードは現金チャージのカードに貯まるタイプのものだ。
私のバッグの中には、スタンプを押してもらうカードも何枚か入っているが、ほとんど使わなくなったし、世の中がペーパーレスの時代に移行しているのだ。整理して、捨てないと…とバッグを探りながら、よそ見して歩いていたからなのか、私は向かいから来た客と派手にぶつかり、転倒してしまった。痛いというより、バッグの中身が散乱して恥ずかしい思いの方が強かった。お互い謝り、相手の女性も私のバッグの中身を拾い集めてくれた。
鍔の広い白い帽子、黒のサングラス、ノースリーブの緑のワンピース……このスーパーには些か不似合いだった。
私の食料品の買い物はいつもこのスーパーだったが、こんなマダムは初めて見た。
最近、都心部から引っ越して来たのだろうか。
私は帰宅後、バッグの中身を確認した。
失くなっている物はなさそうだが、逆に見慣れない物があった。どこかの店のポイントカードのようだ。5つしかないポイント欄は空欄で、裏返すと『ミガワリ』とへんてこな名前が印字されていた。その下に連絡先の記載があったので、私は念のため電話してみた。たかがポイントカードなのだが、さっきの女性のことが気になっていて、なんだか気味悪かったのだ。3回のコールが鳴り終わる前に繋がった。
「はい、ミガワリです」
女性の声で少し安心する。背後に強面の男がいるかもしれないが。
「もしもし、あのう、私、佐山亜希子という者ですが。今日の9時半頃、ヤスイスーパーでそちらのポイントカードのような物を拾いまして……」
「それなら、お手数ですが持ってきていただけますか?」
住所を聞き、翌日の昼から行くことになった。調べてみると、自宅から1時間半ほどかかる。思ったより遠かったが、派遣会社の倉田さんと次の職場を決めるのが午後4時だから、それまでには帰って来れるだろう。このカードを届けるだけなのだから。
スマホ片手に最寄りの駅から歩くこと10分。事務所のような建物の玄関脇に『ミガワリ』との看板を見つけた。その下には『坂田』の表札。坂田さんていう人がやってる事務所?
ともあれ、ここで間違いはない。
「すみませ〜ん、お電話した佐山ですけど〜」
私は分厚いガラスのドアを開けて、奥まで聞こえるように叫んだ。
奥から出て来たのは30前後の女性だ。電話に出た人だろうか。
「佐山さんですね、遠いところ、お疲れさまです。さあ、どうぞ」
私はその女性に促され、スリッパに履き替えて、後に付いて行った。玄関を上がると、だだっ広い床が広がっていた。壁はというと、鏡張りでバーが取り付けられてある。バレエ教室か何かだろうか。何もない床を通り過ぎると、やっと事務所らしい机と椅子。来客用のソファがあった。
「所長、佐山亜希子さんが来られましたよ」
所長と呼ばれたその女性は自分をシオタと名乗り、私の簡単なプロフィールを披露してくれたのだ。シオタは格好は違えど、今朝ぶつかった女性に似ていた。確信はないので何も言えなかったが。
そのシオタが私に仕事の誘いをしている。唖然とする私を無視し、シオタは続ける。
「アキさん、ここでしてもらうのは事務じゃないのよ。女優の仕事なの」
女優?
「アキさん、かつては女優志望だったのよね?夢を叶えるいいチャンスと思って」
そこまで調べているのか……。余計に気味が悪い。新手の詐欺か何かだろうか?
「私、派遣会社の人との約束があるので、これで……」
私はそそくさと立ち去った。まだ何か言っているのが聞こえたが無視して、半ば逃げるように事務所を出た。
帰り道スマホを見ると、倉田から着信があった。折り返しかけてみると、倉田の第一声がすみません、だった。
「どうしたんですか?」
「佐山さんに紹介するはずだった会社から急にもういらないと連絡が入ってきてしまって……。来週ぐらいまでには別の所を探して連絡入れますんで。今日の約束はキャンセルということで。本当にすみません」
あてにしていた派遣がなくなった。謝る倉田を責めてもどうしようもない。どっちみち、来週中には1度連絡してください、とだけ言って電話を切った。とりあえず、連絡入るまで家の片付けでもしようか。来週中といっても、本当に派遣先が決まるかどうかはわからないが。そんなことを考えていると、後ろから私を呼ぶ声がした。
「アキさん、待って」
振り向くと、『ミガワリ』のシオタじゃない方の女性が少し息を切らせて立っていた。
「これ、忘れてました」
彼女が差し出したのは、オレンジ色の長財布。確かに私の物だ。ポイントカードを財布のポケットに挟んでいたので、財布ごとバッグから取り出して、そのままソファに置き忘れたのだ。
「すみません。うっかりしてました」
「アキさん、今から派遣会社の方と会うんですよね?」
「あ、それなら、急に都合が悪くなって……」
「じゃあ、少しなら時間あります?もし良かったら、もう少し先に行きつけの喫茶店があるんですけど、行きませんか?」
案内されたのは、駅と『ミガワリ』の中間辺りにあるレトロな喫茶店だった。『トレモロ』と書いた木製の看板が掲げられていた。トレモロ?昔のアイドルがそんなタイトルの歌を歌ってなかったっけ?
ドアを開けるとカランカランと鈴が鳴った。
「美奈子ちゃん、いらっしゃい」
迎えてくれたのは70前後の女性。奥には同じくらいの歳の男性。夫婦でやっている店のようだ。
「いらっしゃい。美奈子ちゃんの友達かい?初めてのお客さんだね。見ての通り、今の時間は空いているから ゆっくりしていってね」
空いてるも何も、他にお客さんはいないのだが。
「奥さん、私はアイスコーヒーを。アキさんは?」
「私も同じで」
店内には昔の歌謡曲ではなく、ジャズが流れていた。
「ここはゆっくりできるから、しょっちゅう来てるんですよ。奥さんは人懐っこくて、マスターは穏やかな人です」
「美奈子さんていうんですね」
「あ、名乗ってなかったですね、すみません。私、坂田美奈子といいます。会社のみんなからはマリリンと呼ばれています」
マリリン?そういえば、そんな歌を歌ってた歌手の名前も美奈子だったような……。そこから来てるのかな。華奢な所も似てる気がする。
でも私はもう、この駅で下車することはないし、この人たちに会うこともない。
「そうなんですね」
そんな言い方しかできなかった。
「私の方が年下なんですから、タメ口でいいですよ」
いや、もう私とあなたはこれっきりなんだから……。
「アキさん、派遣の仕事がボツになったのなら、いっしょに働きませんか?所長が言った通り、女優の仕事です。なんなら、派遣の仕事が決まるまででいいのでやってみませんか?」
「なんでわかったの?派遣の仕事がダメになったって」
「だって、さっき、都合が悪くなったって。それに、アキさんの表情がさっき事務所に来たときとは違ってましたから」
「あ〜、顔に出てたのね?」
「はい」
私は思わず笑ってしまった。シオタはさておき、マリリンは話しやすかった。仕事の話、聞くだけ聞いてみよう。断るのはそれからでもいい。私は、マリリンといっしょに事務所に戻った。
「おかえりなさい」
シオタは私の顔を見ても驚いた素振りはない。
「これが契約書よ。もちろん、ムリなら途中で辞めてもいいけれど、ひとつの仕事は完遂してくださいね」
契約書まで準備していたの?用意周到過ぎない?!
驚きながらも私は契約書に目を通した。給料は派遣で行っていた工場の仕事よりもずっと高額だ。しかし、仕事内容は女優としか書かれていない。
「具体的にはどういう感じなんですか?ここって劇団なんですか?それとも芸能事務所か何かですか?」
「仕事内容は具体的に言えば、受けた依頼に基づいて、その人の身代わりになるということ」
依頼?身代わり?全くイメージできない。
「その話は後にして、ここのメンバーを紹介するわね」
さっきはいなかった大人と子ども2人ずつ。子ども?子役なの?
「今日から、ここで仕事をしてもらう佐山亜希子さんです。アキさんと呼んでくださいね」
「よろしくお願いします」
「じゃあ、私から自己紹介します。改めて、マリリンこと坂田美奈子です。ここではメイク担当です。よろしくお願いします」
マリリンが初老の男性に目配せした。
「私は今年75歳になります。みんなからはレンさんと呼ばれておりまして、主に運転手として働いております。よろしくお願いします」
レンさん?何年か前に亡くなった俳優さんに物腰が似てる。でも75にはとても見えない。
「次はアイとシンイチね」
「アイです。こっちはシンイチ。小4です。よろしくお願いします」
アイはしっかり者。シンイチはおとなしい子、といったところだろうか。
「次はユウジね」
「ユウジです。よろしくお願いします」
よく見るとイケメンだが、私を歓迎していないようにも思える。昔の大俳優の若い頃に面影が似ている気もするが……。
「最後は私。ここの所長をしていますシオタです。わからないことはなんでも聞いてくださいね。では皆さん、後は個々に動いてください」
もっと、みんなと話がしたかったのだが、一斉にいなくなった。
「アキさん、ここがアキさんのデスクです。
そして、早速なんですけど、最初のミッションよ」
シオタが自分のデスクから、USBメモリーを取り出した。
「この中に、依頼文や身代わりになる対象者の動画、関連資料なんかが入っています。アキさんはその人になりきって、身代わりを完璧にこなすことがミッションなの。ここで見てもいいし、帰ってからでもいいわよ。ミッション開始の予定は一週間後。その間、出勤するか否かは自由です。当日は3時間前には出勤してくださいね。ここでメイクをするので、ノーメイクでね」
「通常の仕事はないんですか?」
「ミッションを成功させること。それがアキさんの仕事です。USBを見て、研究し、練習すること。それ以外には何もないわ。中身を見てから、質問してちょうだい」
私はとりあえず、帰ることにした。シオタといっしょにいる気にはなれなかったからだ。
こうして、私のミッションは始まった。
これから待ち受けている幾多の出来事は、恐らく誰も経験したことのないものであり、それは私自身の生い立ちとも関係するものだったのだ。
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