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その日は、夕方から雲行きの怪しい空だった。
地下一階のバーの片隅で私は、悠馬さんと軽く飲んでいた。
会社の取り引き先で知り合い、つき合って二年になる恋人の悠馬さんは、人事異動でもうすぐ、他県へ引越してしまう。
けれど、今後どうするのか二人の間では、話題に上らない。
「優馬さん、この前言ってた誕生日プレゼント。あの時計でいいの?」
「あ、ああ。それはもういいよ。高いから、由華に悪い」
そうして、もはや会話さえ弾まない。
飲んでいるホワイトレディのグラスをぎゅっと握り締める。
何をどう言っていいかわからない
ただ時間だけが過ぎていく。
もうダメなのかもしれない……そう思いながらも、私は優馬さんと別れたくはなかった。
「もう出よう。駅まで送るよ」
そう言うと、まだ小一時間ほども経っていないのに、優馬さんはあっさりと勘定書きを手にして会計へと向かう。
私は重い溜息を吐きながら、彼の後を追った。
「あら? 雨……」
地下の階段を登り外へ出ると、ポツリポツリと霙まじりの雨が降り出していた。
「由華。おいで」
傘を持っていなかった私を、悠馬さんは持っていた傘の中に入れてくれた。
しかし、優馬さんの気持ちは今、ここにはない。
並んで歩きながらも私は、彼との心の距離を痛切に感じていた。
そうして、いつのまにか駅の改札口までたどり着いた。
「次、いつ会える?」
私のその問いに悠馬さんは、じっと私の目を見つめた。
暫し、言い淀む。
次の言葉を口にしようか、逡巡している。
私は、悪い予感に微かに震えた。
「もう、終わりにしよう」
果たして、悠馬さんの言葉は私の胸を切り裂いた。
言葉が、出ない。体が動かない。
時間が止まった狭間で、私はその凍りつく瞬間を体感した。
そんな私の右頰に悠馬さんは大きな左の掌を当てた。
その次の瞬間。
そっと、口唇に口づけた。
それは、ふわり雪のように柔らかなキスだった。
「由華。今まで有難う」
そう言うと優馬さんは、私の両手に持っていた大きな傘を握らせた。
「元気で」
その言葉だけを残してゆっくりと身を翻し、彼は改札口の中へと消えて行った。
後には、彼の黒い傘を持って佇む私が残された。
雨は、いつの間にか、雪へと変わっていた。
傘の上には、少しずつ白雪が積もってゆく。
手先は凍るようにかじかんでいるのに、口唇にだけ、悠馬さんの最後のキスの温もりが残る。
色もない。
音もない。
言葉もない。
そして……彼がいない。
私は傘を握りしめ、終わりの冬の雪に降られながら、その場で泣いた。
口唇に残る彼の最後のキスの温もりをいつまでも感じながら……。
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