夕顔の毒

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 夕顔と言えば一般的にはかんぴょうの元だが、この辺りでは軟らかく煮て普通に食べられている。  食卓に夕顔がのるようになると、ああ、夏もそろそろ本格的だなあと思うのだ。  妻の夕顔煮は母の味付けとは少し違う。けれど連れ添って二十年にもなれば私もすっかり妻の味に慣らされてしまったようで、妻が作る油揚げと夕顔を甘辛く煮たおかずは私の大好物だ。 「なあ。今日の夕顔、ちょっと苦いな」 「この苦さが季節の味ですから。ねえあなた、私ちょっと食欲がないの。晩御飯は控えておきますね」 「大丈夫かい?片付けは俺がやっておくから、今日は早く寝るといい」 「ありがとう」  妻が寝た後で、私も食卓を片付けて、さあ風呂に入ろうと思った時だった。 「いたた……」  いつになく腹が痛い。それに何だか、唇がしびれている。そのままうずくまっても長いこと腹痛はおさまらなかった。 「痛、いたた……うう……」 「あなた、大丈夫ですか?」 「いや……うっ……」  後で思えば恥ずかしくもなるが、その時は大騒ぎして結局救急車を呼んでしまう。 食中毒だった。その原因になったのは意外なことにいつも食べている夕顔煮だ。 「夕顔の仲間には毒があるんですよ。『ククルビタシン』というんですがね。普通はひょうたんに含まれていますが夕顔にはほとんど含まれません。でもまれに夕顔でも、このククルビタシンが多いものがあるんです」 「今までは大丈夫だったのに……」 「特別苦くはなかったですか?」 「ああ……今晩のは確かに、苦かったです」 「だからですね。苦すぎる夕顔は食べない方がいいでしょう」  隣で妻も、びっくりした顔で先生の話を聞いている。  妻が食べなくてよかった。二人で倒れたら救急車を呼ぶのも一苦労だったはずだ。 「あまりたくさんは食べていませんし大丈夫とは思いますが、今日は入院しておきましょう」 「はい。ありがとうございます」  妻は入院の手続きを済ませてから家に帰った。明日迎えに来てくれるらしい。  病室で一人寝るのは退屈だ。もう腹痛もほぼ治まったし、一緒に帰らせてもらえばよかったかもしれない。  しばらくの間、点滴の雫を見ながらぼんやりとしていた。  ブブブブ……ブブブブ……。 「何かと思えば……」  スマホだった。妻のスマホが、椅子の下に落ちていた。探しているだろうから、家に電話でもするか。  そう思いながら持ち上げたら、ぱっと画面が明るくなった。 「あいつ、ロックしてないのか。危ないからロックするように言っとかないとな」  意外と大雑把なところもあるのが、妻らしい。  ふと……。  好奇心から妻のスマホのSNSを開いてみた。私の名前も上の方にある。お互いに毎日の連絡は欠かさないようにしているから。  その他は、近所や職場の友達なのだろう。聞いたことのある名前が多い。開けてみても他愛のない話が続いている。なんだか楽しそうだ。  ふと、ひとつのグループメッセージが目を引いた。 「リーちゃん会、か」  リーちゃんというのは近所の仲良しの主婦だから、その人を中心とした友達グループなんだろう。開いてみると、挨拶やスタンプの応酬の先に、気になるメッセージがあった。 『旅行、本当に楽しみですね』  そう書いてるのは、妻だ。  旅行?  遡ってメッセージを見ると、どうやらリーちゃん会のメンバーで旅行に行くらしい。 「八月六日と言えば、確か……」  ハッキリとは憶えていないが、八月のお盆前に出張に行くと言っていた。  こんな時期に面倒だわって言いながら、そういえば少し楽しそうだったかもしれない。  リーちゃん会のメンバーはみんな知ってる人だから、男と遊びに行くわけじゃない。ただ近所の友達と遊びに行くだけじゃないか。だったら何故、そう言わない?  結婚して二十年、妻のことを一番よく知っているのは自分だと思っていた。  何でも話して、お互いに分かり合っていると思っていた。  けれど手元にあるこの薄っぺらい機械の中に、私の知らない幾つもの妻と誰かの会話が収まっている。 「いたたた……」  治まっていた腹痛が、急にぶり返した。  夕顔の毒が、じんわりと身体にしみる。  よく知っているはずのものに、見知らぬ一面があった。  ただそれだけのことが、私の身体をほんの少しだけ(さいな)んでいた。  ――了――
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