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1、
「寝所に入る前に、囚人の様子を忘れずに見てくるんだよ。万が一、逃げ出していたら物騒だからね」
そう叔母はきつくアルマナに言い渡したのだけど、どうせ意地悪で言ったにちがいない。夜更けに外に出れば、悪霊や山犬に出くわすかもしれないのだから。むしろ、アルマナが肝を冷やせばいい、くらいに思っているのだろう。
小屋の外に出ると、冷たい夜気がアルマナの頬を打ち、彼女は毛織物の肩掛けを、きつく首もとで絞め直した。
ゲレド叔父とモデ叔母の小屋は、峠近くの稜線にあった。初夏とはいえ、高地は寒暖の差が激しく、日が落ちると毛の腰布に上着だけでは冷気は防ぎきれない。風邪を引いてしまう。さっさと役目を終えて、ぬくぬくとした寝藁に潜り込みたかった。それが家畜小屋の片隅であったとしても。
下弦の月を背にして、石ころだらけの尾根道を、躓かぬように注意して進む。吝嗇な叔母は、月齢が朔にならぬうちは灯明を使わせてくれないからだ。
しばらく行くと、尾根が途切れて落ち込み、絶壁になる処に行き当たる。その突端に、アルマナの背丈よりも大きな奇岩が聳えている。岩には、今ではもう作ることのできる者のいない、鉄の太い鎖が打ち込まれていた。
アルマナは奇岩に近寄ると、何となく歩みを緩め、足音をひそませた。鎖に巻かれて、男が一人、岩にくくりつけられていた。叔母の云う囚人だ。
下帯姿の囚人の上半身は裸で、逞しい胸には、夜目にも分かる蚯蚓ばれが幾筋も走っていた。山賊によって仕置きを受けた痕だ。顔も酷く腫れて、殴られた時の血がそのままになっている。寒さで全身が粟立っているのが分かる。一晩なら兎も角、このまま放置されればいずれ衰弱し、禿鷹の餌食になってしまうだろう。
気配を消して近寄った積もりだったが、項垂れていた男が、ゆっくりと顔をあげて、目を見開いた。尤も、片方の目は塞がっていて、右目だけではかなり視づらそうだ。それでも、視線が此方に向くとアルマナは、思わず後退りした。
「……漸く会えたかよ」
男の声は、想像していたよりは、穏やかで静かだった。
口をきいては駄目だ。咄嗟にアルマナは踵を返し掛けた。
「待ってくれ。あんた、アルマナだろ? マルダの娘の?」
思いも掛けない詞に、アルマナの足は凍りついたように固まった。マルダは、死んだアルマナの母親の名前だった。どうしてこの男は、わたしの母さんのことを知っているのだ?
「手短に云うから聞いてくれ。俺はタルス。ーーまあ、俺の名前はどうでもいい。単なる流れ者だ。麓のデデって町で、ヴェジャっていう商人に頼まれたんだ。あんたを連れてきたら銀貨をくれるって云われてね」
アルマナは眉をひそめた。ヴェジャなんて名前に聞き覚えはなかった。それだけでもう、男の話は充分に胡散臭く感じた。
男ーータルスの方も、アルマナの気配で察したようだった。
「ヴェジャに聞き覚えがないなら、トレムはどうだ?」
今度は、アルマナが驚いた。トレムは、母親の弟で、何度か顔を会わせた覚えがある。しかし、トレムは遠国で隊商をしていると聞いている。
「トレム叔父さんを知ってるの?」
慎重に訊ねる。
「いや……」
タルスは困り顔になった。この男には奇妙に正直な処がある、とアルマナの心に余裕が生まれた。強気で云ってみる。
「そんな用事も果たせないで、山賊に捕まって死にかけているというの? とんだ間抜けね」
「捕まったのは、わざとだーーといいたい処だがね。山賊どもの窺見が思いのほかしっかりしていたからだ」
幼子のように憮然となった表情を見て、存外、悪い男じゃない気がしてきた。
「どうして磔刑になったの?」
山賊に襲われれば、身ぐるみ剥がされたうえ、切り刻まれてもおかしくない。
ふん、とタルスは鼻を鳴らした。
「決闘を仕掛けたのさ」
それで少し納得がいった。脊梁山脈の山賊には奇妙な掟があって、一対一の決闘を申し込まれて応じなければ、臆病者と見なされ、石もて追われる。そして挑戦者が勝てば、生きて還す義務があるのだ。
但し実態は掟通りにはなっていない。たとえ挑戦者が勝利しても、今度は山賊側が決闘を申し込む。断れば臆病者と見なされ殺され、応じて勝っても何度も申し込みがされる。つまり山賊が勝つまで延々と続くのだ。実質はただの嬲り殺しだった。
「でもあなたは生きてる」
「五人続けて叩きのめしてやったから、向こうが根をあげて、な。出す仲間がいなくなったんだろ」
事も無げに云い放つ。この男は恐るべき戦士なのだ。
「話を戻すぞ。ヴェジャによると、トレムとは古い仕事仲間らしい。それで、次の二人の仕事にあんたの力がいるから協力して欲しいそうだ」
「わたしの……力?」
胸騒ぎがしてきて、再び後退る。まさか「あの事」を知っているーー?
「そうだ。あんたの、烏人を呼ぶ力が必要なんだ」
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