英弘七年のタイトロープ

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英弘七年のタイトロープ

意識が一つにまとまった時、冷たい視線は私でなく前方に向けられていた。びっしりと霜のついた庫内が人いきれでむせ返る。 「ダメだ。亡くなった」「言わんこっちゃない」「こっちも望み薄だ」 厳しい現実が私の心に突き刺さる。そして旅の仲間にも。「細胞が崩れてる。失敗だな。そっちはどうだ」 容赦ない声と光芒が振り返った。胸の谷間に陰が出来る。私は慌てて両腕を組んだ。 「随分、手荒な歓迎ね」 睨みつけると防護服が棺桶に投げ込まれた。ワンテンポ遅れてビキニの上下も。 「英弘七年の世界へようこそ、と言いたいが君には莫大な費用が掛かっている」 「蘇生コスト以上の損失が続いてるのね」 水着にコートを羽織り、液体窒素の蒸気を抜けた。外は抜けるような青空だ。ただ数歩先で屈折している。そこで私は見えざる手に背中を押された。太い腕が肩を支える。 「君が現役の介護職だった時よりもね。出生率は1%を切った」 そこまで聞けば充分だ。軌道上の箱庭も住めば都という時代に私はどれだけ人を救えるのだろうか。また、だ。コリオリの力が私の歩みを阻む。 「機械人間のケアプランを書けというの?」 私が冗談半分に聞くと相手は首を縦に振った。そして更に斜め上を行く。 「それも包括支援の一つだが、君には施設を担当して貰いたい」 「施設ってグループホームまるごと?」 「そうだ。『まるごと』だ」 男はバイザーと顔を一緒に外した。きゅっとレンズが絞られる。 「ま…まるごとって」 逃げ腰の私にロボットアームが食い込んでいる。 「看て貰いたいのは施設の方だ。軌道特養ほほえみの要介護申請をお願いしたい」 私は気が遠くなった。介護保険制度は何処まで人を試すのか。介護施設じたいに宿る人格は人と呼べるのか。そして、人工知性は耄碌するのか。
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