08 希

1/1
前へ
/32ページ
次へ

08 希

               *  ――ママのバカ!   小さな頃、いつもそう言っていた気がする。  ――ドロシー、悪い言葉を使うんじゃありません。神さまが聞いているわ。  ――聞いて、どうするの?  ――(ばち)が当たるから。  ――わたしの神さまは、バチなんて当てないもん。  ――神さま? 神さまは一人しかいらっしゃらない。なんて恐ろしいことを……  子供相手の言い合いで、ママは本気で十字を切った。  ――わたしの神さまは、やさしいもん! ゴメンナサイって謝ったら、にっこり笑って、サーッて腕を拡げて、わたしを(すく)い上げてくれるもん!  それはパパのイメージだ。心の奥にいつもある。  聖書に居る神さまは、言うことを聞かない人間に罰を与え、命を奪う。塩の柱にされた女の人だっている――いくら言いつけを破ったからって、あんまりだ!  忠誠の証を見せよ、と我が子を生け贄に差し出させたのよ――新興宗教(カルト)にかぶれたクラスメイトの母親は、キリスト教を邪教だと言った。彼女は神の非道をいくつも並べ立て、わたしの心に恐怖と怒りを刷り込んだ。わたしは憤慨した。神さまって最低! 誰であろうと許されるものか。自分の子を殺せと迫るなんて。  聞きかじった新興宗教(カルト)の話をすると、ママは半狂乱になった。  ――カルト信者が娘を罪の国へ連れて行こうとしている。サタンの手下どもめ!  お抱え弁護士が出てきて大騒ぎになり、新興宗教(カルト)の家族は逃げるように引っ越していった。  ママはお金持ちなのだ。お金の威力は凄い。争いごとはお金持ちが勝つ。  肌の色の違う男とママが結婚したとき、金満娘の気まぐれと誰もが思ったらしい。そのとおりで、気まぐれの結果わたしが生まれた後、ママはパパのことなんか忘れてしまった。わたしはパパと同じ肌の色だったけど、ママはとても可愛がってくれた。  教会へ行くとき、ママはわたしだけを連れて、パパが一緒に行くのを拒んだ。そうだろう。ママは新しい恋人を見つけたのだから。新しい恋人は、ステンドグラスの光に痩せた躰を包み、十字架にぶら下がって、日曜日のたびにわたしたちを見下ろしていた。  ――かわいそうなパパ。  その言葉を、ママのバカ、と同じ回数だけ言った。ただし声にはせずに。  パパは家を放り出された。一人娘を取り上げられて。お金の威力がまた物を言う。弁護士どころか、警官だって用心棒に雇えるのだ。肌の色が違えば、犯罪者にするのは簡単らしい。  パパはたくさんのものを失ったけれど、わたし以外はどうでもよかった。わたしの画像を情報端末(タブレット)で見ながらお酒をたくさん飲んで、酒場から帰る夜道、車にはねられて死んだ。雨が降っていて、うつ伏せの(からだ)を冷たく叩いていた。しばらく放置されていたそうだ。肌の色が違うから。  ――かわいそうなパパ。  ある日、太った男が家にいて、学校から帰ったわたしに気味が悪いほど笑いかけた。ガラスのような目だけが笑っていなかった。ピンク色のほっぺた。教会の神父だ。にならないと天国へは行けないと、ときどきわたしを脅迫する男。  その男に、ママはたんまり寄付してご満悦だった。ママはきっと、この世のすべてのことに飽き飽きして、天国に家を買うことにしたのだ。  みんながハッピーだ。教会に棲む痩せた男も。パパ以外は、みんな。  そのとき、子供くせに、わたしはふっと思った。  ひょっとしたら、ママの恋人は、痩せた男ではなく太った方ではないのかと。  マセた女の子は無神論者になった。ただし、心の奥底に、私設の神さまをひっそり住まわせて。  やがて、子供でなくなったわたしはママと大きな家を捨て、自分名義の預金だけを持って家を出た。その預金で大学の修士課程を卒業した。  直後に、ママの訃報を聞いた。検死結果は、クスリのやり過ぎというものだった。  教会主催の集会は皆勤。礼拝は欠かさず、財産は半分以上も寄付をした。だから、天国から届く通知表はパーフェクトスコアだとママは信じていた。自分が天国へ召されるのは当然という、微笑むような死に顔だったそうだ。  ピンク色のほっぺたの太った男に会いたくなくて、わたしは葬儀に行かなかった。  遺言で、ママがオーナーの会社はピンク色のほっぺたが引き継ぐことになった。神に仕える男が、今度はナイトクラブチェーンを経営するのだ。経営に戸惑うことはないだろう。ママが会社を任せていた敏腕女性マネージャーがついているのだから。よく喋る、どハデなボディコン女。その女はピンク色のほっぺたと仲良くなっていたらしい。  天国に憧れ続けたママは、たぶんピンク色のほっぺたに背中を押されて、寿命を待たずに雲の上へ旅立ったのだろう。  わたしは、ママの居る天国の家へなんて行かなくていい。どうせパパはそこにいない。天国の高級住宅地の入口は、背中に羽の生えたガードマンが守っていて、お金を持たないパパは足を踏み入れることもできないだろう。  わたしは、死ぬときが来たら、パパの居る(ところ)へ行く。そこが何処か知らないけれど、きっと探して、そこへ行く。逢えたら、にっこり笑い、両腕をサーッと拡げて、パパを(すく)い上げるんだ――  酒が過ぎたようだ。子供の頃の記憶が伸びたり縮んだりしながら、頭の中で渦を巻いている。  死んだら、パパもママもへ来たなんてね……  皮肉な結末に苦笑する。  ドロシーは空になったワインボトルをベッドの下に置いた。水差しからグラスに注いだ水は、ワインの残滓と混じり薄紫色になる。口に含み、洗うように口中を巡らせて飲み込んだ。  ダイニングではボブが飲んだくれているから、自室で飲んだのだ。一緒に飲めば口説かれるか絡まれる。  アルコールの霧がたなびく頭を枕に沈めた。  目を閉じれば、眠りの手がすぐにわたしを抱き込むだろう。そしてわたしはニルヴァーナに繋がり、夢の社交場を泳ぐ。  両親が離婚した子供は、大人になる日まで、一つの(のぞみ)を抱き続ける。それは、父と母が昔のように仲良くなり、もう一度三人で笑って暮らすこと。ゼロに等しい可能性でも、そうなったらいいな――と思い続ける。  しまい込んだ(のぞみ)を探して、胸の引き出しを開けてみた。  かまわれず、すっかり色のくすんだ(のぞみ)は、奥の暗がりに落ちていた。  こわれ物を扱うように拾い上げる。  今夜は、この(のぞみ)を抱いて寝よう。パパとママとわたしが、三人で仲良く遊んだ日に(かえ)るんだ。できれば、そう、イヴの夜がいい……  ニルヴァーナは、心が弱くなったわたしを慰めるために、手を貸してくれるだろう。  ドロシーは目を閉じる。  ――その夜の夢は、彼女が思ったとおりのものになった。夢の中で、そこが夢であることを、ドロシーは忘れることにした――
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加