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08 希
*
――ママのバカ!
小さな頃、いつもそう言っていた気がする。
――ドロシー、悪い言葉を使うんじゃありません。神さまが聞いているわ。
――聞いて、どうするの?
――罰が当たるから。
――わたしの神さまは、バチなんて当てないもん。
――わたしの神さま? 神さまは一人しかいらっしゃらない。なんて恐ろしいことを……
子供相手の言い合いで、ママは本気で十字を切った。
――わたしの神さまは、やさしいもん! ゴメンナサイって謝ったら、にっこり笑って、サーッて腕を拡げて、わたしを掬い上げてくれるもん!
それはパパのイメージだ。心の奥にいつもある。
聖書に居る神さまは、言うことを聞かない人間に罰を与え、命を奪う。塩の柱にされた女の人だっている――いくら言いつけを破ったからって、あんまりだ!
忠誠の証を見せよ、と我が子を生け贄に差し出させたのよ――新興宗教にかぶれたクラスメイトの母親は、キリスト教を邪教だと言った。彼女は神の非道をいくつも並べ立て、わたしの心に恐怖と怒りを刷り込んだ。わたしは憤慨した。神さまって最低! 誰であろうと許されるものか。自分の子を殺せと迫るなんて。
聞きかじった新興宗教の話をすると、ママは半狂乱になった。
――カルト信者が娘を罪の国へ連れて行こうとしている。サタンの手下どもめ!
お抱え弁護士が出てきて大騒ぎになり、新興宗教の家族は逃げるように引っ越していった。
ママはお金持ちなのだ。お金の威力は凄い。争いごとはお金持ちが勝つ。
肌の色の違う男とママが結婚したとき、金満娘の気まぐれと誰もが思ったらしい。そのとおりで、気まぐれの結果わたしが生まれた後、ママはパパのことなんか忘れてしまった。わたしはパパと同じ肌の色だったけど、ママはとても可愛がってくれた。
教会へ行くとき、ママはわたしだけを連れて、パパが一緒に行くのを拒んだ。そうだろう。ママは新しい恋人を見つけたのだから。新しい恋人は、ステンドグラスの光に痩せた躰を包み、十字架にぶら下がって、日曜日のたびにわたしたちを見下ろしていた。
――かわいそうなパパ。
その言葉を、ママのバカ、と同じ回数だけ言った。ただし声にはせずに。
パパは家を放り出された。一人娘を取り上げられて。お金の威力がまた物を言う。弁護士どころか、警官だって用心棒に雇えるのだ。肌の色が違えば、犯罪者にするのは簡単らしい。
パパはたくさんのものを失ったけれど、わたし以外はどうでもよかった。わたしの画像を情報端末で見ながらお酒をたくさん飲んで、酒場から帰る夜道、車にはねられて死んだ。雨が降っていて、うつ伏せの躰を冷たく叩いていた。しばらく放置されていたそうだ。肌の色が違うから。
――かわいそうなパパ。
ある日、太った男が家にいて、学校から帰ったわたしに気味が悪いほど笑いかけた。ガラスのような目だけが笑っていなかった。ピンク色のほっぺた。教会の神父だ。いい子にならないと天国へは行けないと、ときどきわたしを脅迫する男。
その男に、ママはたんまり寄付してご満悦だった。ママはきっと、この世のすべてのことに飽き飽きして、天国に家を買うことにしたのだ。
みんながハッピーだ。教会に棲む痩せた男も。パパ以外は、みんな。
そのとき、子供くせに、わたしはふっと思った。
ひょっとしたら、ママの恋人は、痩せた男ではなく太った方ではないのかと。
マセた女の子は無神論者になった。ただし、心の奥底に、私設の神さまをひっそり住まわせて。
やがて、子供でなくなったわたしはママと大きな家を捨て、自分名義の預金だけを持って家を出た。その預金で大学の修士課程を卒業した。
直後に、ママの訃報を聞いた。検死結果は、クスリのやり過ぎというものだった。
教会主催の集会は皆勤。礼拝は欠かさず、財産は半分以上も寄付をした。だから、天国から届く通知表はパーフェクトスコアだとママは信じていた。自分が天国へ召されるのは当然という、微笑むような死に顔だったそうだ。
ピンク色のほっぺたの太った男に会いたくなくて、わたしは葬儀に行かなかった。
遺言で、ママがオーナーの会社はピンク色のほっぺたが引き継ぐことになった。神に仕える男が、今度はナイトクラブチェーンを経営するのだ。経営に戸惑うことはないだろう。ママが会社を任せていた敏腕女性マネージャーがついているのだから。よく喋る、どハデなボディコン女。その女はピンク色のほっぺたと仲良くなっていたらしい。
天国に憧れ続けたママは、たぶんピンク色のほっぺたに背中を押されて、寿命を待たずに雲の上へ旅立ったのだろう。
わたしは、ママの居る天国の家へなんて行かなくていい。どうせパパはそこにいない。天国の高級住宅地の入口は、背中に羽の生えたガードマンが守っていて、お金を持たないパパは足を踏み入れることもできないだろう。
わたしは、死ぬときが来たら、パパの居る処へ行く。そこが何処か知らないけれど、きっと探して、そこへ行く。逢えたら、にっこり笑い、両腕をサーッと拡げて、パパを掬い上げるんだ――
酒が過ぎたようだ。子供の頃の記憶が伸びたり縮んだりしながら、頭の中で渦を巻いている。
死んだら、パパもママもここへ来たなんてね……
皮肉な結末に苦笑する。
ドロシーは空になったワインボトルをベッドの下に置いた。水差しからグラスに注いだ水は、ワインの残滓と混じり薄紫色になる。口に含み、洗うように口中を巡らせて飲み込んだ。
ダイニングではボブが飲んだくれているから、自室で飲んだのだ。一緒に飲めば口説かれるか絡まれる。
アルコールの霧がたなびく頭を枕に沈めた。
目を閉じれば、眠りの手がすぐにわたしを抱き込むだろう。そしてわたしはニルヴァーナに繋がり、夢の社交場を泳ぐ。
両親が離婚した子供は、大人になる日まで、一つの希を抱き続ける。それは、父と母が昔のように仲良くなり、もう一度三人で笑って暮らすこと。ゼロに等しい可能性でも、そうなったらいいな――と思い続ける。
しまい込んだ希を探して、胸の引き出しを開けてみた。
かまわれず、すっかり色のくすんだ希は、奥の暗がりに落ちていた。
こわれ物を扱うように拾い上げる。
今夜は、この希を抱いて寝よう。パパとママとわたしが、三人で仲良く遊んだ日に還るんだ。できれば、そう、イヴの夜がいい……
ニルヴァーナは、心が弱くなったわたしを慰めるために、手を貸してくれるだろう。
ドロシーは目を閉じる。
――その夜の夢は、彼女が思ったとおりのものになった。夢の中で、そこが夢であることを、ドロシーは忘れることにした――
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