06 長老

1/2

22人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ

06 長老

               *  小さな背中が見えた。  愛犬のクーパーを連れている。 「ジョン!」  息子の顔がふり返る。父親ゆずりのブロンドが野球帽からのぞく。  公園へ続く道路に、真夏の木洩れ日がまだらに落ちている。  少年はバットとグローブを手に、驚いた顔を父親に向けた。 「ダッド、いつ帰ったの?」 「あ、ああ。たった今だ」  マイケルは駆け寄る息子を抱きしめた。  少年の髪は夏草の匂いがする。  クーパーがまとわりついて手を舐める。 「ママはどこだ」 「家だよ。ぼくは、これから試合なんだ」バットを持ち上げて言う。  突然、マイケルは怖ろしい事実に思い至った。  ここは地球ではない。地球であるはずがない。そうだ。おれは今、夢──ニルヴァーナに居る。  宇宙船(ふね)のディスプレイで見た終末の日の映像が思い返される。それは眩むような光と熱に包まれている。 「ジョン、ええっと、は前にいた世界と同じかい?」  息子は父親の奇妙な問いをすぐに理解した。 「前とは違う処だよ。でも、街は同じだし、みんなもいるよ」 「そうか。へ来るとき、その、痛い思いをしなかったかい? 熱くはなかったか?」  息子はすこし首を傾げた。 「急に真っ白になって、そしたらにいた」 「痛くも、熱くも、なかったんだな?」 「うん」笑う。  マイケルはもう一度息子を抱きしめた。さきほどより強く。  苦痛を感じる間もなく一瞬で召されたのだ。ああ、神さま!  終末の日の映像は癌と化して心を蝕み、家族が受けたはずの苦痛を追体験させ続けた。だが、ジョンの笑顔と言葉は、光のメスとなって癌を摘出した。ささやかな救いの波間に心を解放したのだ。 「ねえ、もう行ってもいい? 友達が待ってる」 「もちろんだ。ホームランを打ってこい!」かるく背をたたいて送り出した。  小さな背中が懐かしい通りを駆けてゆく。クーパーがその後を追う。    マイケルは目覚めた。夢の余韻で、自分が何処にいるのかわからなかった。妻の顔を探して横を向いたくらいだ。窓のむこうに浮かぶ巨大な月を認め、ようやく居場所を思い出した。頬が涙で濡れていた。  地球で見るものより数倍も大きい月は、冷たい光で部屋を充たしている。さながら蒼い海底のようだ。  現実のように明瞭な夢だった。抱きしめた息子の柔らかな感触が、まだ腕に残っている。街路樹を抜ける風は、確かに顔をかすめた。  おれは今、に行って来た。  幸福そうなジョンの顔を思い返す。  ジョンがいるなら……あそこは天国だ。そうに決まっている。  心が浮き立つようだ。  ベッドを降りて服を着た。月に誘われるように外へ出た。  蒼い夜の中を、月が作る濃い影を連れて歩く。基地の丘を下り、足は密樹(ハニーツリー)の林に向かった。甘い香りが漂う。栄養価の高い蜜が採れる、この惑星(ほし)の食糧庫。  林に分け入る。背丈の倍ほどの樹々が葉叢で頭上を覆い、闇が濃くなる。それでも迷いなく進む。導かれるように。  やがて目の前が明るくなり、林が途切れて草地に出た。樹林の奥に、ぽっかりと円形の草地が空いている。  中央にそれは立っていた。一本の巨大な蜜樹(ハニーツリー)──〈長老〉。高さも太さも1.5倍ほどある。他の蜜樹(ハニーツリー)たちは、へりくだるように数メートルの距離を退いて、ぐるりと〈長老〉を取り巻いている。  これが…… 
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

22人が本棚に入れています
本棚に追加