01 出発

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01 出発

 ランニングシューズが着地するたびに、心地よい反発を大地から受け取る。こめかみを伝う汗が風に飛ぶ。  見渡すかぎりの草原を貫いて道が続く。道脇に群生する樹木――蜜樹(ハニーツリー)――は、ずんぐりした幹の上部から数本の枝を杯状に伸ばし、まるで天を仰いで両腕を拡げる人の姿に見える。枝々にはすっかり花が付き、キャラメルに似た香りをこぼしながら、やがて吹く〈花嵐〉を待つ。もう風は〈花嵐〉へと変質し始めている。半年に一度の〈花祭り〉がやって来るのだ。  デレク・タカノ中尉は徐々にペースを上げてゆき、丘の手前でフィニッシュした。  丘の上にはマキルのコテージがある。中から赤ん坊の声がする。昨日、孵化(ふか)したと聞いた。  開いた窓からマキルが手をふった。  居間に通されると、のポーレが三人の赤ん坊を抱いてソファにいた。緑色の赤ん坊たちは、蜜樹(ハニーツリー)の蜜をスプーンで口に運ばれながら、くりんと丸い目で一斉に来客を迎えた。  この子らは、鶏卵大のゲル状卵に収まって産み落とされ、卵自体が数倍に成長したのち、ゲルの殻が溶解して誕生したのだ。初回に入植した地球人(オリジナル)から第九世代の子孫になる。  この惑星(ほし)で生まれた子らは、惑星子(ほしのこ)と呼ばれて区別される。地球人(オリジナル)とは異質だからだ。  目の前の赤ん坊たちは、直前世代とはさらに異なる形質を持つのだろう。外観に目立つ変化は見えないが、体内のどこか――遺伝子レベルか臓器レベルか――で着実に変化は進むのだ。驚くほどの速さで。 「かわいいね」  どの子が男の子か女の子か、とは訊かない。雌雄同体だから。  デレクはメモリカードをマキルに手渡した。「日本という国の童謡(キッズソング)が入っている。お祝いに。アーカイブから拾ったものだ」  やりとりを見ていた赤ん坊たちは、言葉を解するように微笑んだ。小さな唇が今にも礼を言いそうだ。それでも不思議はないが。  この平和な惑星――アルファnine――に銃声が轟いて、四日が経った。騒動の後、デレクはある決心をした。マキルもポーレも、たぶん赤ん坊たちも、その決心を知っている。別れが近いことを。感応力が研ぎ澄まされた彼らは、心を読めないまでも、〈共有意識〉を介してこちらの意向を察する。  マキルは寂しそうな目をしてこちらを見ていた。 「今度の輪踊りは、最大規模だそうじゃないか」 「とうとう実現するんです」マキルは興奮気味に言う。 「デレクも踊りますよね」ポーレは懇願するようだ。 「……踊りは苦手なんだ。でも、考えておくよ」  デレクはコテージを後にして、再びランニングを始めた。  遠くで花祭りの準備をしている。あと数日だという。風が巻きだして花嵐となった日から始まる祭りだ。祭りのメインは輪踊り。その歌が風に乗って聞こえる。異郷の不思議なメロディで歌われる歌詞は、地球(こきょう)の古い詩だ――  世界中の娘さんたちがみんな  手をつなぎ合う気にさえなったら  海をめぐって輪踊りを  踊ることさえできように               ***   「パパが迷子になる」  そう言って泣き止まないミチルに、デレクは面くらった。  妹のナナも泣いている。  自宅のポーチでバッグを提げたデレクは、妻のアケミと困った顔を見合わせた。  フライトで()月ほど家を留守にするのは何度目かのことで、そのたびに娘たちは寂しそうにするが、火がついたように泣かれるのは初めてだ。 「あなたが迷子になる夢を見たっていうのよ、二人そろって」 「二人そろって同じ夢……」  出発前のデレクにしてみれば、あまりいい気持はしない。  聞けば、暗い宇宙空間にたたずむ父親は帰り道がわからなくなり、彷徨い歩きながら遠ざかる夢だという。 「〈七つまでは神のうち〉って、お祖母(ばあ)ちゃんに聞いたことがある。大人に見えないものが見えたりするみたい」  妻はイリノイ工科大の一級下、日本人留学生だった。 「日本のコトワザ?」六歳と四歳をじっと見る。 「あなただって半分日本人じゃない。聞いたことない?」  デレクは首を振る。小学校卒業まで父の生まれ故郷ニイガタで暮らしたが、記憶にない。  似たような話を、軍の心理戦研究に携わる友人から聞いたことがある。  論理的な思考を司る左脳が未発達な幼児は、潜在意識と繋がる右脳の働きが優位で、〈自己〉と〈外界〉の〈壁〉を越えやすい。  玄関が開く数分前に「パパが帰って来た」と言ったり、曲がり角のむこうに知人がいることを知っていたり、視点が別次元にあるかのような子供たちの挙動は、稀ではないそうだ―― 「警告夢だと思って慎重に行動するよ」あまり気にせずに言った。 「案外、お姉ちゃんの夢の話を聞いて、ナナが自分も見たような暗示にかかったのかもしれない」妻は耳元に口を寄せてささやいた。  デレクはしゃがんで、両腕で二人の娘を抱いた。「いくら宇宙が広くても、迷子にはならないよ」  パパの体温に安堵したのか、しだいに大泣きが収まる。 「いつも、ちゃんと帰ってきただろう。約束を破ったことがあるかい? 今度も同じだ」 「ホントに?」ミチルがしゃくりあげて訊く。  二人の目を交互に見つめて頷くと、 「ゆびきり」ナナは覚えたての日本の契約を要求した。  娘二人と小指を掛け合った。 「絶対、ここへ帰って来るから。お嬢さんたちこそ、迷子になるなよ。ちゃんとこの家で待っていなさい。ママの言うことをよく聞いて」 「ずっと、ここで待ってるよ。お家で」ミチルが言った。  アケミとキスする。彼女は不安げな目をしていた。「わたしも待ってる」 「なんだよ、きみまで。大丈夫だって。いつも組むベテランチームだ」  六月。ボルチモアの空は驚くほどの晴天だ。  荷物を積み込み運転席から手を振って、ワシントンの宇宙軍オフィスへと発車した。  バックミラーの中で、白い家と家族の姿が小さくなってゆく。並んで見送る三人の夏服が朝の光に輝いている。庭のサイカチの緑がやけに鮮やかだ。まるで古い記念写真のように見える。  妙に後ろ髪を引かれる。いつもと違う……  ――ばかばかしい。娘たちの夢を真に受けてどうする。  不穏な感覚を遮るために音楽をスタートし、絡む糸を振り切る思いでアクセルを踏んだ。  愛車は街を抜け、晴天へ駆け上がるようにハイウェイに乗った。
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