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集落に居る官憲の者は、巡査たる大木翁を除き唯だの一人も居らぬ。 一里程離れたる処には村役場があつて、其処には官憲の者が数人常駐して 居るが、彼らは中央から日毎に寄越す訓令の処理に忙しく、集落にやつて来る 事は滅多に無ひ。其の他にも郵便配達の人夫がやつて来たり、山を測量すると云つて軍の測量班が来たりする事はあるが、此れは極めて稀な事である。 さう云ふ環境の中、唯だ一人の巡査に懸かる責務の重さは尋常では無ひ。 彼は唯だ一人で、集落に於ける国家の権威を代表せねばならぬ。 西の畑に盗人が居れば国家の威信に懸けて此れを捕らへ、東の山に諍ひが 在れば国家の威信に懸けて此れを収め、南の川に溺れる者が居れば国家の 威信に懸けて此れを助けるのが集落に於ける巡査の仕事である。其の為に 巡査の権力が在る。時には人の協力を仰ぎ、時には人を使役してでも国家に対する人々の信頼に応えるのが巡査の仕事である。 此れは治安維持と云ふ、巡査本来の職責を完全に逸脱してゐた。
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