一、

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熟練の者では無ひ故、其処へ行つた事の無い猟師は、初め己の居る場所が 何と云ふ処なのか分からなかつたが、傍の木に「長者が淵」と書かれたる 木板が掛かつて居るのを見て、其処が何処であるのかを知つた。其れと 同時に、彼の脳裏には「枝を引つ掴み、土を引つ掴む」と云はれる帰途の 困難が浮かび、猟師は諦念を感ずる事を禁じ得なかつた。 彼が山中に入つてから已に六日ばかり経つてゐる。携帯した食料は最早 尽きかけて居り、更に帰途も遠く難所ばかりとなれば、生還など到底望む べくも無い。 猟師は生きて還る事を半ば諦めた。さうして近くの石の上に座り込んだ。 辺りは死んだやうに静まりかへつてゐて、唯だ風の吹き渡る音のみが 響ひてゐた。 当に其の時、傍の草叢から轟という音が聞こえたのである。
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