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「もうすぐお別れなのね」
「うん。あと一ヶ月で。仕方ないよ。僕たちは付き合っているわけではないから」
「そんなこと、思っていたとしても口に出さないで。事実を聞かされることほど絶望を味わうことはないわ」
「うん。ごめん」私は泣いているユキの顔を見ることができなかった。ユキの顔を見たら、別れることが嘘になってしまうんじゃないかと思ったのと、ユキの涙が本気ではないとわかった場合、自分はショックを受けるんじゃないかと思ったからである。もしもユキの涙が本気ではなく演技によるもので、私に対してもう未練がないとしたら。零れ落ちる得体のしれない涙こそ、私に絶望を味わせる。私は、ユキの涙が本当のものか得体のしれないものか、判別できるくらい彼女と親密な関係を築いているわけではない。
「あと一ヶ月だから、ホテルばかりじゃなくて、どこか遠いところに行かない?」
「遠いところって?」私はまだユキの顔を見ることができなかった。
ユキはスマートホンを取り出し、何かを調べ始めて「ここはどう?」と言った。
僕はユキのスマートホンを覗き込んだ。「漁港?海じゃなくて漁港なの?」
「海って、清廉潔白な、ちゃんとした関係の二人が行くところだと思うの。私たちはそんな関係じゃないから、海なんて恐れ多いわ。だから、場末感のある漁港がしっくり来る。そりゃ私だって海に行きたいわよ。でもそれはあなたの相手に悪いわ。だから、場末感のある漁港にしなくちゃならないの。せめてもの礼儀として」
私のスマートホンの着信音が鳴った。婚約者からだった。私は一瞬ユキの顔を見たが、ユキは声を出さないように口を閉じて黙っている。しかし、我慢の反動か、目に涙が滲んでいるようだった。
「ああ、もうすぐ帰るよ。終電には間に合うと思う」私はなるべく早く会話を終わらせて電話を切った。隣にいるユキへの配慮だった。
「ねぇ、お母さん何て?」涙目のユキは、小声で聞いてきた。
「いや、別に。今日も遅いの?って。昨日は会社の上司と飲みに行ってて遅くなったから」
「そう。お母さん、心配症だから」
「だから結婚したい、守ってあげたいって思うんじゃないかな」私はユキを傷付けないよう、客観的に、評論家の意見であるかのように言った。
「じゃあ私、先に帰るね」ユキはバッグを手に取って立ち上がった。
「あと一ヶ月しか無いんだから、もう少しのんびりしてもいいんじゃない?」と私は引き止めた。
「うーん、それもそうね。じゃあもう少しここにいるわ」
いつものユキなら一度決めたことを覆したりしない。帰ると言ったら帰るのが常だ。なんとなく不思議に思った。
「ユキ、何かあった?」
「何かって?」
「たとえば、好きな人がいるとか?」
「目の前にいるわ」
「いや、そうじゃなくて。僕とは別に」
「さあどうかしら。好きな人って言われてもよくわからない。純粋な恋愛をしてきてないから。でも、あなたがお母さんと結婚すれば嫌でも家に連れて来るわ。私の好きな人を」
「それもそうだね」私は、ユキが好きな人を連れて私の目の前に現れるのを想像したらゾッとした。もしもこれが全て二人の母娘による策略だったとしたら。私を罠にかけるための共謀だったら。
「ねぇ、お母さんが、私たちの関係を知ってたらどうする?」ユキはクイズの問題でも出すように軽い雰囲気で聞いてくる。
「え?」
「お母さんが私達のこと知っているわけないじゃない。でも、もし知ってたらどうする?」
「どうするって、困るよ」
「それだけ?」
「今考えられるのはそれだけ」
ユキは「そう」とだけ呟いてトイレに行った。
そのとき、ユキのスマートホンの画面に母親からLINEの通知が届いたのが見えた。
「計画実行できた?」と絵文字入りの文面で。
気配を感じてスマートホンから目を離し、ちらりと横を見たときには、ユキはカミソリを持って私の目の前にいて、その計画を実行するところだった。
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