始まりの予感

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始まりの予感

 体験入部期間終了まであと2日になった。 その日、私は部活に約束通り自分で焼いたクッキーを持ってきた。 小包にいれてきたクッキーを赤井さんの目の前で小皿に取り出す。 「おいしそうです」 「どうぞ、遠慮せずに食べて」 「ありがとうございます。いただきます」 そう言うと赤井さんは嬉しそうにクッキーを口に運ぶ。 「お味はどうかしら。うまくできたかな」 ドキドキと胸が高鳴るのを感じる。 どうかな。 「おいしいです。久しぶりにこんなにおいしいクッキー食べました。 先輩はお菓子を作るのも上手なんですね」 その言葉は素直にとても嬉しかった。 赤井さんに喜んでもらえた。 やった。 嬉しい。 とても嬉しい。 そのことは私の心を満たしていく。 こんなに嬉しいのはいつぶりだろ。 高校に受かったときいらいかな。 「ありがとう。私も頂くね」 そう言って、私も自分のクッキーを食べる。 なんか、いつもよりもおいしく感じる。 なんでだろう。 持ってくる前に家で味見をしたけれど、味は落ちていない。 一番得意なクッキーにして正解だった。 「先輩が作ったんですから先輩がたくさん食べて下さい」 「私は少しだけでいいよ。赤井さんのために作ったんだから赤井さんがたくさん食べて」 私は赤井さんがおいしそうに私が作ったクッキーを食べている姿を見ていたい。 だから、たくさん食べて。 「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」 私たちはクッキーをほおばりながら放課後のひと時を過ごしていた。  その時、ゆっくりと扉が開いた。 そして、一人の少年がまっすぐに私をみつめながらはなし始める。 「失礼します。1年3組の植木真(うえきまこと)です。体験入部をしに来ました」 その声は、はきはきとしていて私たちの意識を一瞬でクッキーから彼へと向けさせた。 私は口元に着いたクッキーをとって彼の挨拶に答える。 「初めまして。私が部長の竹嶋葵です。こちらが体験入部している赤井楓さんです」 「は、初めまして」 赤井さんは上ずった声で答えた。 「初めましてよろしくお願いします」 彼は礼儀正しく二人に頭を下げた。 赤井さんも含めて二人も新入生が美術部に入るだなんて正直意外だった。 「どうぞ、中にはいって。 植木真君ね。 植木君でいいかな」 「はい、失礼します」  椅子に座った植木君にクッキーをすすめる。 植木君はおいしいと言いながら食べてくれた。 クッキーを口にはさみながらまずはお互いの自己紹介をした。 聞くところによると植木君は中学校でも美術部に入っていたらしい。 早く、植木君の絵を見てみたい。 きっと、上手なんだろうな。 次に私から美術部に関する説明をしてその後は雑談をした。 雑談は会話が弾んで楽しいものだった。 当たり障りのない会話だったけれど植木君ともよく話せたし、なにより赤井さんともたくさん話すことができて最近赤井さんとの会話にもどかしさを感じていた私は嬉しかった。 そして時間はあっという間に過ぎてその日はお開きとなる。 今日の部活を通して植木君という人を見て、植木君は真面目で礼儀正しくて好青年だと思った。 きっと彼とならうまくやっていけるのかな。  赤井さんと植木君。 今日までに二人の新入生が体験入部をした。 二人は私の日常に小さいけど確かな変化をもたらした。 赤井さんがもたらした小さな波紋は植木君の訪れで、より大きなうねりとなる。 私の心のキャンバスに描かれたそのうなりは私にとってどんな意味を持つのか私はいつか考えなくちゃいけない、向き合わないといけない。 校門を出るとそんな予感を告げるように春の風が吹いていた。
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