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第三話 ちいさな魚は淡いピンクの夢を見る
六時過ぎにママは迎えに来た。
家から歩いて通える公立中学校じゃなくて、少し距離のある私立中学校に通っている私の送り迎えをするのがママの仕事だからだ。
送り迎えができるように仕事時間を短縮してでも、入学してから半年間、ずっと変わることのない習慣。
「今日は楽しかったの?」
「別に」
「お弁当は全部食べられた?」
「食べたよ」
「クラスの子たちとはうまくやれてる?」
「今日は問題なかったよ」
家に帰るまでの私たちの会話はすごく簡潔。私が話を広げないのも理由のひとつだけど、ママもそれ以上詳しくは突っ込んでこないのも原因。だからすぐ終わる。沈黙が続く。
でも、それは車の中のことで、ひとたび家に帰れば、すぐに「手を洗いなさい」「お弁当箱を洗いなさい」「勉強やりなさいよ」って怒涛のように『○○しなさい』が押し寄せてくる。
そのうちのどれかを忘れようものなら、ママは秋の荒れ狂う雷のごとく言葉を降らせてくる。
「どうして言われたことをすぐにやらないの! だからあなたはいつも怒られるの! 後回しにするから時間がなくなるの! そんなこと、考えたらわかるでしょう! もっと自分で考えて動かないとダメよ! もう、なんでこんな簡単なことができないのかしら? ちゃんと聞いてるの?」
「ああっ! もうっ! わかってるってば! いい加減、うざいよ!」
ママの怒りの嵐にこれ以上巻き込まれたくなくて、私は金魚鉢に引っ込んだ。
だけど今日はダメだった。ママが追いかけてきて扉が開く。冷たい海に私はまた引き戻される。
「うざいってどういう意味なの、明佳! これは全部あなたのために言ってるの! あなたを思ってなかったら、こんなに言わないの! 放っておくの! でも、ママはあなたが大事だから、口すっぱく言うの! それなのになに!? ママの気持ちも知らないで!」
「ママの気持ちなんて知るわけないじゃん! そっちだって私の気持ちなんて知らないくせに! クソババアッ!」
私の口から飛び出した言葉の矢がまっすぐママに突き刺さる。ママは顔を真っ赤にさせて、眉毛を釣りあげた。口の端をわなわな震わせて、ツカツカと私に歩み寄る。
天井からつり下がったウィンドチャイムがつんざくような悲鳴を上げる中、ママが大きく右手を振りかぶったのが見えた。
バチンッ――
派手な破裂音が響いた直後、私の左頬が火を噴くみたいに熱くなって、じんじんと痛んだ。
痛みと悔しさで一気に昂った気持ちが涙になって外に溢れる。
ママは私が大事だって言う。
だけどいつだって『好き』とは言ってくれない。
私はママのことが大好きで、いつだって笑っていてもらいたいのに、どうがんばっても、いつもボタンをかけ間違えてしまう。
うまくいかない。
どうやってもうまくいかない。
どうしたらいいんだろう。もう、わかんないよ。
唇を噛んでうつむいたとき、ふと視線が制服のスカートのポケットに流れた。
ポケットに手を突っ込むと、紙の感触が指先に触れた。そっと取り出す。
『お母さんとケンカしたら、このカードを見て、心の中で『大好き』を10回唱えな。約束だよ』
花島先生の声がリフレインした。私は両手で包み込むようにしてカードを見つめると、先生に言われた通り、心の中で『大好き』を10回唱えてみた。
すると不思議なことに、活火山のマグマのように燃えたぎっていた気持ちが急速に熱を失っていった。灼熱色のマグマが灰色へと変化して、ゆらゆらと白い煙を上げはじめる。
すごく落ち着いて冴えわたる頭の中に、また花島先生の声が響いた。
『言わなきゃわからないことっていっぱいあるんだよ』
そうやって笑った花島先生の顔がカードに浮かんで見えた気がした。
「ママ……私……」
前は向けないし、ママの顔は見られない。
だけど、もうがまんしちゃダメだと思った。
「苦しいよ……がんばっても、がんばっても足りなくて……ママに認めてもらえなくて……えらかったねって。がんばってるねって……ほめられたくってがんばってるのに、いつもケンカになっちゃって……もう、どうがんばっていいか、わかんないよ……私はただ、ママに笑っていてもらいたいのに……ママが大好きなだけなのに……どうしたら、ママに好かれる子になるの? 私、もう、がんばれないよ……」
涙がとまらない。鼻水まで出てきて、顔はぐちゃぐちゃだ。目に映るのはぼんやりとしたカラーカードだけ。花島先生みたいな優しいピンク色の海が私の目の前に横たわっている。
じっとしていたら、ふわっとなにかが私の頭に触れた。
そっと顔をあげれば、そこには驚くほどやわらかな笑顔を浮かべるママがいた。壊れものでも扱うみたいにそっと触れるママの顔は私と同じように涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
「ごめんね……明佳。がんばらせすぎちゃって……ごめんね。ママ……明佳が大好きだから」
本当はね、わかっているの。人一倍がんばってるのも、つらそうなのも、全部わかってるの。だけど期待しちゃうの。もっとがんばれば、もっとできるって思っちゃったの――そう言って、ママは何度も、何度も『ごめん』と繰り返した。
「うん……」
私はママにしがみついて泣いた。右手に握ったピンクのカードの向こうで花島先生が笑ったような気がした。
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