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 窓には雨が張り付いていた。今日は朝からシトシトと音のない小雨が降り続いている。カーペットの上に横になった体勢から動けないでいた。私は偏頭痛持ちなので天気の悪い日は、いつも以上に体調がすぐれない。  咲姫が泣いている。泣き声を聞くたびに泣きたいのは私の方だと何回繰り返したことか。赤ちゃんは泣くことが仕事なのにそれを鬱陶しいと思ってしまう私は、やはりダメな母親だ。  身体に鞭を打って何とか起き上がる、頭が締め付けられように痛んだ。咲姫を抱き上げるとずっしりと腕に重みがのしかかった。私の体重が減少するのと反比例するように、咲姫の体重は増えている。  まるで私の気力を吸い取る妖怪のように……。泣き声が鼓膜に鋭く刺さる。うるさい。うるさい。うるさい。耳を塞ぎたくなるがそうすることはできない。  可愛くない。我が子が可愛いと思えない。私の元気を奪っていく不吉なモノに思えて仕方ない。胸の内に黒く渦巻いている感情に気付いて、すぐに振り払った。  こんなことを考えてしまう自分が憎い。子育ても家事も中途半端で上手くできない。咲姫は私のところに生まれてきて幸せなのだろうか。我が子を可愛いと思えない母親のところに生まれてきて幸せなのだろうか。  私なんかいない方が、この子のためになるんじゃないか。消えたい。闇に溶けていなくなってしまいたい。消えたい。今すぐに。私はテーブル上にあるペン立てからカッターを取り出した。  小さな音を立てて銀色に光る鋭利な刃が現れる。カッターを握る右手が震える。ギュッと握りしめて覚悟を決める。咲姫はベビーベッドで未だ泣き続けていた。               *** 「絢ー、いるの? ママ連絡したのに電気も付いてないじゃない」  ハッと我に返る。薄暗闇の部屋の外から母の声が聞こえる。そう言えば実家の林檎が採れたから、近々うちに寄っていくと連絡していたっけ。すっかり忘れていた。  手首には浅い傷ができて血が滲んでいる。結局あのあと、ためらってしまって失敗した。それにしてもタイミングが悪い。こんなときに限って母が来るなんて。  状況に反して私の頭は冷静だった。ドアが開く。懐かしい柔軟剤の香りが鼻をかすめた。 「あぁ、絢、元気? 電気付いてないのに玄関は空いているからいないかと思っちゃったじゃないの……ちょっと、どうしたのその傷」  母は気付いた。言われなければ気付かないであろう五センチ程の小さな傷に。青い顔をした母は困惑していた。もう、限界だった。喉の奥から呻くように声が漏れる。 「絢、何があったの? 話してごらん? ママ、ちゃんと聞くからさ」  堰を切ったように涙が溢れだす。私はしばらく慟哭していた。今までの負の感情が流れ出していくようだった。
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