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「ははは、今年も来ましたよ」
敏明は言う。隣には妻の伸江が笑みを浮かべて立っている。
「お出でなさいませ」旅館の女将が笑顔で迎える。「毎年ご利用いただきまして、ありがとうございます」
「いえいえ、フルムーンのパッケージツアーを利用しなければ来られませんよ」敏明が言う。「もっと頻繁にお邪魔したいのですがね」
「本当、いつも好くして頂いて……」伸江も言う。「家に帰ると、来年も行こうと、すぐに話しているんですよ」
「それはそれは、ありがたい事でございます……」おかみの笑顔がふっと消えた。「……実は、申し上げにくいのですが、ここは今年で畳むことに致しまして……」
「あら……」伸江は驚く。「それはまた……」
「そうですか……」敏明の表情は残念そうだ。「でも、おかみさんの苦渋の決断だったでしょうから、わたしからは何も言えませんね。お疲れ様、ありがとうと言わせてください」
「ありがとございます……」女将は頭を下げた。「ですので、この度は特別なおもてなしをご用意いたしました」
「それはそれは……」敏明は頭を下げる。「なんだか申し訳ないですね」
「いえ…… それではお部屋のご案内いたします」
女将に案内されたのは、何時も泊まる部屋ではなかった。一段レベルが下がったような、そんな部屋だった。
「ねえ、あなた……」女将が部屋を出てから、伸江が小声で言う。「この部屋、なんだか、ちょっと……」
「うん……」敏明も気になっていた。「最後だと言う割には、どう言うつもりなんだろう……」
「やっぱり、割安パッケージツアーだと、こんなものなのかしらね……」
「まあ、女将を信用しようじゃないか」
「そうですね……」
夕食は部屋に運ばれた。いつものように素晴らしい食事だった。それだけに、何故この部屋なのかが気になった。
「ひょっとして、いつも使わせてもらっている部屋は先客があるのかもしれないな」
「ええ、そう言う事にしましょう」
「慣れてくれば、なかなか風情のある部屋じゃないか」
「そうね。……ほら、海の波の寄せる音が聞こえるわ……」
「……本当だ。じゃあ、この部屋は海に近いんだね。今までは階ももっと上だったから、波の音は気が付かなかったね」
「何だか新鮮ね」
二人は黙って波の音を聞いている。
「失礼いたします……」
女将が部屋の外から声をかけた。
「どうぞ……」
敏明は答える。女将が入ってくる。正座し畳に手を付き頭を下げる。
「いかがでしょう、お部屋は気に入って下さいましたでしょうか?」
「最初はちょっと戸惑ったと言うのが正直なところですが、この波の音が何とも心地良いですね。すっかり気に入りましたよ」
「それは、ありがとうございます」女将は頭を下げる。「この度、このお部屋にご案内いたしましたのは、波の音ばかりではございません……」
女将はつと立ち上がると、波の音が聞こえる窓に向かった。閉めてある障子張りの内窓に手を掛けると、すっと開けた。
「おお……」
「まあ……」
敏明も伸江も思わず立ち上がった。
満月が、夜闇に煌々たる光を放ち、海の上に緩やかに揺れる姿を映しながら、浮かんでいた。それを彩るように波の音が流れてくる。
女将は窓から離れ、部屋の灯りを消した。月が一層くっきりとする。
「これだけの月が見えますのは、この日のこの部屋だけでございます」女将が言う。「フルムーンのお礼にフルムーンと洒落させて頂きました」
敏明と伸江は黙って窓の外を見ている。いつしか二人は寄り添い、手を取り合っている。
女将は無言で一礼すると、静かに部屋を後にした。
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