フルムーンの二人

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「ははは、今年も来ましたよ」  敏明は言う。隣には妻の伸江が笑みを浮かべて立っている。 「お出でなさいませ」旅館の女将が笑顔で迎える。「毎年ご利用いただきまして、ありがとうございます」 「いえいえ、フルムーンのパッケージツアーを利用しなければ来られませんよ」敏明が言う。「もっと頻繁にお邪魔したいのですがね」 「本当、いつも好くして頂いて……」伸江も言う。「家に帰ると、来年も行こうと、すぐに話しているんですよ」 「それはそれは、ありがたい事でございます……」おかみの笑顔がふっと消えた。「……実は、申し上げにくいのですが、ここは今年で畳むことに致しまして……」 「あら……」伸江は驚く。「それはまた……」 「そうですか……」敏明の表情は残念そうだ。「でも、おかみさんの苦渋の決断だったでしょうから、わたしからは何も言えませんね。お疲れ様、ありがとうと言わせてください」 「ありがとございます……」女将は頭を下げた。「ですので、この度は特別なおもてなしをご用意いたしました」 「それはそれは……」敏明は頭を下げる。「なんだか申し訳ないですね」 「いえ…… それではお部屋のご案内いたします」  女将に案内されたのは、何時も泊まる部屋ではなかった。一段レベルが下がったような、そんな部屋だった。 「ねえ、あなた……」女将が部屋を出てから、伸江が小声で言う。「この部屋、なんだか、ちょっと……」 「うん……」敏明も気になっていた。「最後だと言う割には、どう言うつもりなんだろう……」 「やっぱり、割安パッケージツアーだと、こんなものなのかしらね……」 「まあ、女将を信用しようじゃないか」 「そうですね……」  夕食は部屋に運ばれた。いつものように素晴らしい食事だった。それだけに、何故この部屋なのかが気になった。 「ひょっとして、いつも使わせてもらっている部屋は先客があるのかもしれないな」 「ええ、そう言う事にしましょう」 「慣れてくれば、なかなか風情のある部屋じゃないか」 「そうね。……ほら、海の波の寄せる音が聞こえるわ……」 「……本当だ。じゃあ、この部屋は海に近いんだね。今までは階ももっと上だったから、波の音は気が付かなかったね」 「何だか新鮮ね」  二人は黙って波の音を聞いている。 「失礼いたします……」  女将が部屋の外から声をかけた。 「どうぞ……」  敏明は答える。女将が入ってくる。正座し畳に手を付き頭を下げる。 「いかがでしょう、お部屋は気に入って下さいましたでしょうか?」 「最初はちょっと戸惑ったと言うのが正直なところですが、この波の音が何とも心地良いですね。すっかり気に入りましたよ」 「それは、ありがとうございます」女将は頭を下げる。「この度、このお部屋にご案内いたしましたのは、波の音ばかりではございません……」  女将はつと立ち上がると、波の音が聞こえる窓に向かった。閉めてある障子張りの内窓に手を掛けると、すっと開けた。 「おお……」 「まあ……」  敏明も伸江も思わず立ち上がった。  満月が、夜闇に煌々たる光を放ち、海の上に緩やかに揺れる姿を映しながら、浮かんでいた。それを彩るように波の音が流れてくる。  女将は窓から離れ、部屋の灯りを消した。月が一層くっきりとする。 「これだけの月が見えますのは、この日のこの部屋だけでございます」女将が言う。「フルムーンのお礼にフルムーンと洒落させて頂きました」  敏明と伸江は黙って窓の外を見ている。いつしか二人は寄り添い、手を取り合っている。  女将は無言で一礼すると、静かに部屋を後にした。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!