天使と主張する幽霊めいた女との出会いの顛末

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 すみません、と声をかけられたのは、自宅アパートまでもうすぐという薄暗い路地だった。  平日の終電帰り、辺りにひとけはない。こんな時間に話しかけるのは変質者か幽霊かと、小さく悲鳴をあげた。 「驚かせてごめんね」  電灯の影から出てきたのは、若い女性だった。幽霊だ、とは思わないものの、不審感はぬぐえない。 「ちょっと涙ちょうだい」 「は?」  彼女は腕を伸ばすと、不躾に私の頬に触れようとした。  変質者だったのか! 「何するの!」  咄嗟に顔をかばい、後ずさりする。  しかし、彼女も距離を詰め、白く浮き出た指が私の頬に触れるかどうかというところまで伸ばされた。  彼女の指が頬に触れているような感触がある。私は頬を手で隠しているのに、だ。  ヒッと声が漏れる。  私は、恐る恐る両手を下ろした。  彼女の透き通った指先から手首、二の腕の方までキラキラしたものが通っていく。それは肩までつながったところで上下でわかれ、薄れながらも体の内側から発光し、彼女の表情も明るくした。 「ありがとう!」 「なに、今の……?」 「なにって言われても」  彼女は小首を傾げた。 「私は天使だから、みんなの涙をもらっているの」 「天使……? 涙を集めるなんて、どっちかって言ったら悪魔じゃないんですか」 「失敬な」  彼女は頬を膨らませた。  緩めのカットソーに、長めのスカート、髪の毛は肩より少し長いくらい。足元を見ると、スニーカーを履いている。  ……幽霊では、ないらしい。  しかし、ただの人間だとはもう思えなかった。 「あなた、私の姿が見えるなんて、疲れているんじゃない?」 「え?」  私の姿が見えるなんて……という、いかにも悪魔めいたセリフに気を取られていたが、なかなか失礼なことを言う。お互い様だろうか。  でも、確かに幻覚が見えるなんて、危機的な精神状態だろう。夜道で一人歩きながら泣いているという時点で相当だ。早く家に帰って寝た方がいい。 「そうみたいですね」 「あっ、待ってよ!」  引き留める声が聞こえたけれど、無視してアパートに入った。  悪魔なら部屋までついてくるかとも思ったのに、来なかった。頬を拭うと、乾いていた。  彼女とはすぐに再会した。  翌日、やはり終電で帰ると道端に彼女がいたのだ。今度は驚かせないようにという配慮なのか、街灯の下に立っていた。 「こんばんは」 「……こんばんは」 「ちょっと失礼」  彼女が腕を伸ばす。それで私は、今夜も泣いていることに気づいた。  彼女の腕は、電灯に勝るほど光り始める。 「そんなふうに道端に立っていて、職務質問とかされないんですか」 「されないねぇ。だいたいの人は私のこと見えないし」 「なんで私は見えるんですか。霊感とかないんですけど」 「さあ、私に聞かれても」  ケラケラ笑う頬も発光している。幽霊というより、化粧品のCMに出る女優の肌のようだった。  20代前半だろうか。私と同じくらいの年代に見える。 「見えない私に吸い取られるより、いいんじゃない?」 「うーん」  分からないようにやってくれた方が良かった気はするが、知ってしまった以上は見えた方がいいのかもしれない。  私は疲労感を覚え、というか地面にひれ伏したいほどの疲労感はここ2ヶ月ほどなくなることはなかったのでそれを思い出し、アパートに向かって歩き始めた。 「あ、待ってよ」 「用は済んだでしょう」  発光は消えていた。 「まぁ、そうなんだけどさ。なんで毎日泣いてるわけ? 良かったら、話くらい聞くけど」 「どうして、わざわざ?」 「私も話し相手がいるの、久しぶりだからさ」  アパートまでの道すがら、今まで彼女の姿が見えたのは赤ん坊くらいだったと一方的に話された。 「ほら、赤ちゃんが何もない空中をじっと見ているとかよくあるでしょ。あれって、私みたいな天使が見えてるんだと思うんだよね」 「だったら、赤ちゃんのところに行ってくださいよ」 「最近見かけないんだよ。暑いせいか、散歩もしてないし」 「保育園とかは?」 「人がうじゃうじゃいるところは苦手。それに赤ちゃんって、大声で泣いていても涙を流してるわけじゃないんだよ。なんなのあれ、フェイクだよフェイク」  アパートの部屋の前についた。 「じゃ、ここで」  会釈をしてドアの向こうに滑り込む。 「あ、待って待って!」 「なんですか」  半ば閉めかかったドアから、申し訳程度に顔を出す。天使だか悪魔だかを無碍にして、祟られたらかなわない。 「私も入れてよ。どうせ部屋に帰ったら、また泣くんでしょ」 「え?」 「あなたみたいに無表情で外で泣き出す人って、だいたい寝るまでメソメソしてるものだから」 「どうしてそんなことわかるんですか」 「経験則だよ、それくらいわかるよ、天使なんだから」  彼女はじれったそうに体を揺らした。 「細かいことはいいじゃない。一人で泣いてるより絶対いいって」  怪力なのか不思議な力なのか、ドアを開けて中に入ってきた。鍵は締めた方がいいよなどと、ヘラヘラ笑いながら言う。  睨んだくらいじゃ動じないので、私はこれ見よがしにため息をついて鍵を閉め、部屋に上がった。  彼女の存在は無視して、カバンを床に放り、ジャケットを脱ぐ。 「ああ、ほら、もう泣いた」  ちょっと笑って、彼女は私の前に座った。私は座り込んで、しくしく泣いていた。  彼女の言う通りだった。このところ、毎晩泣いている。  最初は、布団の中でだけだった。  それから、シャワーを浴びているときにも泣くようになった。次は、お風呂場で、洗面所で、部屋の中で、家のドアをくぐった途端に。  しまいにアパートに着いた途端に涙があふれるようになり、ついに昨夜は路上でも泣いてしまっていたのだった。  精神が異常域に達しつつあるという認識はあった。 「まぁ、なんでか知らないけど、悲しいなら、ケーキでも食べればいいよ」 「こんな夜中に」 「夜中のケーキはおいしいよ」  ニコニコと笑いながら、彼女は私の涙を吸い取った。  ひとしきり泣くと、途端に恥ずかしくなった。  それに見知らぬ、おそらく人間ではないものが自室にいるという異様さも気になる。  鼻をかみながら、どうやって彼女に帰ってもらおうかと考えていると、彼女は困ったように笑って立ち上がった。 「露骨に帰ってほしそうな顔するね」 「わかりましたか」 「でもさあ、また布団の中で泣きそうな気はするのよ」 「ありえる」  おとなしく帰ってくれるつもりはなさそうだ。  追い返す気力は残ってない。惰性でなんとか体を動かし、シャワーを浴びた。  お風呂場を出ても、彼女はまだいた。  会話をする元気もなくて、布団に滑り込む。 「もう寝るの? おやすみ」  誰かにおやすみと言われるのは、ずいぶん久しぶりだ。 「あ、ほらね」  やはり泣いてしまったのだ。  瞼の下をそっと押された。その感触はひどくやさしい。あるかないか分からないほどの軽さだ。  だから、きっと夢なんだ。天使も悪魔も幽霊もいるはずがない。疲れた私が作り出した幻なんだ。  だから、何を言ってもいい。 「……私」  目を閉じたまま話し出す。 「うん」 「………………仕事、つらくて。就職でこっちに来たんですけど、コロナで会社に行けなくて、入社式も研修もなしで、ずっと一人でこの部屋にいて」 「うん」 「出勤すれば、ようやく仕事らしい仕事ができるようになるって思ってたんです。そうやって耐えてたのに、出勤してみたら職場は殺伐としていて、先輩たちは忙しくてろくに教えてもらないし、お客様には怒鳴られるし、同期は全国バラバラで休みも合わないからオンラインでも話す時間ないし、それ以前に毎日終電でそんな暇もないし、そうまでして働いているのに会社は倒産するかもしれないとか言われてるし。入社したらがんばろうって、絶対がんばるんだって決めてたのに、そんな元気どこかにいっちゃって……もう、毎日、つらい」 「そっか」 「つらいよ」 「うん」  彼女はずっと私の頬を撫でてくれた。  寝ながら泣くときの、耳に涙が流れ込む嫌な感触がなくて、それだけで彼女がいて良かったかもなと思った。 「ごめん、もう寝る」 「うん、おやすみ」 「……おやすみなさい」  やっぱり涙が出たけど、久しぶりに朝日を見ずに寝つけた。  疲労のせいで、おかしな夢を見た。  と思ったのに。 「おっはよー」  彼女はまだいた。ソファに寝そべって、マンガ本を勝手に読んでいる。 「なんと言ったらいいか」  まさか悪魔だか幽霊だかが朝までいるとは思わなかった。 「私のことは気にしないで」 「と言われましても」 「こんなに朝早くに目覚まし鳴らしたってことは、今日も仕事でしょ? 急がなくていいの?」 「あ」  言われた通りなので、支度を急ぐ。  彼女はおとなしくマンガを読んでいて、私が出かける段になると立ち上がった。 「私も出るわ」 「あ、はい」  ようやく帰ってくれるのかとホッとしたことは、黙っておく。  勝手に出ていくのかと思ったら、律儀に玄関で待っていた。 「すり抜けられないんですか?」 「情緒だよ、情緒」  そんなこともわからないかと憤慨しながら、私が開けたドアをくぐる。 「じゃ、いってらっしゃーい」 「……いってきます」  どんな顔をしていいかわからず、会釈をして階段に向かう。  彼女は地上に降りないんだろうか。廊下から空に浮かぶ?  それは、情緒はあるんだろうか。  階段を下りる前に振り返ると、もう彼女はいなかった。 「こんばんは」 「こんばんは」  三日目ともなれば、驚かなかった。彼女は、やっぱりアパート前の路地にいた。 「お、今日は泣いてないじゃん」 「そうなんですよ」 「ケーキ食べたの?」 「食べてませんよ」  私はもう用なしだろうと思っていたのに、彼女は当然のように部屋についてきた。 「今日は元気なんだ?」 「そういうわけでもないですけど、なんでついてくるんですか」 「今は泣いてなくても、そのうち泣くかもと思って」 「完全に悪魔のセリフですね」 「いや、天使なんだって」  半ば無視して部屋に戻る。今朝は、ふだんより少しだけスッキリした気持ちでいたのに、一日を終えると疲労困憊だった。  冷蔵庫からペットボトルを出して、冷えたお茶を飲む。少しホッとした。 「あっ、ほら!」  鬼の首を取ったかのように彼女が声を上げる。私が反応する前に、いつの間にか傍に寄ってきて、涙を吸い取っていった。 「わーい、やーい、やっぱり泣いた」 「いじめっ子ですか」 「いじめてもないのに泣いてる人に言われたくないね」 「それもそうか」 「今日も仕事きつかった? それとも、失恋でもした?」 「セクハラですか」 「話題を振っているだけだよ。今日も誰とも話してないんだってば」  涙が納まってきたので、ソファに座った。彼女も並ぶ。 「あなたは……あ、名前ないんですか?」 「だから、天使だって」 「名前なのかよ!」 「天使に名前はないでしょ」 「いや、あるでしょ」  ミカエルだとか、あったはずだ。 「ないと思うけどなぁ」  呑気に首を傾げている。 「いったい天使ってなんなんですか。涙を集めるってどういうこと?」 「こういうこと」  まだ残っていたのか、私の目尻に触れるかどうかというところまで手を伸ばす。  ゆったりと伸ばした白い腕が、指先から微かに光った。キラキラしたものは、彼女の頬を内側からぽわっと光らせて消えた。 「それは……吸収してるの? 食べもの食べてる感じ?」  首を傾げられる。 「って言っても、わからないのか。食べもの食べないの?」 「天使だからね」 「でも、ケーキは好きなんだ?」 「好き。大好き。生クリーム最高!」 「なんで知ってるの? 食べたことないんでしょ?」 「……ほんとそうだね!」  今気がついたとでも言うように、彼女は目を丸くした。  見た目はそこら辺を歩いていそうな、ごく普通の若い女性だし、服装も今風だ。 「天使になる前のこと、何も覚えてないの?」 「天使は生まれたときから天使でしょ」 「でも……ああ、いいや」  彼女はきっと、事故や病気などで、最近死んでしまったに違いない。  それで幽霊となって、現れているのだ。生きていた頃の記憶は失ってしまい、自分の名前さえ忘れて、この世をさまよっているのだ。 「涙って、いつまで集めるの?」 「さあ。でも、もう少しって気がするんだ」  霊的な修行のようなものだろうか。一定量まで集まると、天国に行けるのかもしれない。  そう考えると、つじつまは合うような気がした。  彼女は、毎晩うちに来るようになった。  私は毎日泣き、彼女は涙を吸いながらキラキラ光って笑った。マンガを勝手に読み、私の愚痴を聞き流しながら、動画を見たいとねだった。  涙を見逃さない以外は、家族のようにいた。 「最近、あまり泣かないね」  そう言われたのは、彼女と出会って1ヵ月も経つ頃だった。そのとき彼女は、大あくびした私の目ににじむ少量の涙を大事そうにすくっていた。 「私はもう用なし?」  言った途端に後悔した。 「ごめん、今のなし」 「なーに、私が来ないと寂しいんだ?」  ニヤニヤと笑われたのが癪に障った。傷ついた顔をしたくせに。 「そりゃ、寂しいよ」 「へぇ。私も」  へへへと不気味に笑って彼女は口元を隠したけど、目がニヤけてる。  ブスっとしてた私の口元もムズムズした。  二人して並んで座りながら、にへにへと奇妙な声を漏らした。かなり気持ち悪い光景だが、ひどく心地いい。 「……んふふ」 「アハハ」  終いには、何がおかしいのか分からないほど笑った。  彼女の手が伸びてきて、私の目元に触れる。  笑いすぎて出たわずかな涙は、余すことなく彼女に吸われていく。彼女の腕は光り輝いていて、真っ白というより透明に近かった。 「なんか、天使、薄くなってない?」 「はぁ?」  それがまたおかしくて、息がひきつるほど笑う。  天使もお腹を抱えて笑っている。笑うほどに光って、薄くなっていく。 「え、なんで薄くなってんの?」 「アハハ、私も、わかんない、ああ、お腹いたい」 「わかんないって、なにそれ」  笑いを引っ込めるために、大きく息を吐く。 「……天使、消えそうだよ。消えたら、天国に行っちゃうの?」 「たぶんね。天使だからね」  それなら私はきっと、祝わなくてはならない。  天使はお腹をさすりながら伸びをして、笑いすぎた喉を癒すようにコーラを飲んだ。  飲み物も食べ物も、天使が欲しがるので、最近は天使の分も用意していた。実際に食物が減ることはないものの、味はわかる気がするなどと言う。  情緒だよ情緒。口癖のようなその言葉の意味を、私も分かるようになっていた。  天使は天使であって、もはや天使でない。彼女は人間じゃないけど、私にとっては大切な人になっていた。 「うれしい? 天国行くの」 「わかんない。行きたくない気もしてる」 「……だったら」 「でも、行かなきゃいけない気もしてる」  天使が微笑むたびに、体は薄くなっていく。 「なんだよ、どんな仕組みなんだよ、それ! どうしてどんどん薄くなっていくの?」 「私にもわかんないけどさ、あんたが笑っても泣いても光るみたい」 「どっちもダメってことじゃん」 「どっちもいいってことなんだよ。あんたと初めて会ったとき、表情なんて無かったもん。あれに比べると、ずっと人間っぽいよ」 「いや、ずっと人間だよ、私」 「私は天使なんだよ」  アハハッと天使は笑った。微笑むより大声で笑う方が、消えるスピードが早い気がする。 「もうやめてよ。消えないで!」  私は久しぶりに泣き出していた。  天使はそれを吸い取る。 「どんな仕組みなんだろうね。笑った方が光る気がする」 「……もしかして、必要なのは涙じゃなくて感情なのかな。だから、笑っても泣いてもどっちでも光る?」 「かもしれない。だから、ちょっと怖くて、うれしいのかもね」  私が眉をひそめると、天使はパッと笑った。 「まあ、なんだね。もうちょっと大丈夫だと思うからさ。今日は映画見る約束だったじゃん」  ニヤニヤ笑って、泣ける映画観ようよなどと言う。 「やだよ! ここで泣いたら天使いなくなるかもしんないじゃん!」 「もう泣いてるみたいだけど」 「うるさい!」 「まだ大丈夫だよ、たぶん」  天使はパソコンを勝手に動かしだす。日頃、情緒などと主張して私を働かせるくせに、いざとなったら大抵のことができるのだ。 「観ようよ映画。そんで、コーラ飲んで、お菓子食べようよ」 「食べられないくせに」 「情緒だよ情緒」 「……絶対いなくならない?」  なけなしの勇気を出した情けない問いは、情緒のかけらもなく笑い飛ばされた。  結局、私たちは映画を見た。全世界が泣いたと言われた映画を選んだのに、設定がガバガバで入り込めなくて、早々にツッコミ大会に変わった。  天使は食べられないくせに、特大袋のポテチを一人で食べきったと言い張った。 「ケーキも食べたいな、ショートケーキ」 「明日買ってくるよ」  映画を見終わっても、天使はダラダラとソファに寝そべっていた。少し白い気もしたけど、いつもと変わらない。  私は安心して寝た。  それが、天使を見た最後だった。  次の日の晩、望みをかけてショートケーキを買ってきたけど、天使は現れなかった。  私は、ショートケーキを買い続けた。終電帰りの日はコンビニで、休みの日には近所の洋菓子店を調べて、一軒ずつ通った。  久しぶりに食べるケーキは、一人でもおいしかった。天使に出会う前にはなくしていた味覚と食欲が、完全に戻っている。  近所を制覇すると、隣の駅にまで足を延ばした。  それは、洋菓子店を辿り始めて十軒目、最寄り駅から四駅目にあるこじんまりとした個人店だった。ショーケースの並んでいる店舗部分の隣に、ガラス張りの作業場が見えた。  そこに、彼女がいた。  白い帽子をかぶり、白衣を着ている。  私は、思わず足を止めた。見覚えのある彼女の顔より、見たこともないような暗い表情に目が留まった。  こんな表情は見たことがなかった。彼女はいつだって明るくあっけらかんとしていて、私がどんなに暗くてもひょうひょうとしていた。  同一人物とは思えない。  けれど、外見は確かに彼女と同じだった。  混乱する頭を冷やそうと後ずさりすると、店から出てきた人とぶつかりそうになった。店内の人とかわす挨拶から、パートから帰るところだと思われた。  謝罪ついでに、尋ねた。 「すみません、あの人って……」 「ああ、あなたも同級生?」  この間も誰か来たわ、と言う。あえて訂正はしない。 「退院して、お父さんのお店で働き始めたんですよ」 「どこか悪かったんですか?」  店員は、途端に言葉を濁した。辛いことがあったんでしょうよと分かったようなことを言い、こちらに目配せをしてくる。  イラつきを覚えながらもいくつか質問を重ね、別のところで暮らしていたものの、精神疾患で数か月間入院していたのだと知れた。  となれば、私と会ったのは、入院中ということになる。  人間だったら不可能だが、天使に肉体はなかった。彼女の精神だけの姿が、天使だったのだろうか。  精神を病んで治療していた彼女が、人間の感情を求めてさまよっていたというのか。  私が彼女から気力をもらったように、彼女も人間たちから力をもらっていたのだろうか。  そうやってまた、現実の世界に戻ってきたのだろうか。  彼女が戻ってきた天国とは、現実社会のことだったのだろうか。  行くのは、ちょっと怖い気もしている。でも、行かなくちゃいけない。彼女はそう言った。  そう言って、戻ってきてくれたのだ。  私は店に駆け込み、作業場に首を突っ込むと叫んだ。 「覚えてない? 私のこと!」  中にいた店員たちがあっけにとられているけど、知ったことじゃない。  彼女は眉をひそめ、訝しそうに私の顔を見る。  ああ、表情こそまるで違うが、彼女だった。私の知ってる、心のある彼女だ。私の知らない、肉体のある彼女だ。  奥にいた、父親らしい人が出てくる。 「うちの娘の知り合いですか」  彼女を見つめたまま、私は首を横に振る。  人間の彼女に会ったのは、今日が初めてだ。  でも。 「友だちになれると思うんです、私たち」  言ったとたんに、天使と別れて以来の涙がこぼれた。  彼女の口元が奇妙に歪んだのは、笑ったせいだと思う。 - 終 -
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