この世界は愛で色づいている -シャガールの誕生日より-

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 昼時、パンにミルクという軽食をすませたところで部屋のドアがノックされた。控えめなリズムで。コン、コンコン、と。  予定のなかった来訪者を、わたしはまず億劫に思った。それでも律儀に返事をして立ち上がったのは、いつまでもコンコンと戸が鳴らされ続けたからだ。そこには確かな意志が聴こえた。  これから堪能する予定であった静かな昼のひと時、それを邪魔する者でないことを祈りながらドアを開けると、ほの暗い廊下にはややうつむき加減の、怯えたような目つきをした若い男が一人たたずんでいた。  線の細い体、血色のよくない顔、そのどれもがわたしにとって身近なものではなかった。ありていに言えば、わたしはこの男のことを知らなかった。名前も尋ねてようやく知ったのだ。「どなた?」「マルクといいます」と。  男が郵便配達員の類でないことはその外見から分かった。まだ新しい深緑色のシャツに黒のズボン、それに艶のある美しい黒の革靴。ちょっとした余所行きのあつらえだ。ただ、まだドアを開けただけだというのに、男が身にまとう独特の匂いは強烈だった。すでにアパルトマンの狭い廊下はその匂いで充満していた。 「絵具の匂いですよ」  やや誇らしげに、うれしそうに、厚みのない胸を張った男は、そのすぐあとに背を丸めて自らの胸元に鼻を近づけた。 「臭いかな?」  少し考えてから正直に答えた。 「いいえ」 「そう。よかった」  男は安堵した顔になると、後ろにひそめていた片手をわたしの前に差し出した。その手に握られていたものは麗しい花束だった。 「なんですかこれは」 「花束です」  至極真面目に答えるものだから軽くにらんでやった。 「そのくらい見れば分かります」  白とピンクと黄色。乳児の顔くらいに大きな花が三つ。それを厚手の葉で囲んだアレンジは素朴でありながらも贅沢に映った。 「なぜこれを?」  男が困ったように頭を掻いた。その指の隙間から粉雪のようにぽろぽろと頭垢(フケ)が零れ落ちる。 「これは君への贈り物です」 「……贈り物?」  わたしは半分開けたドアの取手を持ったまま、この見知らぬ男の前でしばらく考え込んだ。 「どなたからでしょう?」  わたしには花を贈ってもらえるような恋人はいない。だが家族にも友達にも、こんな仰々しいことをする者はいない。それに今日はただの週末だ。祝日でも誕生日でもない、平凡な秋の一日の昼下がり。  と、絵具や目の前の花束以上に濃厚な香りを鼻がとらえた。  振り向くと、室内の床には花瓶がいくつも置かれていて、それらすべてに様々な花が活けられていた。そのことになぜか今気づいた。自分の部屋だというのに。  野菊にエリカ、サルビアにリンドウ、そして夏を思わせるヤナギバヒマワリ……。  その花々を見た瞬間、違和感が生じた。  よくわからないが胸がざわついた。  そういえば、朝起きてからずっとこんなふうに心にさざ波が立っていた。昼食も、小さなパン一つ食べるのにやけに時間がかかってしまった。その間、暖かな日差しは窓ガラス越しに過分な光量を室内に届けていた。だから食事中、窓側に向いていた右の頬は熱いほどだった。  なのになぜだろう、わたしは常にグレーの霧に覆われていた気がする。グレーの霧に覆われながら、不鮮明な室内で一人過ごしていた気がする……。 「ベラ」  名を呼ばれ、ゆっくりと男に振り向いた。 「どうしてあなたはわたしの名前を知っているの?」 「それはもちろん、あなたにこの花束を届けるためです」 「……そう。そうよね」  当たり前のことを指摘され、羞恥に頬が火照った。 「いただくわ」  誤魔化すように、おずおずと花束を受け取る。だがそこには期待していたもの、つまりメッセージカードの類は何も添えられていなかった。 「あの、贈り主はどなたでしょうか」  それに男が小さく息をのみ、一拍おいて答えた。 「あなたをもっとも愛する人からです」  心当たりが全くなかった。 「わたしを愛する人? それはどなた?」 「それは……今は言わない方がいいのです」 「どうして? だって知らなければわたしはその方にお礼を言うこともできないわ。それに知らない方から贈り物をいただくなんてできません」  男がひどく困った顔になった。  それを見てわたしはこの男に対して同情した。  きっとこの男は報酬を得るために花束を届ける役目を請け負ったに違いない。いや、もしも無償であったとしても、わたしがこの花束を受け取らなければ、男は信頼と矜持、その両方に傷を負ってしまうのだろう。  だからわたしは男に対して正直になりたくなった。それで男を傷つけてしまう己の負い目を減らしたくなったのだ。 「実は、ですね」  秘密話をするように自然と小声になったわたしに、男がその顔を近づけてきた。不意のことで、絵具が原因だという男の匂いの中に心づもりする間もなく侵入してしまった。だが男との距離とこの匂いに相関関係があることに気づくと、なぜか男に対して奇妙な親近感をもった。それによりわたしの口はより一層滑らかになった。 「わたし、恋とか愛とか好きじゃないんです」 「……好きじゃない?」  男が丸くした目でわたしを真正面からとらえる。 「そんなに驚かなくてもいいでしょ? 年頃の女がこんなことを言ったら変かしら」  腰に手をあて、怒ったふりをしながら、故意に男から体を遠ざける。至近距離で見つめ合うにはわたしは男のことを知らなすぎた。 「あ、ああ。ごめん」  謝るたびに頭を掻くのは男の癖なのだろう、また頭垢がぽろぽろと床に舞った。頭を下げて、頭頂部をはっきりとこちらに見せて。まるで全面降伏しているかのようだ。  つい笑ってしまいそうになったがなんとか堪えた。腕を組んでおなかを押さえ、少し背をそらしてみる。これ以上の説明は自己を保たないと難しいからだ。 「……わたし、学生の頃にすごく好きな人がいたんです」  男は頭を掻く手を下ろしてわたしを無言で見つめてきた。なんだって知らない女の話をこうも真面目に聞こうとするのか、男の愚直さにまたも羞恥を覚える。つい今しがた虚勢を張ったばかりだというのに。だが話を始めたからには続ける必要があった。 「彼はわたしに思わせぶりな態度をとっていて、友達も、わたしと彼は絶対に両想いだって太鼓判を押してくれていたんです。わたしもそう思っていたの。だからある日、想いを告げようと決意したんです。だけどその日に運悪く見てしまって」 「……何を?」 「彼が他の女の肩に手をまわしているところを。『好きだ』って耳元でささやいているところを……」  思い出すと、今でも悲しみといら立ちで胸がいっぱいになる。 「だからわたし、もう恋はしないって決めたんです」  あの日、彼とその女は学校の中庭のベンチでぴったりと寄り添っていた。それはひどく絵画的な光景だった。彼とその女は、あつらえたかのように、一対のモデルのごとくその場にいた。大樹からこぼれ落ちる紅葉がはらはらと、くるくると舞う様は、二人の燃える恋と浮かれる心を表現するかのようだった。  そこにはわたしは無用だった。 「恋も愛も、もうたくさん。それで秋も嫌いになったんです。カラフルな景色なんて見たくもないから」  以来、わたしは黒の服を好んで着ている。今もそうだ。着ている膝を覆う丈のワンピースは、ちらと見える襟は白いが全体は黒い。靴も黒だ。なにを意固地になっているのかと、事情を知る妹はあきれた顔をしている。それはわたしも自覚している。  だけどあの日の色が怖いのだ。  何年も前の出来事、その日の色鮮やかさが瞼の裏から消えなくて怖いのだ。  あの鮮やかな光景が、色が、わたしを深く傷つけ、深い悪夢に突き落としたのだから……。  黙って話を聞いていた男がふいに言った。 「じゃあなぜ君の部屋には色が多いんだ?」 「……え?」  意味が分からないわたしに、男が指を室内へと向けた。 「見てごらん」  振り向き――愕然とした。  狭い室内いっぱいには、信じられないくらいの色が溢れかえっていたからだ。  真っ赤なカーペット。  同じく赤の、それも手の込んだ刺繍をほどこされたベッドカバー。  窓に掛けられたタペストリーのラピスラズリのような鮮やかで深い青。  テーブルクロスのシックな青ですら、紅いテーブルを引き立てるためのものだ。  それに花々。  床に置かれた花瓶に生けられた花々はどれもみずみずしい色を湛えていた。  淡い白地の野菊。薄紫色のエリカ。ブルーのサルビア。ピンクのリンドウ。ヤナギバヒマワリはまぶしいほどに鮮やかな黄色をしている。  強すぎる驚愕は背後の男の声で打ち砕かれた。 「思い出してくれよ、ベラ」  振り向くと、男はいまだわたしを見つめていた。  視線が合った瞬間、すがるような男の双眸がかすかに揺れた。  切なさを恥ずかし気もなくあらわすその純な双眸にわたしは言葉を失った。 『なぜ?』 『なぜあなたはそんなふうにわたしを見つめるの?』  しかしその疑問は口に出すことはできなかった。それを言ってはいけないと、わたしの中に潜む誰かは知っている。そんな不思議な作用を感じて、わたしは言葉を飲み込み、男を見つめ返した。  男がゆっくりと薄い唇をひらいた。 「君の中の僕が消えてしまってもいい。けれど愛は消さないでくれ」 「あ、い?」  舌の上で転がした言葉は、まるで初めて口にしたシュガーレスのキャンディーのようだった。だが男にとっては馴染みのある味のようだった。深く頷いた男の目はもう揺れることをやめていた。 「そうだ。愛だよ。君は愛することの喜びを知っているじゃないか。愛を交わし愛をとなえることの幸福を知っているじゃないか。一度でも愛を知った君が愛を忘れてしまったなんて……そんなの僕には耐えられない」 「ま、待って」  突然のことに頭がついていかない。 「ちょっと待って。お願いだから」  高熱を発したときでも起こりえないほどのひどい頭痛を感じ、わたしの体はよろめいた。ふらりと傾いた体を男が支えようとした気配を感じたが、男はその手を伸ばしてはこなかった。ためらいながらも男は触れてはこなかった。  だからわたしは自分自身でなんとか己を保った。開かれたままのドアに身を寄せると、蝶つがいが抵抗するかのように重い音を立てた。  廊下には今もこの男しかいない。  暗く、しんと静まりかえっている。  蝶つがいのこすれる残響だけが細く長く、いつまでもしつこく聞こえるだけだ。  室内の賑やかな色使いとは正反対の、まるで夜のような空間が、この状況を夢の延長線のように錯覚させる。    しばらくドアに身を支えてもらう他、ない。そうしなければ立っていられなかった。目を閉じ、胸を押さえながらわたしは体が鎮まるのを辛抱強く待った。  その間も男は片時もわたしから目を逸らさない。熱い視線は見ずとも全身で感じられた。その熱こそが、ここが夢の世界ではなく現実であることを実感させた。  わたしは呼吸を整え、まだ痛む頭に眉をひそめながらもなんとか言った。 「あなたは……わたしを知っているの?」  男はそれには答えようとはしなかった。  長い沈黙に耐え切れずようやく顔を上げると、男の顔には苦渋の色がありありと浮かんでいた。  男がようやく口を開いた。 「君がそんなふうに愛に寂しい意味づけををしていた時期があったなんて、僕は今まで知らなかった。だって君はいつでも快活で愛に素直な人だったから……」  男はためらいながらも一度下を向き、それから決意を秘めた顔を上げた。 「人にとって、君にとって一番大切なものは愛だよ。そして僕は君とそれを分かち合える唯一の存在だ」  男は自分の言葉こそが真実であるかのように熱をこめて語っていった。 「僕は神を強く信仰していない。だけど今は……今こそは祈りたい。もしも誕生日にどんな願い事でもかなうというのであれば、僕は君の愛を取り戻したい。君が愛を思い出してほほ笑んでくれたら、もうそれだけで……」 「……あなたは」  言いかけたわたしの言葉を封じるかのように、男がぐっと顔を近づけてきた。  それは一瞬のことだった。  青白い顔で、悲壮な面持ちで、男がわたしの唇をふさいだ。    幸福とは真逆の男の様子は、わたしが男の不埒な行動を批判することをゆるさなかった。逃げることも拒むことも、突き飛ばすこともできず、わたしは男の唇を受け入れ続けた。  どのくらい時間がたったのだろう、男がそっと唇を離した。 「これは僕の祈りであり、願いだ」  至近距離で見つめあう男の目は何一つ嘘を言っていない。  そう思えた。  その瞬間――。  男の言葉どおりの真摯な想いが、わたしの無意識下にあった箱を開ける鍵へと変貌した。  いつからだろう。いつからわたしの中にはこんなに深くて暗い森が生い茂っていたのだろう――。  その森の最果てに、こっそりとしまわれていた鋼鉄の箱。  堅くて重くて、無駄に丈夫で。  触れないでいたせいで、それはすっかりさび付いてしまっている。  そのせいで小さな鍵穴はよく見えなくなっている。  だがそこにそっと差し込んだ鍵は、まるでオイルを垂らしてあったかのようにあっけなく回った。かちりと音が鳴ると、箱自体に意思があるかのように、それは厳かに開いた。  月の光も届かない闇ばかりのその場所に、ぽう、と淡い明かりが浮かんだ。  目覚めたばかりの光は、最初はゆるやかに、だが加速度的に膨張し、森全体を、わたしの鬱屈とした心を照らしていった。漆黒の葉をまとった木々は、照らされてみれば、あたり一面すべてが紅葉だった。  覆う空は青く高く澄んでいて――。  ああ、そうだ。  あの失恋を覚えた季節と同じ秋の日に、わたしは一人の少年に出会ったのだ――。  晴れ渡る空の下、少年は一人丘に座って秋の彩る木々をスケッチブックに熱心に写し取っていた。その色の鮮やかさはわたしの抱えていた秋特有の悲しみをきれいに拭い去ってくれた。少年は秋の美しさを思い出させてくれたのだ。  そしてその少年はもっとも大切なことをわたしに教えてくれたのだった――。 「ああ、マルク……」  わたしは男の首にそっと両手を回した。男がその身を大きく震わせたけれどかまうことなく男の頬に自分の頬で触れた。 「マルク、思い出したわ。わたしの最愛の人、愛するマルク。あなたがくれた愛、あなたとしか分かち合えない喜びを……」 「ベラ……!」  男が――マルクがわたしをかき抱いた。 「思い出してくれたのか? ベラ、ベラ……!」  歓喜を抑えることなく。  今度こそ力強く、熱く。 「わたし、どうしてあなたのことを忘れていたんだろう……。いつから? 一体いつからあなたのことをわたしは悲しませていたの……?」  マルクが頬を寄せてつぶやいた。 「もういいんだ。そんなことはもうどうでもいいんだ」 「でも」 「僕は君といるだけでどうしようもないほど幸せになれるから。だからたとえ悲しいことがあったとしても、そんなのは些細なことなんだ」  触れ合うと、マルクからは絵具の匂いがはっきりと香った。  だがそれこそがわたしの幸せの源なのだ。  そういえばずっと花の香りに包まれて暮らしていた気がする。どれもマルクが贈ってくれたもののような……気がする。灰色の世界で、毎日花束を手に現れた人がいたような……そんな気がする。  けれどわたしの魂を揺り動かすものといえば――マルクしかいない。  マルクだけなのだ。  そして今日は――マルクの誕生日。  最愛の人がこの世に生を受けた大切な日だ。 「誕生日おめでとう、マルク。生まれてきてくれてありがとう」  その言葉は素直に沸いて出てきた。 「こんな時に何を言ってるんだ」  苦笑するマルクに、「だからこそよ」と言い返して腕に力を籠める。これにマルクが苦し気な声をあげた。だが声音は心底楽しそうだ。 「そうだ。絵を描いてくれない?」 「今から?」  こんな時に、とまた言われそうだが間髪いれずに言う。 「こんな時だからこそよ」  小さく息をのんだマルクは、やがて柔らかな笑顔を浮かべてうなずいた。 「分かった。僕と君との愛、幸福のすべてを描くよ。その絵を見た誰もが恋をしたくなるような、愛する人を大切にしたくなるような……愛を思い出すような。そんな絵を描きたい」  そう言ったマルクを、わたしは思い出したばかりの笑みを浮かべてもう一度抱きしめたのだった。
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