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ふと襖が開いて、里佐が顔を出した。湯気を立ち上らせる湯飲みが二人分、傍らにある。
「ご苦労、休んでおれ」
言葉遣いはぞんざいだが、妻への気遣いがにじむ声音だった。
天保元年(一八三〇)生まれの安任は、間もなく六〇歳になる。対する里佐は、まだ四〇代である。四朗の目には年が離れすぎているように思うが、当人たちは周りの思いなど意に介さない様子で楽しげに過ごしている。安任も里佐も若いとは言えない年齢だが、二人でいる時だけやけに若返って見えるのだった。
(老いてますます頼もしいな)
四朗はそんな思いを素直に抱いた。
「それにしても、お前はまだ私を社長と呼ぶのだな」
安任はくすぐったそうな顔をしながら、満更でもない様子だった。
「谷地頭を遠く離れた場所でもなお、牧場を経営しておられる。そう名乗っても良いと思います」
「開牧社はもう辨二に任せた。悠々自適に暮らしたいが、長い間牛や馬を追い続けて、その暮らしでなければ落ち着かなくなってしまった。困ったものだ」
「いくら年を取っても、新たなものを追う人間は老け込むことがない。まさか東京に牧場そのものを拓くと聞いた時は驚きましたが」
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