第4話 別れと始まり

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第4話 別れと始まり

        1 「本当に……黒札なの?」  念のため確認すると、閻魔は『ああ』と短く答えた。お父さんは引き攣った笑みを浮かべている。 『じ、地獄行きだなんて、閻魔さんも冗談キツイなあ」 『これが冗談を言っている顔に見えるのか』  閻魔の表情に遊びはない。お父さんは顔面蒼白になって閻魔に縋った。 「む、むしろ冗談だと言ってください! ここは笑うところだと言ってください! ドリフよりも大爆笑して見せますから!」  ……我が父ながら実に情けない姿だよ。 「なんでお父さんが地獄行きになるの?」 『以前にも言っただろう。最も身近な存在である家族から嫌われている者には、厳しい裁きが下ると』 『ちょっと待ってください。子供たちからこんなに愛されているお父さんがどこにいますか。ねえ、霊子ちゃん』 「うん……それはどうだろう」 『ちょ、霊子ちゃん!』 「いや、探せば良いところもあると思うよ」 『だったらお父さんの良いところ、閻魔さんに百個言ってあげて!』  それこそ地獄だよ。でも二つ三つは言っておかないと、流石に可哀想だ。 「えっと、例えば……」  ……うーん、初手から詰まってしまった。どうしよう、良いところがまったく見当たらない。口ごもる私を見て、お父さんが焦燥を浮かべている。 『どうしたの、霊子ちゃん。偽証でも何でもいいから、でっち上げちゃってよ!』  形振り構わないにも程があるでしょ。 「お父さん、閻魔に嘘をついたら、何をされるかわかっているよね?」 『亀甲縛りだっけ?』  ……M体質のお父さんには、むしろご褒美じゃない。 「舌を抜かれるんでしょ。私はそんな目に遭いたくないよ」 『大丈夫、女性は生まれながらにして女優って言うでしょ。上手く閻魔さんを騙しちゃってよ、バレないバレない』  あなた娘に何を(そそのか)しているの。うろたえる私たち親子にウンザリしたのか、閻魔が口を挟んできた。 『良いところよりも、むしろ悪いところなら出るんじゃないのか』 「そりゃそうでしょ。門徒からも呆れられるほどテキトー男で甲斐性もなく、経済的に困窮して私たち兄妹をいつも苦しめていた。死んでからも付きまとって、私と友達の会話には勝手に入ってくるし、自分の尻拭いを押し付けて来るし、それから――」 『霊子ちゃん、もう止めて! お父さんのライフはすでにゼロだよ……』  死んでいるだけに、なんて言うのかと思ったら、お父さんは本気でガックリと項垂れている。どうしよう、沸き上がる悪口が止められない。 『どうやら地獄行きで文句はないようだな』  閻魔が札を出そうという仕草を見せたので、私が慌てて止めた。 「ちょっと待って、時間を頂戴。お父さんの良いところを探すから!」 『身内なのに探さないと見つからない時点で、アウトだろ』  ……正論過ぎて、ぐうの音も出ません。 「少しでいいから猶予を与えてよ。幸子さんに対しても何もしなかったし、このままお父さんについても何もしなければ、私が後悔する」  閻魔はギロッと私を睨んだ。本気かどうか、確かめているようだ。 『――良いだろう、一日くれてやる。明日の深夜零時までに反証が出なければ、黒札を渡す』 「わかった、時間をくれてありがとう」 『霊子ちゃん、大丈夫? たった一日で地獄行きを逃れる弁護ができるの?』 「何とかするよ」  そう言いながら、誰よりも私が自信を持てずにいた。         2  翌日、私は大学に来ていた。学食前にあるテラスで、いつもの通り丸テーブルについている。 『霊子ちゃん、お父さんは今夜にも地獄行きが決まっちゃうんだよ。呑気に大学で講義を受けている場合じゃないでしょ』  悲壮感丸出しの声でお父さんが迫ってくる。 「仕方がないでしょ、これ以上休んだら出席を取る教養科目を落としちゃうんだから」 『単位なんてまた来年取ればいいじゃない。お父さんには今日しかないんだよ』 「わかっているって」 『だったら今すぐ、緊急対策本部を立ち上げないと』  大袈裟でしょ、まったく。コーヒーを飲みながら待っていると、目当ての里香と文乃が現れた。 「やっほ、霊子」 「昨日は残念だったね」  二人には神崎君とのお出掛けについて、LINEで報告していた。ただ上手く行かなかったと伝えただけで、お母さんから送られてきた刺客だったことは、身内の恥でもあるので伏せていた。 「仕方がないよ。寺の娘とミスター清明大学だから、元々不釣り合いだったし」  自虐的に笑うと、里香が言う。 「霊子の良さは、すぐにわかるものじゃないからね」 「そうなの?」 「女性特有の嫌味がなくてサバサバしているし、裏表もなくて安心感があるよ」  里香の見解に文乃も頷いた。 「正直者で駆け引きもいらないタイプだから、一緒にいて凄く楽だし」  そんな風に思って貰っているなんて、知らなかった。お父さんもニッコリと笑っている。 『良い友達を持ったね、霊子ちゃん』  ついでに良いお父さんを持っていたら、こんなに苦労しなかったんですけどね。 「二人はお父さんの良いところ、言える?」  実はこれを訊きたいがために大学へ来た。他人の意見を参考にするのはズルい気もするけれど、何か良い思い出が蘇る取っ掛かりになるかもしれない。  私は自然と前のめりになったけど、里香と文乃は少し引いていた。 「……やっぱり、まだお父さんの死から立ち直れていないんだね」 「ち、違う、そうじゃないから」 「誤魔化さなくてもいいんだよ。私たちが付いているんだから」  重く受け止められてしまった。何とか理由付けしないと。 「うちは寺の住職っていう珍しいお父さんだったからさ、普通の会社員の家では、どうなのかなって思っただけ」 「うーん、どこにでもいるオヤジだよ」 「そうそう、映画やドラマに出てくるような、オシャレなパパなんていやしないって」 「休みの日は家でゴロゴロしているだけでね」 「プロ野球がどうした、サッカー日本代表がどうしたって、話す内容はスポーツ新聞レベルだし」  へえ、やっぱりどの家のお父さんも、娘から呆れられているのか。そう思ったら最後に誉め言葉が待っていた。 「それでもちゃんと仕事をしているから、偉いかな」 「アルバイトだけど、自分で働いてみて大変さがわかるよね」 「稼いだお金も全部自分で使えるわけではなく、家族のために捧げるわけだし」 「親なら当たり前なことだと言われるだろうけど、その当り前なことを当たり前にやるあたりは、尊敬するよ」  ……これは困った。うちのお父さんはテキトー過ぎて当り前のことさえできない、ろくでもない男だったから。 「霊子のお父さんは亡くなってしまったけど、きっと天国から見守っているよ」  里香の言葉に文乃が「仏教なんだから、極楽浄土でしょ」とツッコむ。二人は笑っていたけれど、私は笑えなかった。お父さんは真横にいるし、このままでは極楽ではなく地獄へ行くから。  その後も二人からお父さんの良いところを聞き出したけれど、参考になるものは何一つなかった。そもそもうちのお父さんがダメ人間過ぎるのが問題だと、あらためて認識するだけだった。         3 『どうするの霊子ちゃん、もう日が暮れちゃったよ』  お父さんが半分泣きそうな顔で迫ってきた。一生懸命探したけれど、何も見つからずに時間だけがイタズラに過ぎていく。  大学から大往寺に戻った今も、自室でアルバムを眺めていたけれど、イライラする思い出しか出てこない。流石の私も焦り始めた。 「霊子、晩御飯ができたよ」  お兄ちゃんに呼ばれて居間に入った。今夜は野菜たっぷり、あんかけ焼きソバだ。イケメンで料理上手、ちょっと天然ボケだけど純粋な心を持っているお兄ちゃん。そんな息子の立場から、お父さんのことをどう思っているんだろう。 「ねえ、お兄ちゃん。お父さんの良いエピソードって、何かある?」 「色々あるよ」  これは手応え有り! 私は鼻息荒く訊ねる。 「なになに? 教えて」 「父さんが酷いテキトー男だったお陰で、慣れない僕がミスをしても、門徒の人が優しく許してくれる」  ……随分とマイナス思考なエピソードだよ。 「他には?」 「僕が前の会社をクビになると時、父さんが助けてくれたんだ」 「なにそれ、初耳だよ」 「責任は部下に押し付け、手柄は自分の物、そんな嫌な上司がいたんだけど、彼がとんでもないミスを犯して、取引先を大激怒させてしまったんだ。それでも、上司はいつも通り僕ら部下のせいにした」 「上層部に真実を訴えれば良かったじゃない」 「もちろんしたよ。でも、取り合って貰えなかった。すでに上司が根回ししていたんだ」  厭らしい人間ほど、自己保身のため狡賢い知恵が回る。 「このままでは会社に大損害を与えるところだったんだけど、父さんが機転を利かしてくれたんだ。取引先の偉い人が浄土真宗本願寺派の門徒でね、そのネットワークを使って無類のブランデー好きだと知ったんだ」  それを聞いた私の記憶が刺激された。確か綾小路さんが寄付を拒否したのは、お父さんが高級なブランデーを買ったために、金がなくなったと言ったからだ。あのブランデーは自分で飲むためではなく、贈答品として買ったのか。 「そのブランデーを持って、先方に謝りに行ってくれたんだ。あの時の父さん、カッコ良かったよ。『住職の本気、見せてやる』って言いながら、先方が許してくれるまで拝み倒していたんだから」  ……それ、カッコイイのかな。 「お陰で取引を再開することになって、会社の損害は免れた。でも、会社としての評判はガタ落ちだ。誰かが責任を取らなければならない状況になって、僕がクビを差し出した」 「そうだったんだ。損な役回りを引き受けるなんて、お兄ちゃんらしいけど」 「家族持ちの人が職を失うわけにはいかないからね。僕はまだ若いから、何とかなるかなと思って」  実際のところ、再就職できていないけどね。でも良いエピソードが見つかった。これならイケるかもしれない。そう思っていたら、お兄ちゃんが付け加えた。 「高いブランデーを買ったせいで、ただでさえ苦しかった寺の運営資金が大ピンチを迎えたんだ。その結果、門徒に寄付を頼んだり、お布施を弾んでもらうよう協力を要請したり、大迷惑を掛けたけど」  ……うん、プラマイゼロになったね。綾小路さんが怒るのも無理ないよ。 「父さんは子どものことになると、後先考えずに行動しちゃうから」  確かに『自分の子どもは別格なんだ』って言っていた。お父さんが子を想う気持ちは本物なんだ。  さり気なく横目でお父さんを見た。お兄ちゃんとのエピソードを聞いてどう思っているんだろうと確認したら、なぜか玄関の方を見て怯えていた。 『あの足音は……なぜ大往寺に来たんだ、紀香さんは』 「え? お母さんが来たの?」  断りもなく玄関が開かれた。元々この寺に住んでいたお母さんにとって、大往寺の間取りは勝手知ったるものだ。迷わず居間まで来ると、隣に高杉さんを従えて私たちを見下ろした。 「邪魔するわよ」 「何しに来たのよ!」  番犬のように反応した私は、立ち上がりざまに吠えた。お母さんは意に介さず話を進める。 「今日は取引に来たのよ。あなたをうちの会社で預かるためにね」 「私の人生は私が決めると言ったはずよ。もうお母さんとは関わりたくないから!」 「取りあえず、話だけでも聞きなさい」 「嫌よ。絶対にお母さんの会社なんて入らない」 「それでも良いわよ。この寺が浄土真宗本願寺派から、破門されても構わないんだったら」 「えっ……どういうこと」  思わぬ内容に私がトーンダウンすると、あっという間にお母さんのターンになった。 「高杉、説明してあげて」  指示を受けた高杉さんが、カバンからレジュメを取り出した。それをテーブルの上に乗せる。 「ご存知の通り、浄土真宗はお守りやお札といった類のモノを否定しています。しかし、大往寺はグッズの販売を行いました」 「いや、あれはリストバンドや目覚まし時計といった雑貨だよ。違反には当たらないはずでしょ」  私は反駁を加えたが、高杉さんはレジュメを指した。 「購入者はそうは思っておりません。これはSNSに上げられている『大往寺グッズ』の感想をまとめたものです。誰もが『このリストバンド、ご利益ありそう』『大往寺の名前が入っているだけに、縁起がいい』『幸運を招きそう』、そんな期待を込めて身に着けています。つまりこれは、お守りと同じ効用を求めて購入されている、と解釈されます」 「購入者がそう思っているだけで、大往寺としては雑貨として扱っているんだから、問題ないよ」  私の主張に対し、お母さんが冷酷な目で指摘する。 「それを判断するのは霊子、あなたじゃないわ。教務所を始め、本山が判断することよ」  ――これは本気で大往寺を潰しに来ている。お母さんは私たち兄妹を罠にはめて自滅するのを待つ作戦を捨て、直接的に廃寺へと追い込みを掛けてきた。 「大往寺グッズが売れたのは、トップアイドルである華村リンネが拡散したことがきっかけでしょう。その華村リンネ自身、SNSで『大往寺のリストバンドを付けていると、守られているような気がする』と書いているのよ」 「それは仏様ではなく――」  きっとお兄ちゃんに守られている、そう言いたいんだ。もちろんそんなことは書けないから、それとなく想いを込めて私信している。でもリンネちゃんは今を時めくトップアイドル。そんなことお母さんが相手でも暴露できない。なにより私信の相手である、お兄ちゃんが気づいていないくらいだから…… 「何か言いたいことがあるのなら、ハッキリと言いなさい」  お母さんが詰め寄ってくる。子どもの頃からそうだった。言いたいことを言えと言いながら、言えるような雰囲気を作らない。むしろ無言の圧力で意見を封じ込めようとする。 「――別に何でもない。大往寺としてはお守りやお札といった類ではなく、あくまで雑貨品だと主張するから」 「だったら裁判になるわね」 「えっ、なんで……」 「本山はこの寺を破門にするわ。それが不当だというのなら、訴訟に打って出るしかないでしょ」 「ちょっと待ってよ、最初から破門になるとは限らないでしょ」 「なるのよ。確実にね」  お母さんは断言した。浄土真宗本願寺派の有力者を抱え込んでいるのだろうか。もしくはマスコミを使って騒ぎ立て、本山が処分せざるを得ない世論を作り出す気なのか。どうであれ、この人はどんな手段を使ってでも、破門へと仕向ける気だ。 「長い裁判になるわね。当然、時間と労力が必要になる。もちろん、訴訟費用も。この大往寺にその資金が賄えるかしら」  私は奥歯を噛んだ。この寺が火の車だとわかっていながら、その弱点を突くえげつない兵糧攻め。  何も言い返せなくなった私を見て、母は自身の優勢を意識したのだろう。大往寺を、いや私の人生を詰ましに来た。 「この寺を救うには、あなたが私の言う通りにするしかないわね。経営学部へ転部し、卒業後はアメリカのビジネススクールへ進んでMBAを取得する。そしてうちの会社へ入り、私の右腕として働くのなら、大往寺には一切手を出さないと約束するわ」  私にはこの申し出を受ける以外に、選択肢が見当たらなかった。もはやこれまでかと思いながらも、最後に悪あがきをする。 「……お母さん以外でも、大往寺グッズを不適切だと非難する人が出てくるかもしれない。そうなればお母さんの申し出を受けても、同じ危機を迎えることになるでしょ」 「その時は、うちの会社が全面的に大往寺を守るわよ。優秀な法務部だけでなく、顧問弁護士にも当たらせるわ。もちろん、掛かる費用はエルモッソで受け持つから心配無用よ」  至れり尽くせりだ。黙って聞いていたお兄ちゃんも、流石にお手上げのようだ。 「たった一人しかいない実の娘とは言え、霊子のためにここまでしてくれるなんて凄いね。それだけ貴重な人材だと認められている証拠だよ――」  確かに、有難い話なのかもしれない。望まれているうちが花とも言うし、もはや断る理由を探す方が困難だ。  悔しいけれど、お母さんの軍門に下るしかない。会社をクビになったお兄ちゃんが、自ら首を差し出すことで丸く収めたように、私がこの身を差し出すことで大往寺が守られるのなら、それも寺の娘として立派な務めだよね。ホント、私たち兄妹って損な役回りばっかりだよ。  そう覚悟を決めて前を向いた時、お兄ちゃんが続けて言った。 「――でも霊子が受け入れたくないのなら、ハッキリと断って良いんだよ」 「えっ」  私は目を丸くした。驚いたのはお母さんも一緒だった。 「翔平は自分が何を言っているのか、自覚しているのかしら。判断を誤ると、この大往寺が潰れるのよ」 「もちろん、わかっているよ」  お母さんは呆れた溜息をついた。 「仮にも大往寺の住職でしょ。長い歴史の中で多くの魂がこの墓地で眠り、今も門徒を抱えている。その想いを守ろうとは思わないのかしら」 「それって、母さんが自分の会社を守ろうとする動機に似ているよね。母さんは従業員や取引先の生活を保護することを大義名分に、娘の気持ちや将来よりも会社の存続や事業規模の拡大を優先させている。でも、僕は霊子を守るよ」 「お兄ちゃん……」  私はその横顔を見つめた。お兄ちゃんはいつになく凛々しく見える。 「門徒の減少や後継者不足が叫ばれているこのご時世、廃寺は珍しくない。だから本願寺派では寺院解散の手引きが作られている。大往寺が潰れても、ここに眠る魂は他の浄土真宗本願寺派に継承して貰う道もある。もちろん、色んな人に多大な迷惑をかけることになるけどね。でも、霊子はそうはいかない。父さんの娘であり、僕の妹である霊子は一人しかいない。寺とは違って他はないんだ」  勝勢を意識していたお母さんは、思わぬ反撃を受けて顔を顰めている。 「大往寺よりも、霊子を取るというの」 「自分の家族に犠牲を強いるような住職が、門徒の魂に安らぎを与えるなんてチャンチャラおかしいよ。妹一人守れないのなら、そもそも僕には寺の住職を務める資格なんてないんだ」  お兄ちゃんは私に視線を送った。それはとても澄んだ瞳だった。 「だから霊子、自分の将来は自分で決めれば良い。留学や母さんの会社に入りたいのならそれも良いし、嫌ならハッキリと断っても良い。きっと父さんも、生きていたら同じことを言ったはずだよ」 『その通り! よくぞ言ってくれたよ翔平君。流石お父さんの息子だ。霊子ちゃん、翔平君の言う通り、大往寺のことは気にせず好きにして良いからね』  お父さんとお兄ちゃんを交互に見た。二人とも同じ目をしている。本当に似ているな、この親子。だからこそ、二人とも本音で言ってくれているとわかる。 「――わかった。自分の人生は自分で決める」  お兄ちゃんは「それで良い」と頷いてくれた。私は堂々と宣言する。 「お母さんの敷いたレールには乗らない。私はこれからも、この大往寺で暮らしていく」  お母さんは深く重い溜息をついた。 「まったく、もう少し頭の良い子だと思っていたけれど、どうやらあの人の血を半分は受け継いでしまったようね」 「悪く言わないで。別れたお母さんにとってはすでに他人なのかもしれないけれど、私たちにとっては死んでもお父さんなんだから」 「よく考えなさいと言っているの。世の中には留学したくても、経済的に困難な人がたくさんいるのよ。就職で浪人する人もいる。あなたは何の不自由もなくアメリカに留学ができて、その上将来が約束されたポジションで上場企業に入れる。すべてあなたのためにもなるでしょう」 「そんなの嘘よ! 全部お母さんの満足のために、娘を利用しているだけでしょ! 私は海外でMBAを取得したいわけでもないし、そもそも経営学を学びたいわけでもない。やりたくもないことを押し付けておいて、なにがあなたのためよ!」  私は本気で怒っているのに、お母さんはまるで飼っている子犬が喚いている程度にしか思っていないようだ。その顔には余裕が浮かんでいる。 「霊子はまだ子どもだから、今は自分のキャリアに対してどれほど有益なことなのか、わからないだけよ。そのうち私に感謝をする時が来るわ」 「……お母さんはいつだってそう。私が何を言おうが、どんな主張をしようが、まるで相手にしてくれなかった。そもそも、威圧的な態度で何も言えないようにしていた――」  私はお母さんを睨み返した。 「――でも、お父さんは違った。私が言うことを全部聞いてくれた。思い返してみれば子どもならではのバカバカしい事を言っていたし、生意気なことも言っていた。間違ったことを言ったこともあった。それでもお父さんは決して見下すことなく、同じ目線ですべてを受け入れてくれた」 「あの人の知的レベルが低いから、自然と子どもたちと合っただけよ」 「お母さんの、そういう上からの態度がおかしいんだよ。両親が別れるとき、いつの間にかお兄ちゃんはお父さんと一緒に暮らすことが決まっていた。きっとお母さんにとって、父親似のお兄ちゃんは必要なかったんでしょ」  お母さんは無言のまま私を見ていた。否定しないことが寂しかった。 「私がどちらと暮らすか選ぶように言われたとき、お父さんを選んだ。私が即答したのが意外だったのか、珍しくお母さんは動揺していたよね」 「当り前じゃない。霊子はずっと、お父さんを嫌っていたでしょう」 「それだけ言いたいことを言えていた証拠なんだよ。お父さんには遠慮なく、すべてを話せた。それが親子の会話でしょ。でもお母さんとの間に親子の会話なんてなかった。子どもの言うことをまったく聞き入れず、ただお母さんから指示が発せられるだけの一方通行なんて、会話じゃない。あんな親から子への上意下達、単なる命令だよ!」  私は自然と涙ぐんでいた。声が震えても、それでも私はすべてをぶつける。 「お父さんはいつでも私たちのそばにいてくれた。親バカかもしれないけれど、自分の子どもは別格だと言っていた。そんなお父さんに付いて行く方が、当たり前じゃない。それがわかっていないこと自体が、お母さんが子どもをろくに見ていない証なんだよ」  私が思いの丈をぶつけても、お母さんは怯むことはなかった。むしろ闘志が湧き上がっているような強面を見せている。 「どうやら言葉だけでは理解できないようだから、実際に痛い目を見て貰うしかないわね。可能ならば裁判による時間と労力、それに資金は使いたくなかったけれど、これも親が負担する子育て費用だと思って払ってあげるわ。覚悟しなさい」  獰猛な肉食動物のように、お母さんの眼光がギラリと光った。これは本気だ。自分の遺伝子を受け継いでいる唯一の娘、その私に女性向けコスメを販売する会社を受け継がせたい気持ちはわかる。でも、それだけの理由でここまではしない。今でもお母さんは別れた夫の住処だった大往寺を憎んでいるんだ。この寺を潰すことも目的に入っているんだ。 「ま、負けないから」  怯みそうになる私の隣で、お兄ちゃんは顔色一つ変えていない。こういう時、反応の鈍い天然ボケが心強く感じる。  引き上げようとするお母さんに、お兄ちゃんが「母さん」と声を掛けた。  「まだ何か用があるのかしら。私はもうないけれど」  あからさまに不機嫌な顔をしている。変なことを言うと、火に油を注ぐことになるのは明白だ。お兄ちゃんは相変わらず飄々とした顔で言う。 「ただでさえあまり会えないのに、これから対決をしなければならないみたいだから、今のうちに伝えておきたいことがあるんだ」 「なによ、改まって」 「僕は男だから実際のところはわからないけれど、出産の痛みは鼻からスイカを出すくらい激痛だってよく耳にする」  急に何を言い出してんの? 私の心配をよそに、お兄ちゃんは続ける。 「もちろん、鼻の穴から出たスイカなんて食べたくはないけど」  ……本当に何を言い出してんの。案の定、お母さんの眉間がピクピクしているのが見えないの? 「そんなくだらない話を聞いている暇はないのよ」  踵を返したお母さんに、お兄ちゃんはいたって真顔で言う。 「ちゃんと言葉にして伝えたかったんだ。『命懸けの激痛に耐えながら僕と霊子を産んでくれて、ありがとう』って」 「お、お兄ちゃん……」  想定外の言葉に、私は驚きを隠せなかった。背中を見せているお母さんも立ち止まった。そのまま動けずにいる。 「しばらくは敵同士だけど、母さんと僕たちが親子であることは変わらない。訴訟の決着がついたら、また親子として再会しよう」  やっぱりお兄ちゃんは太陽の人。北風である私やお母さんを、丸ごと包み込んでしまうほどの包容力がある。  しばらく固まっていたお母さんが、首だけ動かして横顔を見せた。さっきまで剥き出しにしていた憤怒が、どこかに散ってしまっている。 「訴訟で追い込むと言っている母親に感謝を述べるなんて、兄妹揃ってオメデタイ頭をしているわね――」  何て言い草だと私はカチンと来たけれど、お母さんの本心は他にあった。 「――そんな頭の悪い子、エルモッソでは必要ないわ」 「え……それって――」 「霊子の好きにしなさい。でも気が変わってうちの会社に入りたくなったら、いつでも言いなさい。扉は開けておくわ」  高杉さんに対して「行くわよ」と短く声を掛けると、お母さんはそのまま振り返らずに大往寺から出て行った。高杉さんもどこかホッとした表情を浮かべながら、私たちに会釈してお母さんの後に続く。あの人も、やりたくて汚れ仕事をやっているわけではなさそうだ。  もはや親子間での骨肉の争いは避けられない状況だったのに、お兄ちゃんの一言で和平が結ばれてしまった。これで大往寺はしばらく、安泰になる。 「なんであんなことを言ったの?」  訊くとお兄ちゃんは平然と答えた。 「ずっと心の中にはあったんだよ。今度はいつ会えるかわからないなと思ったから、言葉にしたんだ。父さんだって、何の前触れもなく急死してしまったからね。伝えられないまま終わりたくなかったんだ」 「いつもお母さんから爪弾きにされていたのに、感謝していたなんて知らなかった」 「僕たちは三人で暮らしてきたけれど、母さんはずっと一人だった。それを想うと、切なくなるんだ」 「お母さんは一人の方が好きなんじゃない? 家族と離れて、むしろ清々していると思うよ」 「そうかな。狂ったように没頭して会社を大きくしてきたのも、寂しさを埋めるためじゃないのかな」  そういう見方もあるのか。時々お兄ちゃんの深い視野が羨ましくなる。 「とにかく、これで大往寺の存続問題は解決だね」  どっと疲れを感じていたら、強い視線を感じた。振り返るとそこには閻魔がいた。 「いつの間にいたの?」 『お前の母親が来てから、騒がしかったからな。何事かと思って顔を出した』 「なんだか親子喧嘩を見られていたみたいで、恥ずかしいな」 『おかげで異議申し立ての根拠が見つかっただろう』 「えっ」 『お前の口から直接聞いた。父親である大往寺権太の良い点をな』  そっちの方がよっぽど恥ずかしい。私が苦笑いを浮かべていると、お父さんが催促してくる。 『まだ九十個くらい言えるよね。霊子ちゃん、ガンバッ!』  鬼か。珍しく褒めて貰えたものだから、お父さんは無駄にテンションが上がっているようだ。 「これ以上エピソードを出すのはしつこいって。むしろ嫌がられて逆効果だよ」 『娘の言う通りだ。裁きを下す材料はもう充分得ている』  閻魔が手許の閻魔帳に目を落とした。私は目を丸くする。 「さ、裁くの?」 『ああ。頃合いだろう』 「お、お父さん、覚悟は良い?」 『う、うん。また地獄行きだったら、思いっきり駄々をこねるけどね』  大の大人が手足をバタつかせながら「ヤダヤダ!」なんて喚いている姿はみっともないけれど、お父さんならやりかねない。 『では再度裁きを申し渡す――』  閻魔は静かに閻魔帳を閉じた。ハッキリとした淀みのない声で、その決断を告げる。 『大往寺権太、お前を「更生プログラム二番目の白札」とする』  私は自然とガッツポーズを取った。 「やったねお父さん! 白札だけでなく、上から二番目の好条件だよ!」 『せっかくだから閻魔さん、もう一声!』  なに欲張ってんの。閻魔も怒り出すんじゃないかと懸念していたが、意外にも閻魔は頷いた。 『良いだろう、もう一声に応えてやる』 「え、ホントに?」  驚く私の隣で、お父さんは満面の笑みを浮かべている。 『なんでも言ってみるもんだね!』 『では大往寺権太、更生プログラムを二番目に変えて三番目とする』 『ちょ……もう一声の方向が違いますよ!』 『それ以上喋ると、さらに増やすぞ』  やっぱり怒っている……お父さんは一気にシュンとした。閻魔はそれを見下ろしながら、サッと札を取り出した。 『二番目で勘弁してやる。受け取れ』  お父さんは『ハハー』と、(へつら)いながらそれを受け取った。ついに白札が手渡された、それはお父さんとの別れを意味する。私は過った寂しさを誤魔化すように、作り笑いを浮かべた。 「これで正真正銘、サヨナラだね」 『うん。お父さんが成仏したら、遠慮なく忍んで』  強要しないでよ。でも最後までお父さんらしくて、思わずホッコリしてしまった。 「それじゃお父さん……元気でね」 『もう死んでいるって』  私まで同じことを言ってしまった。やっぱり家族だな、と思う。 「お兄ちゃん、お父さんが成仏するんだよ」  教えてあげると、私の発言からお兄ちゃんは何となく勘づいていたようで、小さく頷いた。 「大往寺と霊子のことは僕に任せて、父さんは安心して極楽浄土でゴロゴロして」  よくお父さんの希望がわかったね。流石は似たもの親子、以心伝心だ。 『閻魔さんも、色々とご迷惑をお掛け致しました』 『気にするな、と言いたいところだが、本当に迷惑だったぞ』  閻魔は少しだけ目尻を下げた。お父さんも微笑んでいる。 『では、一足先に極楽浄土で待っているよ。翔平君と霊子ちゃんも、百歳まで生きたらおいで』  お父さんは静かな手つきで札を切り取った。やがて一条の光が差し、お父さんを包み込む。  これで最後だ。何か伝えないと。そう焦るほどに頭の中が真っ白になる。 「お、お父さん……色々とありがとう」  ようやく出てきたのは、月並みの言葉だった。もっと伝えたいことがあるのに、感謝の気持ちがあるのに、それが自分の中で空転するだけで出てこない。  そんな私の気持ちを知ってか、お父さんはニッコリと笑った。 『二人とも、自分で選んだ道で頑張るんだよ』 「……うん、頑張る」  あんなに嫌いだったお父さん。いつもウザかったお父さん。離れて欲しいと思っていたのに、いざ永遠に離れてしまうとなると、心の奥が締め付けられる。 『翔平君、霊子ちゃん、お父さんの子どもとして生まれてくれて、ありがとう』  その一言が私の涙腺を緩めた。自然と涙を零しながら、私も応えた。 「わ、私も……お父さんの子どもで良かった」  徐々にお父さんの輪郭が光にのまれていく。思わず手を伸ばそうとしたけれど、寸前のところで思い留まった。  お父さんは最後まで笑っていた。目尻にクッキリと皴が寄る、屈託のない笑顔。私はそれを瞼に焼き付けるように見続けた。 『極楽浄土へ行っても、お父さんにとって二人は別格だからね』  その一言を残すと、お父さんは完全に光に包まれ、消えて行った。辺りは何事もなかったように、静まり返っている。 「……お父さん、成仏しちゃった」  私が呟くと、お兄ちゃんがそっと寄り添ってくれた。 「最後まで、笑顔だった?」 「うん……いつもの笑顔で消えて行った」 「そうか、父さんらしい最後で良かった」  言いようのない淋しさに襲われた。いなくても大丈夫だと思っていたのに、ポッカリと空いたお父さんの穴は、すぐに私の動揺を誘った。 「お父……さん……」  零れる涙が抑えきれなかった。私は無意識のうちにお兄ちゃんの胸に飛び込んだ。心の隙間を埋めるように、私は号泣した。  転んだ園児みたいに泣き叫ぶ私を、お兄ちゃんはいつまでも慰めてくれた。         4  いつもの時間に自然と目が覚めた。  昨夜お父さんと別れた後、泣き疲れていつの間にか眠ってしまったようだ。周りをキョロキョロしてみるけど、やっぱりお父さんの姿はない。改めて成仏したんだと認識する。  顔を洗おうと洗面台に向かう。途中の縁側に出ると、そこに閻魔はいなかった。お父さんの裁きが終わった今、大往寺に滞在する理由がなくなったんだ。  サヨナラも言わずに姿を消すなんて、随分と冷たい最後だ。でも、余韻さえ残さずに消えてしまうのは、なんとなく閻魔らしい。  私にしか見えない二人が、一度に消えてしまった。寂寥感から自然と涙が出そうになる。でも、下唇を噛んでそれを堪えた。いつまでも悲しんでいてはダメだと自分に言い聞かせる。 「霊子、朝ご飯ができたよ」  お兄ちゃんに呼ばれて居間に入った。卓袱台にはいつも通り、炊き立てご飯を中心としたバランスの良い和食が並ぶ。 「いただきます」  いつもと変わらない美味しい食事。食べ慣れているお兄ちゃんの味なのに、食器がカチャカチャと鳴る音が妙に気になる。 「うちってこんなに静かだったっけ?」 「父さんが死んでからそうだよ。霊子は今日からだね」  歩く騒音だったお父さんが、いなくなった途端の静けさ。当たり前だったことがそうではなくなったと気付いた時に、大切な存在を亡くしたことを実感するんだ。そしていつの間にか、静かな我が家の方が当たり前になっていく。 「僕は今日も職探しに行って来るけど、霊子は大学を休む?」 「なんで? 別に体調は悪くないよ」 「昨日の今日だから」  お兄ちゃんは私の動揺に気づいて、さりげなくフォローしてくれている。その温もりがありがたい。 「大丈夫。お父さんも今頃は更生プログラムを受けているはずだから、私だって負けていられないよ」 「わかった、霊子のことは霊子自身に任せるよ」  仏のように優しく微笑んでくれるお兄ちゃん。この存在にどれだけ助けられたことか。そろそろ自立を考える年頃だけど、もう少しだけ甘えさせて貰おう。  身支度を整えて、出かけようと自室を出た。縁側を抜ける時、何気なく墓地に目をやる。いつも閻魔が眺めていた景観は、今日も何一つ変わりはない。 「どうしたの霊子、墓地なんて見つめて」  お兄ちゃんが不思議そうに首を傾げていた。私は苦笑しながら言う。 「閻魔がいつもこの縁側で横になりながら、墓地を眺めていたんだ。いったい何を見ていたのかなって思って」 「きっと、何も見ていなかったと思うよ」  お兄ちゃんは意外なことを言った。今度は私が首を傾げる。 「どういうこと?」 「門徒がお墓参りに来るのはお盆と命日くらいで、普段は人が寄り付かない。どこか不気味な雰囲気のある墓地で、はしゃぐ人や遊ぶ子どもなんていないからね。だから、考え事をするには丁度良い場所なんだよ」  私はハッとした。目を向けているからと言って、その情景を見ているとは限らない。閻魔は静かで落ち着けるこの場所で、じっくりと考えを巡らせていたんだ。強気で不愛想な印象とは裏腹に、その内側では深く悩み、苦しみながら死者を裁いていた。そんな素振りを微塵も見せないなんて、とても芯が強い閻魔。 「お兄ちゃんはどうして見えるの?」 「何が?」 「誰もが心の壁で隠している向こう側が、見えているでしょ」 「うーん、遺伝かな。父さんもそうだったから」  確かに、お父さんの一言にハッとさせられることは多かった。 「いいな、私もその深い視野が欲しい」 「僕は霊子が羨ましいよ。幽霊が見えるんだから」 「見たいの? 意外とミーハーだね」 「一度でいいから本物の『うらめしや~』を聞いてみたいんだ」  誰も言わないよ、そんなベタなセリフ。こんなくだらない事でも、私は思わず笑ってしまった。心が少し、軽くなった気分。 「それじゃ、大学へ行ってくる」 「気を付けて」  お兄ちゃんに見送られながら、カバンを片手に寺を後にする。門を出たところで、大往寺を振り返った。  歴史を刻んだ古い木造の寺院。生まれた時からこの寺で暮らし、育ってきた場所。何一つ変わっていないはずなのに、どこか印象が違って見えた。  大往寺が変わって見えるのは、きっと私が変わりつつあるから。 「――よし、行って来ます」  力強く一歩踏み出した。大学へ向かってと言うよりも、自分の将来に向かって。  私の新しい「これから」が、今日から始まる――
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