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第2話 成金と一善
1
「これで一段落だね」
お父さんの納骨が済み、私は居間で一息ついた。お兄ちゃんがお茶を入れてくれる。お母さんがこの寺を出て行ってからというもの、家事全般はお兄ちゃんが受け持ってくれていた。
両親が離婚した当時、私はまだ小学生だった。それに対して五歳年上のお兄ちゃんは高校生、まだ小さい私に包丁や火を扱わせることは危険だと考えたのか、取り決めたわけでもないのに、自然とお兄ちゃんが進んでやっていた。私は大学生になったいまだに、その厚意に甘えている。
そしてもう一人、良い年をした大人なのに甘えていた、どうしようもない父親がいる。ご存知、私のお父さんだ。
『翔平君が入れてくれるお茶は絶品だからねえ、お父さんも飲みたいよ』
湯気が立つ湯呑を物欲しそうに見ている。私はこれ見よがしに一口飲み、「ああ、美味しい」と厭味ったらしく言った後、余っていた葬式饅頭を口にした。ほのかに甘いこしあんが舌の上でとろける絶品。お父さんはさらに私をじっと見つめた。
『いいな~、疲れた体に甘いものを食べると、生き返るでしょ?』
死んだ人間にそう言われると、すごく重い言葉に感じるんだけど。それでも私はお父さんをギロッと睨んだ。
「誰のせいで疲れたと思っているのよ、まったく」
火葬の最中、お父さんは子供のようにハシャギまくった。燃えていく自分の体を、まるで社会科見学に来ている小学生のように見つめていた。
『ほら、見て見て霊子ちゃん。お父さんは人生で一番燃えているよ!』
あなたの人生は数日前に終わっているんですけどね。
『おおっ、奇麗に焼きあがったねえ。今のお父さん、体脂肪率がなんとゼロパーセントだよ! ライザップを超えているよ!』
ライザップどころか、三途の川も越えているじゃない。
『見事に骨だけになったねえ。霊子ちゃんも焼き魚を食べるときは、これくらい奇麗に食べた方がいいよ』
……もう焼き魚を食べるたびに、お父さんの遺骨を思い出すよ。そんな余計なトラウマを娘に植え付けておきながら、お父さんは上機嫌で納骨まで私たちの傍を離れなかった。本当に行くところがないみたいだ。
ウンザリしている私をお兄ちゃんが見つめていた。
「さっきから、霊子は誰としゃべっているの?」
「お父さんだよ。霊となって周りにいるから」
「へえ、そうなんだ」
お兄ちゃんが明後日の方角を向いたから、私が教えてあげた。
「そっちはただの柱、お父さんは私の左隣」
幽霊なんてまったく見えないのに、お兄ちゃんは私の言うことを疑いもせず、左隣に向けて手を挙げた。
「やあ父さん、元気?」
だからもう死んでいるって。親子で天丼するの止めてくれる?
『翔平君にはものすごい迷惑をかけて、申し訳ないね』
珍しくシュンとしているお父さんを見て、私は目を丸くした。
「その辺は自覚しているんだ?」
『まあね。この手が付けられない霊子ちゃんの面倒を、たった一人で見てもらわないといけないんだから』
あなたに言われたくないよ。呆れながら私が通訳すると、お兄ちゃんは屈託のない笑みを浮かべた。
「霊子のことは問題ないよ。ちょっと寺が心配なだけで」
「何か気掛かりなことでもあるの?」
「大したことではないんだけど、このままだと大往寺は潰れるかな」
明日は雨かな、そんなノリで言われたから、私も思わず「へえ、そうなんだ」なんて軽く返してしまった。事態の深刻さを認識すると、私はテーブルを叩いた。
「一大事じゃない!」
「そうかな? ただ経済的にピンチってだけで」
「お金がなければ大企業だって潰れるんだよ?」
「逆に考えてごらん。稼げば丸く収まるってことでしょ」
お兄ちゃん、社会人経験者なんだからお金を稼ぐ苦労を知っているでしょうが。まったく、こういうところがお父さんに似ちゃって残念だよね……
「どうやって稼ぐつもり? あてでもあるの?」
「一発逆転を狙って、ガッツリ稼ぐ方法を考えているよ」
すでに嫌な予感しかしないんですけど……私の心配をよそに、お兄ちゃんは意気揚々と提案する。
「坊主バーってあるよね。あれからヒントを得て、『坊主バーバー』ってどうかな?」
「理髪店を営む気?」
「坊主頭限定のね」
「浄土真宗は有髪オッケーの宗派なんだよ。だからお兄ちゃんだって、髪の毛があるんじゃない」
「ああ、そうか。だったらどんな髪型でも対応しよう」
「それじゃ他の理髪店と変わらないよ」
「いやいや、うちのBGMはお経だよ?」
どこで差別化してんのよ。余計に客が来ないでしょうが。
「そもそも理髪の免許を持っていないでしょ。これから専門学校に通うとしたら、資格を取る前に大往寺が潰れちゃうじゃない。もっと即効性のある、現実的なアイディアはないの?」
「うーん、だったら回転寿司でもやろうか?」
文字通り『生臭坊主』になる気ですか。
「それこそ過当競争で、大手しか残れない業界じゃない。素人が手を出して上手くいくはずがないでしょ」
「他店にはないサービスを付ければ良いんじゃない?」
「どうするの?」
「寿司じゃなくて、僕が回るよ」
……お兄ちゃん、真顔で「前転の練習しなくちゃ」って言うの止めてくれる?
『それは珍しくて客が殺到するね。回転寿司だけに、きっと目が回るような忙しさになるよ』
お父さんはお父さんで、ツッコんで欲しそうな顔をしている。なんなの、この親子。
「慣れない商売をするよりも、ちゃんと仕事を見つけた方が良いって。他の寺だって兼業が当たり前の時代なんだから」
お兄ちゃんは一ヶ月前、勤めていた会社をクビになっている。理由は聞いていないけれど、なんとなく察しが付く。妹の目から見てもミス連発のド天然なんだもの……
「霊子の言うとおりだね。初七日が終わったら、アロハワークにでも行ってくるよ」
無職がバカンス気分で働く気ある? 妹ながらお兄ちゃんの将来が心配になるよ。
「霊子はどうするの?」
「私も初七日を終えて落ち着いたら、また大学への通学を再開させるよ。アルバイトも探して、少しは家計の足しにするから」
「悪いね、霊子にまで迷惑をかけて」
「兄妹なんだから、力を合わせて頑張るのは当然でしょ」
ずっとそうだった。お父さんがだらしなかったから、私たちは自然と支え合いながら生きてきた。他の兄妹よりも絆は強いかもしれない。
『良い息子と娘に恵まれて、お父さんは泣けてくるよ』
そう言いながら「うんうん」と頷いているけど、余計な苦労をさせられたのはあなたのせいですからね、お父さん。
「そろそろ晩御飯の支度をしようかな。今夜はポトフでどうだろう?」
「賛成」
「少し食材を買い足さないといけないな」
「じゃあ、私が行ってくるよ」
料理をして貰うんだから、お使いくらいは行かないと。お兄ちゃんからメモを受け取った私が寺の敷地を出ると、斜め左前に設置されている電柱の陰に、人が立っていた。
黒いキャップに大きなサングラス、さらにはマスクという完全防備だ。まさに不審者を絵にかいたような出で立ちで、大往寺を見つめている。
背があまり高くない上に、華奢なスタイルから見て恐らく女性だ。私が近づいたら、気配を察したその不審者はハッとして踵を返し、小走りで離れていった。
「あの~、うちの寺に御用ですか?」
背後から声を掛けたけど、不審者は振り向きもせずに去って行った。私は首を傾げながらスーパーに向かって歩き出す。今度は寺の前で車が停まる音がした。振り返ると黒塗りのレクサスが停車している。教務所から使いの人でも来たのかな。まあ住職を継いだお兄ちゃんがいるから大丈夫か、そう思って私は寺には戻らなかった。
これが後に大騒動を招くとは、思いもしなかったから。
2
「ただいま~、遅くなってゴメン」
駅前のスーパーへ行くだけだったのに、途中で中学時代の旧友と出くわしてしまった。お喋り好きで有名なその子に捕まりたくはない私は、軽い挨拶だけ済ませて離れようとしたけど、父が亡くなったことを人伝に聞いたらしく、旧友は私への心配を混ぜて話を続けたため、無下にもできずトークに付き合う羽目になった。
なんだかんだで小一時間も要してしまった。すでに下ごしらえを終えていたお兄ちゃんは、私から新たな食材を受け取って、料理を再開させる。
出来上がるまでの間、私は何となく縁側に向かった。今日も閻魔が墓地の方を向きながら、涅槃仏の姿で横になっている。その隣で恰幅のいい六十代半ばの男が、なぜか土下座をしていた。よく見るとそれは、先日亡くなった門徒の『綾小路宗清』さんだった。
「何をしているんですか?」
声を掛けると、顔を上げた綾小路さんが私を見て目を丸くした。
『お、俺の姿が見えるのか?』
まるで幽霊を見たかのように驚いていますけど、あなたが幽霊ですからね?
『娘は生まれつき、強い霊感を持っているんですよ』
付いて来たお父さんが、自分のことのように自慢げに言った。子供を自慢する親ではなく、子供が自慢できる親になって欲しかったんだけど。
『そ、そうなのか』
情けない姿を目撃されてしまった綾小路さんは、気まずい表情を浮かべた。状況からみて、考えられる選択肢は一つしかない。
『閻魔さんから、キツイ更生プログラムを予告されましたか』
お父さんが訊くと、綾小路さんは「違う」と言いながら強気の表情を取り戻し、鼻をフンッと鳴らした。
『――情け無用の地獄行きだよ』
もっと酷いのか……納得がいかない綾小路さんは、憤まんやるかたないといった口調で文句を言う。
『俺は貧しい家庭に生まれながらも懸命に努力し、会社を興して一生懸命に働いてきた。金に物を言わせてライバル会社を潰し、時には政治家を抱え込み、労働者を使い捨てながら成り上がって会社をデカくした。いったい何が悪いというんだ!』
……答え、出ていますよね。そんな金の亡者だから、地獄行きを言い渡されるんですよ。それでも本人は納得がいっていない。さらに成り上がりの人たちは、なぜか威張る傾向にある。綾小路さんは怒りの矛先をお父さんに向けた。
『おい、大往寺。門徒が地獄行きになろうとしているのに、何をボサッとしているんだ。お前からも閻魔にお願いしろ!』
『いまさらそんなことを言われても、無理ですよ』
『代々この寺を支えてやっているのに、なんだその言い草は!』
怒りを募らせていく綾小路さんに対し、お父さんは拗ねたように口を尖らせる。
『経済的に困っていた時、寄付をお願いしたのに「ビタ一文もやらん。大往寺なんて先祖の顔を立てるために門徒のままでいてやっているだけだ。余計な金など出すわけがないだろうが」なんて、後ろ足で砂をかけてきたのは、どこのどなたでしたっけ』
「そんなことがあったの? 推定百億円といわれるほど、資産を持っているくせに?」
初耳の私が呆れた視線を送ると、綾小路さんは顔を真っ赤にした。
『金がない理由が「高級なブランデーを買ったから」なんて、ふざけたことをぬかすからだろうが。そんなクソ住職に金を出すバカがどこにいる!』
……うん、どっちもどっちだね。でもお父さんがブランデーなんて、飲んでいるところは見たことがない。浄土真宗はお酒もオッケーだけど、いつもペットボトルで売られている安い焼酎ばかりだった。隠れてコソコソ飲んでいたのか。このお父さんなら充分あり得るから嫌になる。
『金か、金を出せばいいんだな?』
綾小路さんが得意の「金に物を言わせる」やり方に出てきた。いつもの私なら軽蔑するところだけど、今は事情がある。
「お金かぁ……」
経済的にピンチな大往寺としては、正直助かる提案だ。私が食いついてきたと思ったのか、綾小路さんは立ち上がって身を乗り出した。
『金で動くんだろ? そうなんだろ? 金さえ払えば魂も売るんだよな?』
その言い方。地獄行きを言い渡されるのも当然だよ。
「まあ、寄付を頂けるのなら有難いですけど」
『もちろん払うぞ。いくら欲しいんだ、言うだけ払ってやる』
「どうやって払うんですか」
『それは――』
綾小路さんがフリーズした。どれだけ財産を残そうとも、死んだ人間には使えない。
『しょ、書斎にある金庫に1オンスのメープルリーフ金貨が五十枚ほど入っている。今の金価格で売れば、全部で七百五十万円くらいにはなるだろう』
「うわっ、大金じゃないですか」
『庶民にとってはな。俺から見れば端金だが』
ドヤ顔で言っていますけど、端金なら金庫へ入れて守る必要はないでしょ。まったく、見栄ばっかり張って。成金にはケチな人が多いなんてこと、世間の人はみんな知っているんだから。
『金庫の暗証番号を教えるから、自由に取り出せばいい』
「そんなことをしたら、私が捕まりますよ」
『持ち主である俺が了承しているんだぞ』
「そんなの誰も信じてくれませんよ。逮捕されたときに『死んだ綾小路さんの霊から許可を得ています』なんて告げたら、大往寺よりも先に私の人生が詰みますって」
自分の資産をどうすることもできない事実に直面し、綾小路さんは膝から崩れ落ちた。
『なんてことだ……死に物狂いで財産を築いたというのに、いざ死んでみたら使えないなんて……』
皮肉ですよね、ホントに。
『地獄の沙汰も金次第と言うのに……俺は一体、どうすれば地獄行きを免れるんだ……」
もはや万策尽きた綾小路さんは項垂れた。お金がないと、一気に無力化するんだな、この人。なんだか可哀想に思えてきた。
『なんとかしてあげたら、霊子ちゃん』
お父さんも同じ気持ちのようで、私に救いの手を差し伸べるよう促してきた。
「うーん、でもお父さんの葬儀関係で後回しにしていることもあるし、なにより大往寺を何とかしないといけないから、他人の相手をしている時間はないんだよね」
『綾小路さんは他人じゃない、大往寺の門徒だよ。金にズルくて汚い上に、腹黒い性格の持ち主という救いがたい極悪人だけど、見捨てるわけにはいかないよ――』
お父さん、どさくさに紛れて悪口を言っていない?
『――情けは人の為ならずって言うし、ここで親切にしておけば、巡り巡って霊子ちゃんに返ってくるかもしれないよ』
お父さんの言うことはもっともだから、反論しにくい。そもそも門徒を見捨てておきながら大往寺の再建なんて、ちゃんちゃらおかしい。
「わかった。とりあえず地獄行きだけでも逃れるようにやってみる」
綾小路さんの目の色がパッと明るくなった。
『そうか、やってくれるか。何か妙案でも浮かんでいるんだろうな』
なぜ威張るんだろう。まったく、この手の人はお父さんよりタチが悪い。
「最も身近な存在である家族に嫌われている人は、地獄行きになりやすいそうだから、逆に家族から感謝されている存在だと立証すれば、裁きも変わるはず」
私は閻魔に向かって「でしょ?」と訊ねると、彼は相変わらず不愛想に答えた。
『理屈の上では間違っていないが、そんな証言を得られるのか』
「やって見せるよ。どんな門徒でも見捨てずに対応すれば、大往寺の評判が口コミで広がるでしょ」
『死んだ人間の間で広まっても、意味があるとは思えないがな』
「そ、そうかもしれないけど、感謝してくれた門徒が夢枕に立って、現世の人に伝えてくれるかもしれないじゃない」
『大往寺関連ばかりが夢枕に立つようになったら、むしろ気味が悪いと不吉な評判しか立たないと思うが』
冷静に指摘するの止めてよ、本当に。
「何と言われようと、やると決めたからにはやるの。だから裁きはちょっと待ってよ」
『あらヤダ、霊子ちゃんがシスターに見える』
「お父さんは黙っていて。そもそも私は教会ではなく寺の娘だから」
『良いだろう。この金に汚い男からどんな評判が出るのか、楽しみに待っておいてやるよ』
閻魔は挑発的な目で私を見た。そう、調べれば調べるほど悪評が出るという、藪蛇になる可能性もあるんだ。
「だ、大丈夫なんだから」
自分で自分に言い聞かせるように言うと、お兄ちゃんの声がする。
「霊子ー、ご飯ができたよー」
「はーい。よし、今日はもう遅いから、明日綾小路家の皆さんに話を聞こう」
私は美味しい晩御飯を食べて、気合を入れることにした。なのにお父さんは相変わらずウザいし、綾小路さんも『呑気にメシを食っている場合か』と急かしてくる。
もう、なんで私には幽霊が見える能力が備わっちゃったんだろう。ご飯は何を食べるかではない、誰と食べるかが重要と言う人がいたけれど、それは本当のことだと思う。
お兄ちゃんがせっかく作ってくれたポトフも、二人の目障りなオッサンに挟まれては、味気ないものに感じられた。
3
「ここが綾小路さんの自宅なの?」
翌朝の土曜日、目覚ましよりも早く騒ぎ出した綾小路さんのせいで早起きした私は、午前九時に綾小路家の前にいた。白く厚みのある外壁に囲まれた、豪勢な近代建築物。ちょっとした美術館にも見えるその均整の取れた存在感はとても美しく、なんでも著名な建築家に設計させたそうだ。
「ハリウッドスターが暮らす豪邸みたい」
『大したことはないぞ。たかが二十億円程度だからな』
何度も見てきたドヤ顔で、綾小路さんは胸を張った。資産以外に自慢できるものはないのだろうか。
毛穴までクッキリ撮られるのではないかと思うほど大きな監視カメラが、出入り口付近を監視している。悪い事をしているわけではないのに妙な緊張感を覚えながら、私は門扉の脇についていたインターホンを鳴らした。そこにも丸形のカメラが付いている。それをチラチラと気にしながら待っていると、応答があった。
「はい、どちら様でしょうか」
落ち着きのある年配女性の声だった。すぐに綾小路さんが反応する。
『二十年以上この家で働いている、家政婦の三木だ。おい、三木。俺だ。今すぐ門を開けろ!』
聞こえるわけがないのに、綾小路さんは私の真横で声を張った。まだ死んだという実感が湧いていないようで、つい生前の習慣が出てしまうのは他の幽霊でも見られる傾向だ。おかげで私の耳はキンキン鳴って迷惑だけど。
「大往寺の霊子です」
名乗ると三木さんは「お寺の方ですか。どうかなされました?」と、温和な声で応じてくれた。
「ちょっと亡くなられた綾小路さんのことで、お話を聞きたいことがありまして。ご家族の方はご在宅ですか」
「奥様はいらっしゃいますが、二人のお嬢さんは外出されております。少々お待ちください」
数分待たされた後、三木が再びインターホンに出た。
「奥様はこれから外出の予定ですが、少しの時間で構わないのならお会いになるそうです」
「お手間は取らせませんので、お願いします」
門扉が自動で開かれた。それだけで圧倒される小心者の私。空き巣でもないのに抜き足差し足で広い庭を渡り、玄関前に辿り着くとドアが開かれた。中では髪を後ろで一つにまとめた小柄な女性が待ち構えていた。
「どうぞこちらへ」
丁寧に招かれて恐縮する私の横で、綾小路さんが『俺の家なんだから遠慮せずに上がれ』と我が物顔で言う。確かにあなたの物でしたけど、うっかりその気になって行動しそうになるから、不用意に話し掛けるのは止めて欲しい。
「奥様は衣裳部屋にいらっしゃいますが、すぐに下りて参りますのでこちらでお待ちください」
三木さんから案内されて通されたリビングは、ちょっとしたカフェのような広さを持っていた。庭に面している壁は全面ガラス張りで、そこから降り注ぐ陽光がレースのカーテンのようにきらめいている。
あまりにも豪華な空間で身の置き場に困っていると、三木さんがテーブルに座るよう勧めてくれた。ペコペコと頭を下げながら着座し、差し出された紅茶を飲みながら待つこと数分、リビングの端にある螺旋階段から、一人の美魔女が下りてきた。
『女房の恭子だ』
どこか自慢げに綾小路さんは言った。お父さんが鼻の下を伸ばしていることからもわかる通り、相当な美人だ。
『いやあ、女優さんみたいな魅力的な女性と結婚されていたんですねえ』
「俺の女房をイヤらしい目で見るんじゃねえ」
『誤解ですよ。さすが綾小路さんが伴侶に選ばれるだけあって、素敵な女性だなと思っただけです。やはり、成功される方は見る目が違いますな』
出たよ、お父さん得意のヨイショ。綾小路さんは満更でもない表情で鼻の穴を膨らませている。
『まあな。やはり本物を見抜く目が凡人とは違うところだ』
「それにしても若すぎません? 綾小路さんって六十代後半ですよね」
私が幽霊二人にだけ聞こえる小さな声で言うと、綾小路さんは眉を顰めた。
『それがどうした』
「奥さん、アラサーに見えるんですけど」
『正確には今年で四十だ』
「ええっ、実年齢よりもずっと若く見える」
気怠そうに下りて来る恭子の肌には瑞々しい張りがあり、そのスタイルはグラビアタレントを凌駕すると言っても過言ではない。まだ十九歳の私が敗北を覚えるほどに若々しく映る。
「何歳で結婚されたんですか」
『俺は五十、恭子は二十三だった』
「倍以上離れて? もしかして綾小路さんは再婚ですか」
別れた奥さんとの間に子供がいるのなら、それもまた家族といえる。話を聞く相手が増えるのかと懸念したけれど、綾小路さんは首を振った。
『結婚は恭子としかしていないし、隠し子もいない。俺は会社をデカくすることだけ考えてきた仕事人間だからな、結婚も遅れたんだよ』
「それにしても二十七歳も離れた人と結婚するなんて、これって結局――」
資産目当てですよね、そう言い掛けて言葉を飲み込んだ。さすがにこれは失礼だろうと言い淀んでいる私を見て、綾小路さんは苛立った。
『何だ、言いたいことがあったらハッキリと言え』
「それは、その――」
言葉に詰まる私に、お父さんが助け舟を出してくれた。
『霊子ちゃんは自分も金持ちの年寄りを捕まえて勝ち組生活がしたいから、そのコツを教えて欲しいと言いたいんですよ』
あなたは自分の娘を何だと思っているの……お父さんから出された助け舟がまさかの泥船で沈みかけた私は、尊厳を取り戻すために思わず吠えた。
「お金目当ての結婚ですよねって言いたかったの!」
あまりにもハッキリと言い過ぎた。これは怒って当然だと思ったら、綾小路さんはケロッとしていた。
『それがどうした?』
「えっ、認めちゃうんですか?」
『経済力こそ男の魅力だ。そこに惹かれるのはむしろ、自然なことじゃないか』
「まあ、そういう見方もありますけど、お金を餌にして釣るようなやり方はどうかと思いまして――」
『誰だって、自分の売りを最大限にアピールするじゃないか。筋肉自慢の奴らはみんな、ブーメランパンツ一丁でポーズをキメているぞ。しかもご丁寧に肌を黒く焼き、オイルでテカテカにして強調する有様だ』
「いや、ボディビルとはそういうものだから……」
そう反論しながらも、自慢をアピールしているという点では、成金もボディビルも同列かもしれないと思い始めた。
最大の違いはボディビルが自分磨きで身につけた筋肉なのに対し、綾小路さんの資産は形振り構わず稼いできた結果である点だ。
ライバルのプロテインに細工をしてタンパク質の摂取量を減らしても、自分の筋肉が増えるわけではない。だけど綾小路さんは自身が認めている通り、金に物を言わせてライバル会社を蹴落とし、時には政治家を抱え込んで自分の仕事を増やしてきた。このやり口が地獄行きの根拠になっているけれど、本人にその自覚がない。
『運動神経に長けている人はスポーツで、勉強ができる奴は学問の世界で力を発揮し、称賛されるべきだ。稼ぐ才能を努力で身に着けた俺は、成果物である金を自慢する。ボディビルダーが普段からピチピチのTシャツを着て、筋肉を自慢するようにな。なぜ金だけが品格を欠いていると非難されなければならないんだ? 俺は後ろめたい気持ちなんて全くないぞ』
金儲けこそが至上命題となっている綾小路さんに、罪悪感を覚えてもらうことは困難だとわかった。
そもそも私の目的は地獄行きの裁きを変えさせることであって、門徒の改心ではない。ここはやはり、家族からプラスになる証言を引き出すことに専念しよう。
話しているうちに、恭子さんは私の面前まで来ていた。だけど、その視線は三木さんに向けられていた。
「お気に入りのピアスが見当たらないのよ」
「ピンクサファイヤのピアスでしたら、クローゼットに保管されている宝石箱に入っているかと」
「それが見当たらないから聞いているの。探してきて頂戴」
娘ほど年が離れた恭子さんに横柄な態度を取られても、三木さんは顔色一つ変えることなく「失礼します」と、私にも丁寧に頭を下げてから、リビングを出て行った。
「まったく、トロいんだから」
恭子さんは私の向かい側に腰を下ろしながら、わざと三木さんに聞こえる声量でボヤいた。居心地が悪く感じた私が黙っていると、恭子さんの方から品定めをするような目を向けて来る。
「あなたがビンボー寺の娘なのね」
「ビ、ビンボー……」
確かに裕福ではないけれど、門徒から貧乏呼ばわりされる言われもない。
「一応、大往寺という名前がありますので」
カチンと来たけど、ここで揉めても良いことはない。私が冷静に応じると、恭子さんは鼻で笑った。
「あら、怒ったのかしら。生前に主人がビンボー寺と呼んでいたから、私もそれに倣っただけなのよ」
「なんですって」
私はキッと綾小路さんを睨みつけたけど、『現にビンボーだろ?』と追い打ちをかけられた。まったく、これが地獄行き回避を頼んでいる人の態度でしょうか。
「それで、今日は死んだあの人のことで聞きたいことがあるそうだけど」
面倒くさそうに恭子が先を促した。私は機嫌を損ねないよう、余計なことを言わずに要点をついていく。
「生前の綾小路宗清さんについて確認したいのですが、ご家庭ではどのような方でしたか」
「今さらそんなことを知って、どうするの?」
もっともな意見だ。私は咄嗟に嘘をついて誤魔化す。
「だ、大往寺は門徒一人一人に向き合って法要を致しますので、個人の詳しい人となりを知ることで、より心を込めてお経を読むことができるんです」
「四十九日に向けて、ということかしら」
「そ、その通りです、はい」
自分でもわかるほどぎこちない受け答え。これは疑念を抱かれたかと心配したけど、恭子さんは故人に興味がないのか、口調も態度もどうでもいいといった、投げやりな答えが返ってきた。
「お経を読む価値もないようなクズよ。適当にやっておけば?」
「いやいや、そういうわけには参りませんので――」
「あの人は単なる金の亡者よ。救いようがないじゃない」
それは知っている。私が無意識に「うんうん」と頷いたのを見て仲間を見つけた気になったのか、恭子さんの口は滑らかになった。
「口先では気前のいいことを言うのよ。でも実際はどうしようもないドケチで」
「わかります。うちの寺も苦しい時に寄付を頼みましたけど、まったく相手にしてくれなかったみたいで」
「でしょうね。出会った頃からずっとそうだったから。この人と一緒になったら、贅沢尽くしの奢侈な生活ができるものと思ったけど、実際は見栄を張るだけ張って、財布の紐は開こうとしない。ホントに小さな男だったわ」
まんまと騙された、そう言いながら恭子さんは力なく笑っていた。金に汚い綾小路さんに対して呆れたのか、それとも自分の甘さを笑ったのか、きっとその両方だと思う。
「でも良いところもありますよね?」
「そうね……思い当たるのは一つだけだわ」
「それを是非、教えてください」
私が期待を込めた目で見つめると、恭子さんは半笑いで言った。
「思っていたよりも、早く死んでくれたことね」
「えっ……」
「人生八十年というでしょ。あと十年以上は我慢しなければならないと覚悟していたのよ。ポックリ逝ってくれたおかげで、目当ての財産がこんなに早く手に入ったわ」
まるでビジネスが成功したかのように、満足げな顔を浮かべていた。逆に私は無意識のうちに不満顔を浮かべていたのだろう。恭子さんが挑発的な口調で訊いてくる。
「何か問題があるのかしら」
「まるで大金を得ることが目当てで、結婚生活はそのために必要な先行投資みたいな感じがして、ちょっと――」
「その通りよ。何が悪いのかしら」
この夫婦は同じ言葉を発する。綾小路さんも恭子さんも、開き直るようなことを言うだけで、罪悪感の欠片もない。似たもの夫婦でお似合いだともいえるけど、私が古い倫理観に囚われているだけなのだろうか。
「でも家族なのに互いを思いやる愛情がないなんて、寂しいですよ」
「それはお互い様でしょ。私は資産を、夫は私の若い体を目当てに結婚したんだから、ギブアンドテイクじゃない」
『そのとおり、互いの利益は一致していた』
意外にも、私の隣で綾小路さんは納得していた。まあ、本人同士がそれで良いのなら、他人の私が口を挟む立場にはないけれど。
「他にありませんか、何か綾小路さんの好感度が上がるようなエピソードを求めているのですが」
期待して質問を重ねたけれど、恭子さんの表情は酷く冷めたものだった。
「ないわね」
「十七年も結婚生活を続けていたら、何か一つくらい心温まるエピソードとか、思いやりのあるシーンとか、ホッコリするようなことがありますよね」
「あの意地汚い男にそんなエピソードがあるのなら、私の方が聞きたいくらいよ。江戸時代に生きていたら、饅頭の下に小判を入れて悪代官に差し出す、越後屋みたいな男なんだから」
妙にしっくりくる喩えで、私は反論の余地がなかった。横目で綾小路さんを見ると、ニヤリと笑っている。
『時代を問わず権力者を抱え込むやり手のビジネスマン、それが俺だからな』
褒めていませんよ。まったく、ポジティブシンキングにも程があるでしょ。手詰まりで困っていると、三木さんが戻って来た。
「お気に入りのピアス、ございましたよ」
差し出されたそれを礼も述べずに奪うように取ると、恭子さんは耳朶に嵌めながら私を見た。
「もういいかしら」
「あっ、すみません。お出掛けになるんでしたね」
これ以上話を聞いても、地獄行きを避けられる良い話は出そうもない。私が諦めの溜息を小さくついていると、なぜかお父さんが恭子さんに近づいて、ジロジロと見始めた。
『まだ夫の忌中だというのに、オシャレしてどこへ行くんだろう』
確かに、ちょっと近所のコンビニへ行くような恰好ではない。夫を亡くしたばかりだから、恭子さんの友達が励ますための食事会でも開いてくれるのだろうか。
「どちらへ行かれるんですか?」
不躾な質問だと自覚しながらも訊ねた。恭子さんは嫌な素振り一つ見せずに答える。
「エステとネイルサロンを回って、それからデートよ」
「へえ、良いですねえ……デ、デート?」
素っ頓狂な声を上げた私が面白かったのか、恭子さんは嘲笑を浮かべた。
「あら、私のことを男日照りだと思っていたのかしら」
「あ、いや、素敵な女性ですから恋愛には不自由しないと思いますが、それにしてもご主人が亡くなられて、まだ四十九日も過ぎていませんし――」
「何を言っているの、死ぬ前から付き合いがある人よ」
「えっ……それって――」
不倫でしょ……呆気に取られている私とは対照的に、恭子さんは不敵に笑う。
「あんなジジィの相手をしているだけで、満足すると思う? ちょっと腰を動かしただけで、息切れするような老いぼれなのよ」
……門徒の夜の営みなんて、聞きたくないんですけど。嫌がる私を面白がってか、恭子さんは饒舌になる。
「面倒くさいからさ、演技して早く終わらせるわけ。そうすると満足顔で終えてくれるわよ。こっちは内心、白けていることにも気づかずにね」
ホントおめでたい人だったわ、そう言って嘲笑っていますけど、その本人が私の隣にいてこの話を聞いているんですよ。まあ幽霊だから、何がどうなるものでもないけれど。
「そのお付き合いをしている方は、もしかしてご主人の会社関係の方ですか」
「ちょっと違うわね。バイトに来ていた大学生よ」
私と同世代の男性なの? 見た目が若いとはいえ四十歳のマダムが、大学生を飼い慣らしているってことですか……
「若いだけにテクニックはないけれど、それを補って余りある、あの激しさがたまらないのよ。無茶苦茶にされているあの感じ、一度味わったら病みつきだわ」
寺の人間である私に煩悩を剥き出しにして語るとは、その開けっ広げな性格には驚きを隠せない。
「今までは隠れてコソコソと会っていたけれど、これからは堂々と楽しめるわね。遺産も思いのままだから、若い男友達を増やそうかしら」
金で釣られた人間が、今度は金で釣る側に回るんだ。歴史は繰り返すと言うけれど、この連鎖はあまり感心しない。
死んでから女房の浮気をバラされた今、綾小路さんはどんな顔をしているんだろう。私は恐る恐る横目で見た。いつも強気な人だけど、流石に青ざめた表情で愕然としている。
「なんてことだ……俺の稼いだ金で、他の男と遊んでいただと……」
やっぱり、怒りの尺度もお金なんだね。裏切りとか傷ついた心とか、そういった心的なモノよりも、金銭的な価値の損失がショックなんだ。
恭子さんは「じゃあ、出かけようかしら」と立ち上がった。妻から情報を引き出せなかった以上、子供に期待するしかない。
「二人の娘さんにも、同様の話をお伺いしても構いませんか」
私が頼むと、恭子さんは呆気なく許可を出した。
「好きにして。どこにいるのかは知らないけれど」
「えっ、自分の子がどこで何をしているか、ご存知ないんですか?」
「もう中学生と高校生になっているのよ。目が離せないような小さな子じゃないんだから、自由にさせておけばいいでしょ」
そうはいっても未成年なんだから、ある程度掴んでおくのが保護者の役目ではないだろうか。
「遺産も法律通り、妻である私が二分の一、子供たち二人が四分の一ずつ分けて後腐れなくおしまいね。あとは各々好きにすればいいわ」
「成人を迎えるまで子の資産を管理するのは、親権者の役割ですよね」
「そういう面倒くさいことは顧問弁護士に任せるのよ」
……完全にネグレクトだ。もはや自分の人生を楽しむことしか考えていない。死んだ夫の遺産を使って、若い男と贅沢三昧の生活。ようやく刑務所を出所して自由を満喫するかのような、晴れ晴れとした開放感が恭子さんには見られた。
「娘が帰って来るまで、あなたは好きなだけここにいていいわ。三木、彼女のおもてなしをしてあげて頂戴」
「かしこまりました」
それだけ言い残すと、恭子さんは鼻歌交じりで家を出て行った。残された私に、三木さんがお茶のお代わりを用意してくれる。そのさり気ない気遣いだけで、仕事ができる人だとわかる。
「三木さんにとって、亡くなられた綾小路さんはどのような人でしたか」
この方も長年勤めてきた家政婦。エピソードには事欠かないはず。三木さんは柔和な笑みを浮かべて答えた。
「個人のことを悪く言うのは、さすがにバツが悪いので」
悪口が前提ですか……私はウンザリしながらも、念のため確かめていく。
「この家の人は、あまりにも態度が横柄だから、ストレスが溜まりそうですよね」
「それもありますが、何より私の仕事を認めて頂けませんでしたからねえ」
「いちいちケチをつけるとか?」
恭子さんがそうだったから、きっと似たもの夫婦の綾小路さんも、同じように上から目線だったに違いない。
「まあ、それは性格的なこともございましょう。それでも労働の対償であるお給料で評価していただいていれば、私は何の文句もございませんでした」
「ああ、給料を上げてくれなかったんだ……」
ドケチな綾小路さんらしいエピソードだ。三木さんは似合わない苦笑いを浮かべた。
「物価も上がっておりまして、他所では人件費も上がっております。私もそれとなくお願いしたのですが、のらりくらりとかわされまして」
「他の仕事についたらどうですか。三木さんだったら引く手あまただと思いますが」
「若い人と違って、この歳になると新しい仕事を覚えるのは大変なんですよ。この仕事には誇りを持っていますし、長年お仕えしたここで、私の仕事を評価して頂きたかったのです」
これだけキッチリと仕事をこなしてくれる人なんて、そうそういないよ。百億ともいわれる資産を持ちながら、なんで給料をアップしてあげないんだ。私は怒りを込めて綾小路さんを睨んだ。その綾小路さんは、虚空の一点を見つめて呆けている。まだ奥さんの浮気から立ち直れていない。いや、自分の稼いだ金を他の男に使われたことが許せないのか。
「お嬢さん二人の居場所なんて、三木さんもご存じないですよね」
訊ねると、三木さんはあっさり答えた。
「長女の花音様でしたら、そろそろお帰りになる頃かと」
「え? 今は朝の九時過ぎですけど、早朝からどこかへ?」
「朝帰りでございます」
「……未成年ですよね」
「高校一年生になります。あまり学校へは行かれていないようですが」
もうこの情報だけで、長女の人となりが分かる。噂をすれば影とやら、玄関が騒がしくなった。
「遠慮せずに上がって上がって~」
昨夜のパーティーを引きずるかのような、弾けた女子の声。三木を見ると「花音お嬢様でございます」と認めた。
「超すげえ家じゃん」
「マジ金持ちじゃね?」
男の声もする。リビングに姿を現した花音ちゃんは髪を金髪に染め、壁を塗ったような派手な化粧で若い肌を台無しにしていた。その花音ちゃんを挟むようにして、男子二人が支えている。
「ウイーっす三木、水だして、水」
どうやら酔っぱらっているようだ。条例を無視して夜通し遊び、法律を破って飲酒する。そのうちクスリにまで手を出しかねない荒れ方。
「ん? アンタ誰?」
花音ちゃんは朧げな目で私を見た。「大往寺の霊子です」と名乗ると、「え? チンパンジーの霊子? この子まだ人間に進化していないんだって、チョー可哀想」と、必要以上に大声で撒き散らした。とんだ風評被害だ。
「朝から悪いんだけど、亡くなられたお父さんのことで、話を聞きたいんだ」
「え? あのクソ親父のこと? チョーどうでも良くね?」
「一つでいいから、何か思い出に残っている良いエピソードを教えて欲しいんだ」
何とか引き出そうと試みたけど、花音ちゃんは鼻で笑った。
「綾小路宗清に良い話なんて、あるわけないジャン。強いて言えば、大金を残してくたばってくれたおかげで、長女のウチが何もせずにビリオネアになったことくらいじゃね? アイツは死んでマジ正解」
ギャハハハと品のない笑い声を上げる花音ちゃんを見ていたら、もはや質問する気も失せた。
「おい、三木。水だって言ってんだろ」
「はい、お待たせいたしました」
差し出されたミネラルウオーターを受け取ると、花音ちゃんはボタボタと床にこぼしながらそれを飲み干した。
「ブッハー。よし、ウチの部屋へ行こ、ウチの部屋」
三人はフラフラしながら階段へと向かった。こういうことに慣れているのか、三木さんは嫌な顔一つせずに濡れた床を拭いている。
私の横では綾小路さんが『花音も俺の稼いだ金で男遊びか……』と、また金銭を基準にしてボヤいていた。ホント、この人はブレない金の亡者だ。
妻もダメ、長女もダメとなれば、次女が最後の砦になる。私は願いを込めて三木さんに訊ねた。
「次女はどちらにいらっしゃいますか」
「詩音様でしたら、朝早くから駅前の学習塾へ行っています」
母親と長女がこの状態だから、自ら進んで塾通いをしているなんて意外だった。
「受験生ですか?」
「中学三年生で高校受験を控えております。週末はいつも十七時過ぎまで講義を受けていらっしゃいますよ」
「そうですか。勉強の邪魔をしたくないので、終わった頃を見計らって学習塾へ行ってみます」
お邪魔しました、そう礼を述べてから私は綾小路邸を後にした。玄関を出ると、二階からドンチャン騒ぎが聞こえる。何も苦労せず、ただ娘というだけで遺産を手にする長女。推定百億円と言われている資産のうち、四分の一でも二十五億円という大金だ。
「いいな~、千分の一でもいいから、四十九日のお布施に貰えないかな」
なんて呟いた自分が情けなくて、惨めに思えた。
4
私は一度、大往寺に戻ることにした。
道中、綾小路さんは一言も喋らなかった。お父さんがくだらないダジャレを連発したことが原因ではない。それで黙ったのはむしろ私だ。
良いエピソードを引っ張り出すどころか、家族は死んで清々しているといった証言ばかり。家政婦の三木さんでさえ、口にこそ出さないが悪口を溜め込んでいる。
このままでは地獄行きを免れない。綾小路さんの顔面が蒼白で、能面のように動きがないのも仕方がない。まあ、死んだ人間の肌に色艶があっても、それはそれで奇妙だけど。
「大丈夫ですよ。きっと次女の詩音ちゃんが、心温まるエピソードを提供してくれますって」
何の根拠もない励ましの言葉。そうでも言わないとやっていられないほど空気が重い。何とか打開しようと思っているのに、お父さんが余計なことを言う。
『次女からもっと厳しいことを言われたりして』
「黙って! さもないと私がお父さんに厳しいことを言うよ!」
『おいおい霊子ちゃん。すでに数えきれないほど言っているじゃないか』
言わせたのはあなたでしょう、まったく。精神的な疲労を感じながら歩いていると、寺の前に停まっていた黒塗りのレクサスが発進するところだった。お父さんもそれに気づいた。
『あの車、昨日も来ていた気がする』
「買い物に行くとき、入れ違いで寺の前に停まったよね。教務所の車?」
『見覚えがないけど、買い替えたのかな』
「あんな高級車に乗れるなんて、お金ってあるところにはあるものだね」
私の横を通り抜けていく際、さりげなく運転席を見やった。二十代の若い優男が運転している。教務所から来た関係者には見えない。この若さでこの車とは、どこかのボンボンだろうか。それともホストかな。
どちらにしても大往寺に何の用だろうと思いながら寺の敷地内に入ると、墓地に人影があった。お盆でもないのに墓参りだろうか。様子を見ていると、お父さんが急かしてくる。
『ほら霊子ちゃん、門徒に挨拶、挨拶ぅ』
「そんなに焦らなくてもいいでしょ」
『廃寺が増えているこの時代、生き残るにはサービス業だと思って積極的にいかないと、大往寺の発展はないよ』
それがわかっているのなら、生きている間に自分でやりなさいよ。
「こんにちは~」
さりげなく近づいて声を掛けると、その人物は「ビクッ」と全身で震えて振り返った。私は思わず「あっ」と声を上げる。
「あなたは昨日、寺の前にいた――」
帽子にサングラス、マスクで顔を隠している若い女性。その出で立ちは不審者を絵にかいたような典型的なもの。私は用心しながら訊ねる。
「うちの寺に何か御用ですか?」
彼女は声を出さず、首と両手を同時に振って、全身で「なんでもない」と表した。明らかに挙動不審だ。
「お父さん、この人は大往寺の門徒?」
小声で訊くと、お父さんは首を振った。
『こんな人はいない。つまりこれは、新規の顧客を獲得するチャンスだよ!』
――いよいよ門徒を客呼ばわりですか。そもそもこんな怪しげな人、門徒にするより警察に突き出すべきでしょ。
「用もないのにうちの墓地に入っているのなら、墓荒らしの疑いがあるので通報しますよ」
そう脅しを掛けると、その怪しい女性は一目散に駆け出した。お父さんが叫ぶ。
『霊子ちゃん、後を追って! 帰る前に賽銭だけでも投げて貰わないと!』
……なんでお父さんまで金の亡者になっているのよ。私は女性を追いかけたけど、スポーツでもやっているのか、逃げ足が速かった。あっという間に敷地の外へと出て行ってしまう。
『ああ、逃げられちゃう。霊子ちゃん、せめて心証だけでも良くするために「あなたのご利用をお待ちしております」って声を掛けて』
寺がそれを言ったら、死ねって意味じゃない?
「ダメだ、逃げられちゃったよ」
必死に追いかけたけど、もう姿は見えなくなっていた。お父さんも残念がっている。
『せっかく新しい金づ……門徒が見つかったと思ったのに』
金づるって言い掛けましたよね、確実に。私がお父さんを白眼視していると、騒ぎを聞きつけたお兄ちゃんが寺から出てきた。
「何かあったの?」
「帽子にサングラス、マスク姿の女性が墓地をうろついていたの」
「へえ、顔に大きな傷でもあるのかな。女の子だから気にしているのかも」
――その可能性は考えなかった。私は勝手に不審者だと決めつけ、睨みつけながら迫ってしまった。彼女はそんな私に慄き、逃げだしたのかもしれない。
普段は天然のお兄ちゃんだけど、偏見を持たず、なにより相手を思いやる気持ちが最初に出てくる。妹としてはこういう素敵な部分を理解してくれる女性と出会って欲しいけれど、実際はそのルックスに惹かれて近づき、天然ボケを知って離れて行く流れがいつものパターンとなっている。
私たちは居間へと移動した。何も言わなくてもお兄ちゃんがお茶を入れてくれる。
「そういえば、昨日今日と黒塗りのレクサスが停まっていたけど、あれは教務所の人がお兄ちゃんを訪ねて来たの?」
「いや、コンサルタントの高杉さんだよ」
「そんな知り合い、いたっけ?」
「昨日初めて会ったんだ。なんでも以前からこの寺の運営状況を心配してくれていたみたいで、いろいろと無料のアドバイスを貰ったよ」
「門徒でもないのに、プロのコンサルタントが助言してくれたの?」
親切すぎて、なんだか引っ掛かるものを感じる。いや、こんな風に疑って掛かるのはよくないと反省したばかりではないか。
「どんなアドバイスを貰ったの?」
「オリジナルグッズの販売に力を入れた方が良いと言われたよ。大往寺は今、数珠しか売ってないからね」
まともな助言だった。やっぱり何でもかんでも疑心暗鬼になってはいけないな。お父さんがあまりにもテキトーな男だったから、私はどうしても穿った目で見てしまう悪い癖が抜けない。
「でも浄土真宗は、お札やおみくじさえ売ってはいけないんでしょ?」
「神祇不拝に反するものだからね。他の宗派ではお菓子や文房具、雑貨なんかを売っているお寺もあるから、天を拝むような代物ではければ大丈夫だと思うよ」
「ふーん。それで、うちはどんなグッズを作るつもりなの?」
「よくぞ聞いてくれました。実はもう、試作品が出来ているんだ」
お兄ちゃんはいそいそと袋を手繰り寄せ、そこから順に取り出していく。
「まずはTシャツだね。アイドルがメンバーカラーのTシャツをファンに売っているでしょ。それにちなんで、『仏像色』のTシャツを売り出そうかと思って」
「……それ、ただの鉛色だよ、お兄ちゃん」
「でも考えてごらん。『半跏思惟像』から『帝釈天坐像』に『推し変』しても、このTシャツをそのまま流用できるんだよ?」
……推し変だの流用だの色々と罰当たり過ぎて、ツッコミにくいわ。
「Tシャツの背中に何か文字が書いてあるけど?」
「流石は霊子、お目が高い。我ら仏教徒御用達のTシャツだからね、長年のライバルであるイエス・キリストに対抗して、『ノー・キリスト!』とプリントしてみたんだ」
……あなた大往寺発の宗教戦争でもおっ始める気ですか。それ、どう見てもキリスト教に対する宣戦布告ですよ。
「他の宗教をディスるようなグッズは止めてよ」
「うーん、Tシャツは気に入らないみたいだね。だったらこれはどうかな。大往寺特製『目覚まし時計』だよ」
差し出されたそれを受け取って見た。どこにでも売っている、デジタル式の目覚まし時計に見える。
「どこがオリジナルなの?」
「セットした時間になると、ベルの代わりに『お経』が流れるんだ」
目覚めが悪い事この上ないわ。寝ている間にあの世へ行っちゃったかと思うじゃない。
「孫の手も作ってみたよ」
ようやくまともなグッズが出てきた。私は指をパチンと鳴らす。
「それいいじゃない。寺に来る人は年配者が多いし、需要がありそうだよ」
「でしょ。しかも大往寺オリジナルは先端が無数の針で出来ている、針山地獄バージョンなんだよ」
……ただの凶器だよね、それ。
「こっちは使い捨てカイロ。温度が百度まで上がる焦熱地獄バージョン」
そんなモノを売ったら、消費者庁が飛んで来るって。
「なんで地獄バージョンばっかりなのよ。縁起が悪いじゃない」
「だって、女子はオカルトが大好きでしょ?」
そうだけど、お兄ちゃんは微妙に方向性がズレているんだよね。いつものことだけど。次から次に出てくる奇妙なグッズ。大きく「大往寺」と書かれているスマホカバーが一番まともに見えるという、とんでもない有様だ。
「こりゃダメだ……お兄ちゃん、グッズ販売は諦めた方が良いよ」
「なんで? どれも大往寺でしか手に入らない、独占販売だよ」
誰も売らないよ、こんなガラクタ。
「どうしてもグッズ販売を展開したいのなら、もっとアイディアを練ってからの方が良いって。私もアイディアを出していくから」
「そうしてくれると助かるよ。これらは第二弾のグッズに向けての試作だから、まだ時間的に余裕もあるしね」
「ふーん、そうなんだ……ちょっと待って、第一弾はもうあるの?」
「高杉さんの方で売れ筋を見繕ってくれるって。明日には届くらしいよ」
「はあ? アドバイスをくれたのは昨日が初めてなんだよね? それでグッズが明日に届くの?」
いくらなんでも早すぎる。これって――
「――どっかの売れ残りを押し付けられただけじゃない!」
「人聞きの悪い事を言うものじゃないよ、高杉さんはそんな悪い人じゃないって」
「まるで昔からの知り合いみたいに言っているけど、昨日初めて会った人だよね?」
「そうだけど、僕にはわかるんだ。あんな澄んだ目をした人が、悪い事なんて出来ないって」
私にはお兄ちゃんのオメデタイ頭が理解できないよ……
「詐欺だよ詐欺! そんなグッズ断って!」
「もう無理だよ、契約書を取り交わしちゃったし」
「いくらで契約したの?」
「五百万円」
アホだ……昨日、レクサスを見かけた段階で寺に引き返せば良かった。もしくはおしゃべりな旧友に捕まらなければ、こんな契約を結ぶ前に私が寺に戻って拒否できたのに……
項垂れる私とは対照的に、お兄ちゃんは意気揚々としている。
「高杉さん、良い人だから特別価格で仕入れてくれたんだよ。本当だったら一千万円相当の品物なんだから」
売れ残りなんだから、半額でも売れたら原価を取り戻せてラッキーでしょ……きっと一千万円どころか、売れずに一銭にもならないよ、それ。
「そもそも五百万円なんて、うちにはないじゃない」
「もちろん、僕が借金した。その借入手続きも全部、高杉さんがやってくれたよ」
そんな大金、消費者金融だって貸してくれない。きっと闇金だ……おっかない顔した人たちが、この寺に踏み込んでくる修羅場が目に浮かぶ。
「終わった……大往寺は廃寺まっしぐらだ……」
「そんなマイナス思考に陥る必要はないよ。確かに商売は大変だけど、二人で力を合わせて売ればいいんだから!」
意気揚々と私を巻き込むの、止めてくれない? さすがにお父さんも渋い表情を浮かべている。
『この人の好さが翔平君の長所でもあり、短所でもあるんだよねえ――』
まるで他人事のように言っていますけど、あなたの息子ですからね。
『――二兎を追う者は一兎をも得ずと言うから、霊子ちゃんはまず、綾小路さんの地獄行きを避けることだけ考えよう』
私は小さく頷いて返した。他人の面倒を見ている場合ではないような気もするけど、門徒を見捨てるようでは本末転倒だ。
私は無駄な疲労感を覚えながらも、綾小路さんの弁護に集中することにした。
5
少し憂鬱な気分を変えようと、テレビのスイッチを入れた。
ちょうど情報バラエティが始まったところで、今をトキメク女性アイドルグループ『ブルームーン』がゲストで出演していた。デビュー曲の振付が「面白カワイイ」と話題になって、世代を問わずダンスをコピーして動画を上げる人々が続出し、一躍スターダムにのし上がった。
十一人からなるユニットで、中でも最も人気なのがセンターの『華村リンネ』ちゃんだ。いかに目立つかが勝負の芸能界で、彼女は一歩遠慮するところがある。それでいて人一倍努力するその健気な姿が、多くのファンの心をつかんでいた。
等身大の理想形アイドルと呼ばれている彼女のメンバーカラーはライトピンクで、今も華やかな薄桃色の衣装を身にまとっている。流石のリンネちゃんでも、仏像色のTシャツでは冴えないと思う。売れない在庫の山で埋め尽くされる大往寺が容易に想像できる。
夕暮れの時間を見計らって、私は駅前に来ていた。そろそろ講義を終えた次女の詩音ちゃんが塾から出て来る時間だ。
綾小路さんの口数はすっかり減っていた。かく言う私もお兄ちゃんの一件でグッタリとしている。
唯一元気なのがお父さんだ。なぜか改札前で立ち話をしているJK三人組に混ざって、会話をしている。
「カレシがぁ~、チョ~サイテーなのぉ」
「マジヤバくない? ゼッタイ浮気だって」
「それな」
『お父さんもぉ~、チョ~幽霊なのぉ』
最後のオッサンが異様に気持ち悪い。本当に何をしているんだろう、あの人。私以外に見えないことを良いことに、悪ふざけが過ぎていないか。というより、娘が見ている前で父としての威厳を保とうとは思わないのだろうか。
「おい、次女が出て来たぞ」
綾小路さんに指摘され、私は視線をJKとお父さんから詩音ちゃんへと移動させた。長い髪に黒縁メガネが、利発そうな顔立ちに良く似合っていた。長女とは違う、落ち着きを感じさせる雰囲気がある。
これならイケるかもしれない。私が詩音ちゃんに近づいて行くと、綾小路さんが言った。
「死んだ住職を呼ばなくていいのか」
「お父さんなら放っておいても大丈夫。飽きたら自分で寺に戻って来ると思うんで。犬並みの帰巣本能はありますから」
「……お前ら親子も、大概だな」
呆れる綾小路さんに苦笑いを浮かべてから、私は詩音ちゃんに声を掛けた。振り向いた彼女は表情一つ変えずに「なにか?」と返答した。
「大往寺の霊子だけど、お父さんとのエピソードを聞きたいんだ」
恭子さんから話を聞く際に使った言い訳と同じ内容で伝えると、詩音ちゃんは軽く眼鏡を押し上げながら答えた。
「残念だけど、綾小路宗清に良いエピソードなんてありませんよ」
「よく思い出してみて。詩音ちゃんが物心ついた時から、十年以上の月日が流れているわけでしょ。何か一つくらい、ホッコリとするエピソードがあっても、おかしくはないよね」
「なぜそこまで必死になっているのかわからないけど、あの人はお金を稼ぐためなら、どんな卑怯な真似でもやってのける人だった。そのせいで割を食った人は一人や二人じゃない。私に限らず、誰の口からも出てくるのは恨み節ばかりでしょ。綾小路宗清自身、良いことをしようなんて、これっぽっちも考えていなかったと思うけど」
抑揚のない声だけに、より重く感じる言葉だった。取り付く島もないと感じた私は、深く溜息をついた。最後の砦もこの調子では、八方塞がりだ。仕方なく私は話を変えることにする。
「でも偉いね。ちゃんと受験勉強しているなんて」
有名どころの私立でも、寄付金を積めば優遇してくるのではないかと思うけど、詩音ちゃんは実力を付けようと頑張っている。
彼女は少し嘲笑を浮かべた。
「母と姉という反面教師が身近にいるから。誰だって、ああはなりたくないでしょ」
血のつながった家族を「ああ」と呼ぶ当たり、見下している感じが滲み出ている。
「確かに、午前中に二人と会ったけど、どちらも場当たり的というか、将来のことをちゃんと考えていない印象ではあったね。特にお姉ちゃんの乱れ方が心配になったよ」
「母は最初からお金目当てで結婚したんだし、自分の意志で選んだ人生だからどう転がろうと自己責任でしょう。でも姉は少し可哀想なところがある」
意外にも、お姉さんに対しては同情心を見せた。
「金の亡者たる父親に、ネグレクトの母親。家族の温もりなんて知らずに育ってきた。そんな心の隙間を埋めたいから、誰かにそばにいて欲しいから、お金で人を集めているんだよ」
そんな風には考えてもみなかった。言われてみると、花音ちゃんだけが悪いとは言えないものがある。
「遺産が手に入って、姉は人生を狂わせるでしょう。大金目当てで群がってくる連中に煽られ、大金をバラまき、気づいた時には無一文の生活に転落している。金の切れ目が縁の切れ目、それまでいた取り巻きたちは一斉に離れて去り、独りぼっちになる。もしくは自堕落な生活の中で犯罪に手を染め、逮捕されるか。どちらにしても今の状況では、大金を手にしても暗い未来しか見えて来ない」
資産家の子女にみられる転落人生を、まるで他人事のように語る詩音ちゃんの表情は、酷く冷めたものだった。
「そんな風に自暴自棄になっても、傷つくのは自分自身。そのことに気づいていない姉は、頭が弱いんでしょう」
「詩音ちゃんはそれがわかっているから、実力を付けて自立しようと思っているんだね。将来の目標とか、あるの?」
「会社を興すよ。具体的なビジネスモデルはこれから作っていくけど」
この若さで起業家精神を持っているなんて、やはり今どき子は違う。私もまだ大学一年生だけど、すぐに企業するなんて考え、とても持てない。
「やっぱり親子だね。お父さんと同じ道に進むなんて」
私が感心して言うと、なぜか詩音ちゃんは鼻で笑った。
「あんなのと一緒にして欲しくないんだけど」
「えっ……」
「私が目指しているのはちんけな中小企業ではなく、時価総額兆単位の大企業だから。本社は日本ではなく節税対策になる海外に置き、移動はすべて自家用ジェット。アラブの王室や先進国の政治家と対等にビジネスを展開する、そんなコングロマリットなんだよ」
「そ、それは凄いね……」
スケールがデカ過ぎて、もはや言葉も出ない。
「最新鋭の経営学を学ぶため、留学もする。というか、大学は日本ではなく海外になると思うけど。そのまま外資系コンサルで働いて生きたビジネスを学び、起業する」
留学費用も起業にかかるお金も、全部巨額の遺産で賄える。詩音ちゃんはそれさえも計算に入れていた。
「お父さんである綾小路宗清さんを、遥かに凌ぐつもりなんだね」
「当然ですね。たかが百億円程度の資産なのに王様気取りでいた綾小路宗清なんて、眼中にないですから」
クールに語る詩音ちゃんに、罵声を浴びせたのは誰でもない、綾小路さんだった。
『私は裸一貫で百億もの資産を築き上げてきたんだ。偉そうに言うのなら、お前も親の遺産を使わずに無一文から始めてみろ!』
言っていることは正しいけれど、詩音ちゃんはまだ世間の厳しさを知らず、どこか夢見がちな年頃である中学生だよ。そんな自分の娘を相手にムキになるなんて、本当に大人げない。お金が絡むと誰が相手でも異様な執着心を見せるから困る。
「もう、いいですか? 早く帰って勉強したいので」
「あっ、呼び止めてごめんね」
詩音ちゃんは最後まで冷静なまま踵を返し、自宅へ向かって歩き出した。その背中に「風邪ひかないように頑張ってね」と声を掛けたけど、振り向きもしなかった。
「ダメだ。地獄行きに対する異議申し立てに必要な材料を、何一つ見つけられない」
自分自身の不甲斐なさを自省しながらボヤくと、いつの間にか近づいていたお父さんが優しく声を掛けてきた。
『霊子ちゃんのせいじゃないから、自分を責めちゃだめだよ』
「いや、聞き出せなかった私の力不足だよ」
『さっきのJK三人組もそうだけど、中高生の間では家族の話題なんてほとんど上がらないね。恋人や友達といった人間関係か、もしくは芸能や流行もの、ネット上の話題がほとんどを占めていた。元から家族の優先順位が低いんだよ』
それを確かめるために、あの会話に混ざっていたのか。ちょっとお父さんを見直した。まあ、聞くだけでいいはずなのに、一緒になって喋っていた点は間抜けだけど。
『主婦の会話にも混ざってみたけど、こちらは逆に家族の話題ばかり。旦那や子供のことを中心に喋っていたよ。でも恭子さんはあの調子だから、これ以上聞き出すことは無理だろうね』
旦那は単なる金目当て、娘たちに対してはネグレクト、興味のない家族の会話に付き合ってくれる見込みはない。
「とりあえず、家に帰ろう……」
万策尽きた私は、足を引きずるようにして寺へと戻った。
残された家族はみんな大金持ちなのに、誰一人として幸せそうに見えない。それはお金を残した綾小路さんも同様で、何かを考えている表情のまま、すっかり黙り込んでしまった。
6
次の日の日曜日、私はどうすれば綾小路さんの地獄行きを逃れることができるか、思案をめぐらせていた。
綾小路さんに寺の便所掃除でもさせれば、多少は閻魔の気持ちも揺らぐだろうか。それもと閻魔の肩でも揉んで、ご機嫌を取るか……気が付けば、ゴマを摺っているお父さんと同じ発想になっていることに気づいた。そんな自分が嫌になる。
泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目とは言うけれど、ただでさえ気分が重いのに、さらに重い出来事が起こった。疲れた体を癒そうと、コンビニでスイーツを買って戻ると、玄関が段ボールの山で埋め尽くされていた。それを一つ一つ検品しているお兄ちゃんがいる。
「も、もしかしてこれって……」
「うん、第一弾のグッズだよ」
五百万円でこれだけ大量ということは、思った以上にガラクタな商品を送りつけられたようだ。
「見てごらん霊子、第二弾の予定だった目覚まし時計が、間に合ったって」
むしろなぜ間に合わせた……ああ、そうか、録音機能でお経を入れるだけだもんね……
意気揚々と商品の確認を進めていくお兄ちゃん。きっと頭の中ではバンバン売れている情景が浮かんでいるんだと思う。本当にオメデタイ人だけど、綾小路さんのように、ただ金儲けのために仕入れているわけではない。すべては寺を守るため、善意でやっていることなんだ。
そんなお兄ちゃんの純粋性に付け込んでガラクタを売りつけた、自称コンサルタントの高杉とかいう、あのレクサスに乗った男は許せない。
商品の管理はお兄ちゃんに任せて、私は縁側に足を運んだ。いつも通り墓地に体を向けながら、涅槃仏の姿で横になっている閻魔がいる。私はさり気なく近づき、声を掛けた。
「綾小路さんの件だけど」
閻魔はチラッと横目で私を見た。
『上手く証言を得られていないようだな』
「……そうなんだけど、いつまで待ってくれる?」
『今日一杯だ』
「もうちょっと時間を頂戴」
『何か策でもあるのか。家族以外に良い証言をしてくれる人物に、心当たりがあるとか』
「それは……ないけど……」
『だったら時間の無駄だろう。諦めろ』
反論の余地がない私は、力なく閻魔の隣に座った。何もかも上手くいかない。ただ疲労だけが漂っている。
「代わり映えのない墓地ばかり眺めていて、飽きないの?」
何気なく訊いてみると、閻魔は意外なことを言う。
『たまには変化がある』
「へえ、例えば?」
『誰かが侵入するとか』
そう言いながら、閻魔は墓地の一角を指した。その先へなぞるように視線を向けると、確かに影が動いている。目を凝らして見ると、帽子にサングラス、それにマスクが見える。
「あの女だ……」
私は物音を立てないよう玄関に行き、お兄ちゃんに声を掛けた。今度こそ逃さないよう、二人で挟み撃ちだ。
そっと近づくと、彼女はある墓を見つめながら直立不動の状態でいた。やはり墓荒らしなのか。すぐ傍まで寄ったところで、さすがに気配に気づいたのか、彼女がハッとした動作で私を見た。
「また来たんですね。うちの墓地で何をやっているんですか」
彼女は答えず、反対側目がけて一目散に駆け出した。でも今日は逃げられない。そこにはお兄ちゃんがいる。
「キャッ」
体当たりの形でお兄ちゃんにぶつかった彼女がよろめいた。すかさずお兄ちゃんが手を差し伸べ、その倒れそうになった彼女の体をグイッと力強く支える。
「大丈夫?」
「えっ、あ、はい……」
「急に現れてごめんね。脅かすつもりはなかったんだ」
「い、いえ……私の方こそ、不注意で……」
目の前にいるお兄ちゃんがイケメンな上に優しくて、彼女は見惚れているみたいだ。なにこの少女漫画の出会いみたいなシチュエーション。言っておきますけど、ここは墓地ですよ?
「誰なの?」
私が詰問調で訊ねると、彼女は身構えた。それをお兄ちゃんが優しく解いていく。
「差し支えなければ、素顔を見せてくれないかな。何があろうと、ぼくたち兄妹は誰にも何も言わないから」
私が北風なら、お兄ちゃんは太陽だ。旅人が上着を脱ぐように、彼女も観念して帽子とマスク、そしてサングラスを取った。露わになったその可愛い顔を見て、私は目を丸くする。
「あ、あなたは――」
驚く私とは対照的に、気づいていないお兄ちゃんは呑気な声を上げる。
「霊子の知り合い?」
「ブルームーンのセンター、華村リンネちゃんよ!」
「へえ、野球やっているんだね」
そのセンターじゃないよ。アイドルのことをろくに知りもしないで、よくメンバーカラーにちなんだ仏像色のTシャツを売ろうと思ったね、お兄ちゃん。
「トップアイドルの華村リンネちゃんだって。こんな郊外にある寂れた寺にいるような人じゃないんだよ――」
自分で言って自虐が過ぎたと反省した。リンネちゃんは苦笑いを浮かべている。
「――こんな有名人が大往寺にいるなんてバレたら、街中大騒ぎになっちゃうよ」
「だから顔を隠していたんです。そのせいで不審者と間違われてしまいましたが」
リンネちゃんは声まで可愛かった。同性の私が憧れてしまうほどに。騒ぎを聞きつけたオッサン二人の幽霊も姿を現し、パンダを見るような目をリンネちゃんに向けている。アイドルについては詳しく知らないようだけど、芸能人というだけで興味が沸くようだ。
「ごめんね、今をときめくアイドルを変な風に疑っちゃって」
「私の方こそ、お騒がせしてすみません」
深々と頭を下げる彼女に、大物芸能人を気取る態度はまるでなかった。むしろ親しみを覚える。
「この大往寺に、何の用があるの?」
訊ねると、彼女はさっきまで見つめていた墓地に、再び視線を送った。
「恩人が亡くなったと、風の便りで耳にしまして。葬儀には参列できませんでしたが、是非お墓参りに伺いたかったのです」
「そのためにお忍びで足を運んだんだね。その恩人って――」
墓誌に刻まれている最も新しい名前を見て、私は素っ頓狂な声を上げた。
「――綾小路宗清さんなの!」
振り返ると、綾小路さんはキョトンとした顔で『え?』と一言漏らした。すかさずお父さんがヨイショする。
『さすが綾小路さん、一流の資産家だけあって、芸能人ともパイプをお持ちで』
『いや、政治家や役所とはつながっているが、タレントとは縁もゆかりもないぞ』
『CMで彼女を起用したのでは?』
『それはない。自慢じゃないが、うちの会社は広告宣伝費の削減に神経を尖らせていたからな。高くつく芸能人を起用するなんて、もってのほかだ』
本当に自慢じゃないよ。綾小路さんの記憶にはなくても、リンネちゃんは少し目を潤ませている。
「綾小路さんに出会っていなければ、今の私はありえませんから」
これはかなりの恩人だぞ。
「本当に覚えがないの?」
小さな声で訊くと、綾小路さんは『さっぱりわからん』と首を振った。その困惑した表情は、とても演技には見えない。
「よければ、綾小路さんとの経緯を話して貰えない?」
少し戸惑ったリンネちゃんだったけど、やがて迷惑を掛けたことに対する負い目を感じたのか、その重い口を開いた。
「私がまだデビューする前、通信制高校に通いながら喫茶店でバイトをしていた時の話です」
「スタバとかドトールみたいな店?」
「いえ、アイドル予備軍の育成を兼ねた『アイドルカフェ』です。売上げが担当したバイトのポイントとなってランク付けされて、上位になると店で行われるライブに出られる仕組みになっていて」
さらに立ち位置まで順位で決まる、シビアな競争だったようだ。
「私は引っ込み思案だから、なかなかお客さんとコミュニケーションが取れなくて、売り上げが伸び悩んでいたんです。だから良いポジションを得るどころか、ステージにも立てない日々が続いていて」
当時のことを思い出したのか、リンネちゃんは似合わない苦汁に満ちた表情を浮かべた。
「そんなある日、綾小路さんが来店されたんです。本人はアイドルに興味はなかったのですが、取引先の人がアイドル好きとかで、接待のために来たようです。初の来店でしたので特に決まった指名がなく、空いていた私が担当になりました。その際、綾小路さんは食事だけでなく、ゲーム体験や沢山のグッズも買ってくれて、私のポイントを上げてくれたんです」
「それでステージに上がることができたとか?」
リンネちゃんは笑顔で「はい」と頷いた。私はホッと胸を撫で下ろす。
「ようやく綾小路さんの良いエピソードが見つかったよ。それで、いくらぐらい売り上げに貢献したの?」
「百万円です」
「ふーん、一日で百万円か……しゃ、しゃくまんえん!」
私は思わずリンネちゃんを二度見した。彼女も私の仕草でビックリしている。
「お陰でいきなりセンターに立つことができました。それがきっかけで今の芸能事務所の目に留まり、現在に至るんです。だから、綾小路さんがいなければ今の私はないんです」
「そ、それにしたって、あのドケチで生まれながらの金の亡者が、なんで初めて会ったアイドルの卵にそんな大金を――」
言いながら私はギロッと綾小路さんを睨んだ。
「――まさか、リンネちゃんの体が目当てではないでしょうね」
『はあ? 俺はこの娘を覚えてもいないんだぞ。好みでもない女に百万円も出すわけがないだろうが』
確かにリンネちゃんはカワイイ系で、セクシー系の恭子さんとはタイプが違う。
「それでも記憶にないとかサイテー。リンネちゃん、その時は何歳だったの?」
「高校一年生でした。私は早生まれなので、誕生日前の十五歳で」
「完全なロリコンじゃない! この性犯罪者!」
『違うと言っているだろうが! 本当に記憶がないんだよ!』
「若い奥さんを貰っているのが、何よりの証拠でしょ!」
『確かに若い女が好きだ。それは認める。だが十五歳の高校生は幼すぎるだろうが。女としてよりも、娘に見えるぞ』
「だったらなぜ、百万円なんて大金をリンネちゃんのために使ったのよ。あなたみたいなセコい貧乏性、自分のためにならないのなら一円たりとも使わないでしょうが!」
『さっきから門徒に向かってなんだ、その口の利き方は!』
「なに逆ギレしてんのよ、このドケチロリコン!」
思わず怒鳴り散らしてしまった私に、リンネちゃんが危ないヤツを見る目を向けながらお兄ちゃんに訊ねる。
「あの……彼女はどなたと喋っていらっしゃるのでしょうか」
お兄ちゃん、お願い、上手く誤魔化して。
「妹の霊子は幽霊が見えるんだ。きっと綾小路さんの霊と口喧嘩をしているんだよ」
思いっきり正直に喋りやがったな……このド天然!
「そ、そうなんですか、はあ……」
リンネちゃんはどうリアクションしていいのかわからず、困惑気味に眉を八の字に曲げた。ゴメン、今は怒りを鎮められない。
「地獄に行きたくないのなら、正直にすべてを白状しなさいよ」
『本当に覚えがないと言っているだろうが! 俺は会社を興してから何十年、毎日のように色んな人と、様々な場所で接待や会合を積み重ねて来たんだぞ。それこそ高級クラブへ行けば、一晩で何十万と使うことはざらだ。いちいち覚えているわけがないだろうが』
「それでもアイドルカフェなんて、滅多に行かないでしょ!」
『縦しんばそのアイドルカフェに行っていたとしても、接待なら目の前のビジネスに集中して記憶に残らん! 百万円よりも、億単位の収益が見込める金儲けの方が、遥かに大事だからな!』
ヒートアップする私たちの間に、お父さんが割って入った。
『ちょっと霊子ちゃん』
「お父さんは引っ込んでいて!」
『確認して欲しいことがあるんだよ』
「なによこんな時に!」
『華村リンネちゃんって、貧しい家で生まれ育っていないかな?』
「えっ……」
その発想はなかった。綾小路さんも『あっ……』と、何かを思い出した表情を浮かべている。私はゆっくりとリンネちゃんに向き直った。
「あのね、ちょっと訊きにくい事なんだけど、リンネちゃんが生まれ育った家って、経済的に苦しかった?」
リンネちゃんは痛みが走ったように顔を歪めた後、コクリと頷いた。
「母子家庭な上に、お母さんは体が弱かったので、あまり働けなくて。私が通信制の高校に進んだのも、すぐにバイトを始めたのも、家計を助けるためで」
売り上げに応じて歩合も発生するため、ただの飲食店で働くよりも、アイドルカフェは割が良かった。
「その話、綾小路さんにしたんだ?」
「なぜこのバイトに就くことになったのか訊かれて、その流れで生い立ちをお話ししました。そうしたら百万円も使っていただいて」
綾小路さんも貧しい家の出身、自分の生まれ育った境遇と重なるものを感じたのだろう。彼女への同情心から百万円の売り上げに貢献した。
『ああ、あの子か……その記憶なら残っている。あの頃よりあか抜けて、可愛くなっているから気づかなかった』
女性は化粧やオシャレで変わる。特に成長期ならなおさら。それでも綾小路さんは昔を懐かしむように、目を細めてリンネちゃんを見つめていた。
「十五歳で初めてのステージ、さらにセンターで凄くドキドキしました。でも、せっかくいただいたチャンスを緊張で棒に振るのは綾小路さんに申し訳がないので、自分が持てる力をすべて出し切ろうと頑張りました。今でもその時の気持ち、忘れずにステージに立っています」
そうリンネちゃんはお墓に向かって報告した。綾小路さんはゆっくりと背を向ける。その背中が微かに震えていた。
「一番良いお金の使い方、したんじゃないですか?」
私が声を掛けると、『そうかもな』と綾小路さんは頷いて返した。そして私に頼みごとをしてくる。
『彼女に、伝えてくれないか』
私は快く承諾して、リンネちゃんに通訳する。
「むしろ綾小路さんの方が感謝しているって」
「えっ? あっ、はい」
霊が見えることを信じてはいないけど、見下すことなく当たり障りのない答えで返している。そんなリンネちゃんに、私は続けて代弁していく。
「あの日、注文したオムライスにケチャップで書いてくれたこと、これからも守って欲しいみたいよ」
「え?」
「いつも全力でがんばります、って書いたよね」
「な、なんでそれを……」
リンネちゃんは目を見開いた後、半信半疑で訊ねてくる。
「本当に、霊が見えるんですか」
「内緒だよ。私もリンネちゃんがお忍びでここに来たこと、黙っているから」
リンネちゃんは素直に「わかりました」と頷いてから、キョロキョロし始めた。
「綾小路さんの霊が、今ここに?」
「私の右隣にいるよ。あのカフェで接客を受けた日、リンネちゃんと勝負した黒ヒゲゲームで全敗したことを恨んでいるみたい」
「ええっ、確かにそんなこともありましたけど、まだ根に持っていたなんて」
「大丈夫、冗談だって笑っているから」
リンネちゃんは「もうっ」と、ちょっとだけ頬を膨らませた。それは同性の私から見ても、とても愛らしいものだった。
その後、居住まいを正したリンネちゃんは、綾小路さんが見えないにもかかわらず、深々と頭を下げた。
「あの日、チャンスを頂きましてありがとうございます。おかげで今、こうしてアイドルとして働けて、お母さんを良い病院に入院させることができました。これもすべて、綾小路さんのおかげです」
綾小路さんは背を向けたまま、『俺は金を出しただけだ。頑張ったのは君だよ』と、初めて謙遜して見せた。
7
「色々とご迷惑をお掛け致しました」
仕事を抜け出してきたリンネちゃんはまた、スタジオへ戻るそうだ。お兄ちゃんはニッコリと笑う。
「時間が不規則な芸能のお仕事は、さぞかし大変でしょう。どうぞご自愛を」
「あ、はい……頑張ります」
リンネちゃんは上目遣いでハニカミながら頷いた。あれれ、もしかして運命的な何かを感じちゃっている? よく思い出してみてください、出会いの場所は墓地ですよ?
名残惜しいのか、リンネちゃんは話のネタを探すように、少しキョロキョロした。
「あの……この段ボールの山は、なんですか」
玄関に積まれている宅配便の山が、気になったようだ。それもそうだろう、玄関がちょっとした倉庫のように埋まっているのだから。
「これはお兄ちゃんが仕入れたガラクタなんだ」
「大往寺オリジナルグッズだって。それも第一弾ね」
お兄ちゃんがすぐに訂正した。兄妹の息がピッタリに感じたのか、リンネちゃんがクスクスッと笑う。
「まだ売っていないんですか?」
「いつ発売開始とか決めてないよね、お兄ちゃん」
「そうだね。なんなら御一つ、買っていきますか?」
さり気なく勧めると、リンネちゃんは「是非」と頷いた。私は大丈夫かなと心配になる。
「いいの? 正真正銘ただのガラクタだよ?」
「普通に売っているお守りだって、素材だけ見ればただの布ですよ」
確かにそうだ。ただの布に見えるか、有難いものに見えるか、それは人の見方に過ぎない。そう考えると、目に見えない『価値』という概念が、不思議に思える。
「これ、いいですね。ダンスしていて汗をかくので、使い勝手が良さそうです」
そう言いながらリンネちゃんが手に取ったのは、大往寺特製リストバンドだった。ただ『大往寺』とプリントされているだけの、どこにでも売られている安物。それをリンネちゃんは大事そうに両手で持っていた。ここにも見えない『価値』がある。
「これを五個ください」
そう申し出たリンネちゃんに、なぜかお兄ちゃんが首を振る。
「一人一個でお願いします」
「なんでよ。買えるだけ買って貰った方が、うちも助かるでしょ」
私が口を挟むと、お兄ちゃんは真顔で答えた。
「それだと他の人が買えなくなる。全国の大往寺ファンに行き届かなくなるよ」
寝言は寝て言いなよ、お兄ちゃん。呆れる私をよそに、リンネちゃんは別の提案をした。
「でしたら、すべてのグッズを一つずつ下さい。それなら構いませんよね」
天下のトップアイドルにガラクタを持ち帰らせるのは申し訳ないけれど、本人が望んでいるのなら仕方がない。私とお兄ちゃんで一つずつ袋詰めにして、販売した。
「君が一番目のお客さんだ、ありがとう」
そう言いながらお兄ちゃんが手渡した。それをリンネちゃんが懸賞金を受け取る力士のような仰々しい手つきで受け取る。
「最初の購入者ですか、ちょっと嬉しい」
そう言いながら微笑を浮かべるリンネちゃんは、本当に可愛かった。やっぱりトップまで上り詰めるアイドルは、レベルが違う。
「浮き沈みが激しい芸能界、普通の仕事ではない悩みや苦労もあることでしょう。行き詰ったらまた、恩人の墓参りに来て原点回帰をしてください。その際、再度リストバンドをご購入いただければ幸いです」
お兄ちゃんが言うと、リンネちゃんは「是非、伺わせていただきます」と応じた。またこの寺に足を運びやすい土壌を作ってあげるなんて、天然のお兄ちゃんにしては気が利いている。
帽子にマスク、サングラスを付けたリンネちゃんが、周りの目を忍ぶように寺から出て行った。下手に見送ると視線を集めてしまう恐れがあるので、私とお兄ちゃんも何事もなかったように寺の中へ戻る。
お兄ちゃんはそのまま台所へ、私は二人のオッサンと一緒に、縁側へ向かった。もはやデジャヴと言ってもいいくらい、涅槃仏の姿で横たわっている閻魔に向かって言う。
「ようやく異議申し立ての証言を得たよ」
『事の顛末はすべて聞いていた』
「閻魔って地獄耳なの? まあ、違和感のない能力だけど」
『あれだけデカい声で話していたら、誰だって聞こえる』
トップアイドルに会えたことで、私は自然と興奮していたようだ。ご近所さんに聞かれなくて本当に良かった。
閻魔は体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。そのまま閻魔帳を広げて目を通す。
『では綾小路宗清に、裁きを申し渡す』
私たちは固唾を呑んでその時を待った。一拍置いた後、閻魔は告げる。
『お前を更新プログラム七番目の白札とする』
私は「フーッ」と一息吐き出した。金の亡者だったことを考えれば、よく頑張ったと言える。綾小路さんも納得したようで、小さく二度頷いて私を見た。
『地獄行きを免れて助かった。ついでと言っては何だが、もう一つ頼まれてくれないか』
「面倒なことでなければ」
『大往寺には生前、遺書を預けていたよな』
「そうなの? お父さん」
『言われてみれば、そうだったような気がしてきたなあ~、きっと書棚のどこかに置いてあると思うなあ~』
出たよ、テキトー男。しかも『後で霊子ちゃんが探してくれますよ~』なんて、私にツケを回す始末。
『その遺書を、遺言執行者として顧問弁護士に渡してくれ』
「法定相続とは違う内容が書かれているんですか?」
『全額、児童養護施設へ寄付するようになっている』
なんと、この金の亡者が生前に寄付を考えていたって? 信じ難い話だったけど、児童養護施設と聞いて合点がいった。綾小路さんはやはり、自分の幼少期と似たような環境にある人に対して、同情心が湧くんだ。
「その内容だと、奥さんや娘さんたちが怒り狂うと思いますけど」
『遺留分を請求するだろう。額は減るが、それでも大金には違いない。あいつらにはそれで充分だ』
綾小路さんは、どこか晴れ晴れとした表情を見せていた。何かを達観したように。
「寄付を考えていることを閻魔に話せば、地獄行きは免れたんじゃないですか」
『それではあからさま過ぎて、むしろ反感を買うだろう。この閻魔はどこか、天邪鬼なところがあるから――』
言われた閻魔は「フンッ」と鼻を鳴らした。確かに捻くれ者の雰囲気はある。
『――それに確認したかったからな。妻と娘たちの本音を』
その言葉を聞いて、お父さんが言う。
『ずっと迷っていたんですね。家族のために資産を残すか、それとも経済的に苦しい生活を強いられている子どもたちに寄付するか』
だから遺書を預けていた。自分に万が一のことがあった時のことを考えて。
『生きている間に判断するつもりだったが、思ったよりも早く寿命が尽きたものでな』
『家族が綾小路さんを敬う気持ちを少しでも見せていたら、遺言はなかったことにするつもりだったんですね』
『死んでからになったが、確かめることができて良かったよ。これも幽霊が見える大往寺の娘のおかげだ』
私は少し照れながら言う。
「感謝の気持ちは嬉しいですけど、生きている間にこの寺にも寄付をして欲しかったです。大往寺だって、リンネちゃんに負けないくらい貧しいですから」
『この住職がまともだったら、寄付したがな――』
それは否めない。当のお父さんはまったく意に介していないみたいだけど。
『――それにあのアイドルは、病気がちな母親しかいなかった。大往寺には家族がいる。とても暖かい家族がな』
どこか羨ましい感情が込められているように感じた。お金はあると便利だけど、幸せになれるかどうかは使い方次第。綾小路さんはどこかで、自分の歩んできた生き方を悔いているのかもしれない。
『そろそろ成仏するとしよう。色々と世話になった。死んで初めて、大往寺の門徒で良かったと思ったよ』
そう言って微笑むと、綾小路さんは受け取った白札を切り取った。やがて一条の光に包まれ、金の亡者は浄化されるように光の中へと溶けて消えた。
「なんだか、綾小路さんがちょっと寂しい人に見える」
私が呟くと、お父さんが応じた。
『実際に寂しい人だったんだよ。生まれながらにして貧しくて、みんなが持っているものを手に入れることができない幼少期を過ごしたんだ。お金さえあれば、お金がないことがすべての元凶なんだ、そんな風にお金に対するトラウマを抱えた結果、執着するようになってしまったのは仕方がない。綾小路さんだけを責めるわけにはいかないよ』
「お金という名の鎧で自分自身を大きく見せて、守っていたってことね」
『本当は気の弱い人なんだ。だから最初は、閻魔さんに土下座をしていたでしょ』
なるほど、お父さんも意外と人の心情を掴んでいる。
『じゃあ霊子ちゃん、綾小路さんの遺言書を探そうか』
ああそうだ、まだ仕事が残っていたんだ。テキトー男のお父さんを恨みながら、私は書棚を隈なく探していった。
8
翌日の月曜日は祝日だった。世間は三連休最終日を楽しんでいる。それに引き替え大往寺はまだ、五百万円もの借金とガラクタの問題が片付いていない。
見つけた遺言書を綾小路家の顧問弁護士に渡し、寺に戻ると見知らぬ若い男性が門扉の前でウロウロしていた。リンネちゃんと同じく、恩人の墓参りにでも来たのだろうか。
「うちの寺に何か御用ですか?」
声を掛けると、その若い男性はスマホを取り出した。画面を私に向けてくる。
「これ、この寺で売っていますか?」
見ると、そこにはリンネちゃんのインスタグラムが表示されていた。彼女の手首には、あのリストバンドが付けられている。さっそく使ってくれたんだ。私は嬉しくて、頬が自然と緩んだ。
「確かに大往寺のグッズですよ」
「買いたいんですけど」
おお、第二号のお客様! 私は「どうぞこちらへ」と招き入れながら、声を張った。
「お兄ちゃん! グッズ購入者が来たよ」
「はーい、今行くよー」
お兄ちゃんが接客していると、外がざわついていた。顔を出すと、若者がゾロゾロと寺の中に入ってくる。
「あの~、リンネちゃんが使っているグッズを買いたいんですけど」
なんという経済効果。流石トップアイドル、インフルエンサーとしての破壊力が半端ない。
続々と訪れる購入客。大往寺は始まって以来の大盛況を迎えていた。その後、リンネちゃんがすべてのグッズと撮った写真を上げてくれたおかげで、夕方には売り切ってしまった。まさか門扉に『完売御礼』なんて張り紙を出すことになるとは、夢にも思わなかった。
「すごい売り上げ! やったねお兄ちゃん!」
「これは第二弾のグッズも急がないとね!」
「……それだけは止めて。本当にもう止めて」
「なんで? これだけ求められているんだよ? 期待に応えないと」
「もしもまたグッズ販売を考えたら、お兄ちゃんとは一生口を利かないよ!」
まるで子供のような脅し文句だけど、お兄ちゃんには効果がある。
「霊子がそこまで怒るのなら仕方がない。借金は返せるし、当面の運営費用も確保できたから、グッズは今回で終わりにしよう」
ようやく諦めてくれたか。ホッと胸を撫で下ろすと、お父さんが言った。
『霊子ちゃんが頑張ったおかげだね。情けは人の為ならずだ』
私が綾小路さんの弁護に奔走し、その綾小路さんはリンネちゃんを支援した。そしてリンネちゃんが大往寺を救ってくれた。ことわざの通り、善意が巡り巡って返ってきた。
「ホント、助かったよ」
一息ついた私とお兄ちゃんは、居間でテレビをつけた。ちょうどリンネちゃんが歌番組の生放送に出ていた。
「多くのファンが気にしていると思うけれど、リンネちゃんの好きな男性のタイプは?」
歌う前のトークで司会者に訊かれたリンネちゃんは、少し恥ずかしそうに答えた。
「倒れそうになったところを支えてくれるような頼もしさがあって、それでいて優しくて思いやりのある言葉を掛けてくれる、僧侶系男子が良いです」
……これってお兄ちゃんのことだよね。やっぱり、リンネちゃんはお兄ちゃんに気があるんだ。トップアイドルから電波を通じて好き好きビームを出されているけど、当の本人は気づいているだろうか。私はさり気なく訊いてみた。
「ねえ、お兄ちゃん。リンネちゃんのこと、どう思う?」
「うーん、僕は僧侶系よりも、スポーツマンタイプが彼女に似合うと思うよ」
他の男をオススメしてどうすんのよ、このド天然! 私は思わず溜息をついた。
「お兄ちゃんが幸せを掴むのは、ずっと先の話になりそうだね」
「そうかな? 僕は今でも幸せだけど」
そう言いながら屈託なく笑うお兄ちゃんの笑顔は、子供の頃から変わっていなかった。
※
「誠に申し訳ございません。コンサルティングを装い、大往寺の運営資金を逼迫させる作戦は、失敗に終わりました」
秘書の高杉優斗は深い角度で頭を下げた。コスメ製造販売会社『エルモッソ』の創業者である女社長、九条紀香は報告書に目を通していく。
「大往寺は借金を完済するだけでなく、当座の資金まで獲得したってこと。相手を破産に追い込むどころか、敵に塩を送る形になったわね」
「私の不徳の致すところです」
もう一度頭を下げる高杉に、紀香は言う。
「あなたのせいではないわ。まさかトップアイドルが絡んでくるなんて、誰も予想できないでしょう」
口ではそう言いながら、紀香は奥歯をきつく噛んでいた。徐に立ち上がると、新たなペーパーを高杉に差し出す。
「次の作戦に移って頂戴」
「まだ、大往寺を廃寺へと追い込むおつもりですか」
「当り前じゃない。あの寺の存続は許さないわよ。兄への罠が失敗した今、次は妹の霊子をターゲットにするわ」
何が何でも大往寺を潰す気だと、高杉は紀香の本気度を感じた。
「霊子さんはまだ大学一年生、十代の女子に罠を仕掛けて大丈夫なのでしょうか」
一生消えない心の傷を負うのではないか、高杉はそう案じていたが、紀香に迷いはない。
「あなたはそんなことを心配しなくていいのよ。言われたとおりにして頂戴」
「……わかりました」
高杉は頭を下げながら紀香に視線を送った。彼女の目には血も涙もない。ビジネスを成功させるためなら悪魔や死神とも取引して仏を潰す、そんな覚悟が見て取れた。
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