第3話 男と女

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

第3話 男と女

        1 『私は地獄行きですか』  南野幸子は落ち着いた声で訊ねた。穏やかな日差しに包まれている大往寺の縁側で、横並びに座っている閻魔が答える。 『他人を殺めた者については、黒札が原則だ』 『原則ということは、例外もあるのですね』  閻魔は鋭い眼光を幸子に向けた。 『命乞いならぬ「極楽乞い」をしたいのか』  彼女は小さく首を振る。 『何一つ考慮されずに裁かれるわけではないと知って、安心したのです――』  幸子は遠くを見つめた。過去を思い出すように。 『――私がなぜ、彼を殺したのか、それを踏まえた上で地獄行きを命じられるのなら、抗弁するつもりはありません。事情がどうであれ、他人様の命を奪ったことは事実ですから』  閻魔はその横顔をしばし見つめた。幸子の表情に、偽りは感じられなかった。 『命を奪っても、そこに大義があれば情状酌量される。例を挙げるなら仇討ちは心情として理解できるからな――』  今度は閻魔が遠くを見つめた。何かを考えながら。 『――しかし、お前の場合は単に自分の恨みを晴らしただけ。原則通り地獄行きが濃厚だということに変わりはない』 『覚悟はしています。ただ、地獄行きを命じるにあたって、その根拠を示してほしいのです。納得した上で黒札を受け取らなければ、本当の意味での反省にはなりませんから』  幸子は達観した顔で、静かに俯いた。閻魔は表情を崩すことなく、いつも通り涅槃仏の姿で横になった。 「霊子は今日から大学へ行くんだね」  朝食の準備を整えてくれたお兄ちゃんと、向かい合わせに座った。本日のメニューはご飯にお味噌汁、お新香に高野豆腐という健康的なラインナップ。ひじきの煮物も付いている。 「遅れた分を挽回しないと。お兄ちゃんは?」 「午前中に門徒への挨拶回りに行って、午後は仕事探しに行ってくるよ」  少しずつ平常運転を取り戻しつつある私たち。時計代わりにいつも観ている朝の情報番組は、最近発生した殺人事件を取り上げていた。 「あちらに見えます木造アパートの二階が事件現場です」  私は思わず前のめりになった。この建物の外観に見覚えがあったから。 「お兄ちゃん、このアパートって近所にない?」 「一丁目の公園近くに建っている、一人暮らし用の賃貸だね。築二十年くらいになるかな」  お父さんの葬儀や閻魔への異議申し立てでドタバタしていたから、こんな重大事件が町内で起こっていたなんて、まったく気づかなかった。 「犯人である南野幸子容疑者三十一歳は、自室で牧田敦史さん四十歳を包丁で殺害し、その直後自ら胸を突いて亡くなりました――」  うわっ、心中を図ったんだ。現場の映像が切り替わり、容疑者と被害者、双方の顔写真が画面に出る。南野容疑者は良く言えば御淑やか、悪く言えば地味な印象だ。なんとなく、図書委員のイメージがしっくりくる。一方、被害者の牧田さんは清潔感のある中年男性で、やり手の営業マンといった風体だった。 「――被害者である牧田敦史さんには妻子がおり、警察は不倫関係にあった二人に何らかのトラブルが発生したものとみて、捜査を進めています」  私は思わず眉を顰めた。 「ドラマに出てくるようなドロドロの愛憎劇がご近所さんで起きていたなんて、なんだか実感が湧かないね」 「今はそうでも、霊子だって知らぬ間に不倫に陥ることがあるかもしれないよ。相手に嘘をつかれたら、わからないでしょ」 「私は騙されるほど間抜けではないって」 「そうかな? 霊子は結構、ボケているところがあるけど」  ……天然のお兄ちゃんに言われたくないよ。 「この南野容疑者って、うちと付き合いがある人ではないんだよね?」 「門徒ではないし、見掛けたことさえないかな」  だったら葬儀関連で大往寺に声が掛かることはなさそうだ。町内はしばらくこの話題で持ちきりになるだろうけど、時間の経過と共に風化するに違いない。 「ご馳走様。さて、食後の歯磨きをして大学へ行こうかな」  私は鼻歌交じりで洗面所へ行くため、通路となる縁側に出た。横になっている閻魔のすぐ傍で、女性が座っているのが見える。その女性は淵が光っていて、微かに透けていた。 「寝ながら裁いているわけ? 相変わらず態度の悪い閻魔だね」  からかいながら言うと、二人は振り返った。その女性の顔は今さっき、画面の中で見たばかりだった。 「あ、あなたは南野幸子容疑者……さん」  いくら殺人犯の幽霊でも、本人を目の前にすると呼び捨てにしにくい。まさかの登場に目を丸くした私だったけど、幸子さんも驚きの表情を浮かべていた。 『私が見えるんですか?』 「ええ、まあ、生まれながらの霊能力で、頼みもしないのに見えるんですよ」  幸子さんは男を刃物で刺し殺した人。ちょっと怖くて近寄りがたいものがある。そんな私の反応を見取ってか、幸子さんは優しく微笑んだ。 『大丈夫ですよ、襲ったりはしませんから』 「いや、別に、そんな風には思っていませんけど」   そう言いながらも、半歩下がっている自分がいる。そんな私の背後から、急に声が掛かった。 『幸子さんは加害者だけど、被害者の一面も持っているだよ』 「うわあ! な、なんだ、お父さんか。急に出て来ないでよ!」 『え? 幽霊っていちいち「これから出没しまーす」って、断りを入れないといけないの?』  そんなルールはないけれど。 「不意に後ろから現れたら、ビックリするでしょって言ってんの」 『むしろ若手芸人みたいに前へ前へと出てきたら、それはそれで嫌じゃない?』  確かに、そんな積極的な幽霊はご遠慮願いたい。 「幸子さんは被害者でもあるって言っていたけど、お父さんは面識があるの?」 『ないけど、事件現場を見て来たんだ』  今日は珍しく姿を見かけないなと思っていたら、野次馬根性丸出しでアパートに行っていたのか。 『警察による規制線が張られていたけど、幽霊のお父さんは顔パスで中に入れたよ』 「何が顔パスよ。いくら亡くなっているからといって、女性の部屋に断りもなく入り込むのは失礼じゃない」 『ちゃんと玄関を通る前に「お邪魔します!」って、元気に断ったよ』  子どもか。まったく、お父さんの相手をすると私が損をする。 『捜査員たちが交わしていた話によると、幸子さんは妻子がいる相手の男に、たぶらかされたみたいなんだ』 「ちょっと、本人がいる前でそんな不躾に言わないでよ」  事実だとしても、剥き出しの状態で話題にして良い内容ではないでしょうが。恐る恐る横目で見ると、幸子さんは穏やかな表情を見せていた。 『いいんですよ、本当のことですから』  とても殺人犯には見えない落ち着き。普段はおとなしいけれど、一時的な感情で刺し殺してしまったみたいだ。それだけ本気で愛していたという証とも言える。 「と、とりあえず私は歯を磨いて、大学に行ってきまーす」  重くなった場から逃げ出すように言うと、お父さんが目を輝かせた。 『霊子ちゃんはいよいよ通学を再開させるんだね! いやあ、楽しみだなあ』 「……なんだか、お父さんまで大学へ行く気になっているように聞こえるんだけど」 『正解! 何色の何番?』  パネルクイズなんてやってないから。 「なんのために行くのよ。大学に用なんてないでしょ」 『よくドラマや映画で、残された家族が言うじゃない。「お父さん、天国から私たちを見守っていて下さい」って。常に目を光らせて娘を見守るのは、死んだお父さんの大切な役目だからね。キリッ』  あなた極楽浄土でゴロゴロしたいって言っていたじゃない。何を今さらやる気がある振りをしてんのよ。 「余計なお世話。単なる暇つぶしで付いて来ないで」 『せっかく死んで幽霊になったんだから、授業参観をさせておくれよ』  せっかくという言葉の使い方、合っている? 『邪魔しないからさ、ね?』  すでに目障りなんですけど。呆れる私と、はしゃいでいるお父さんを見て、幸子さんは目を細めた。 『仲が良いんですね』  なぜかお父さんが嬉しそうに一歩前に出た。 『そうなんですよ。霊子ちゃんはいつまでたっても、父親離れができなくて』  殴れるものなら殴りたい、このテキトー男の顔面を。私はお父さんを無視して、大学へ行く準備を始めた。         2 「復帰したからって無理をしたらダメだよ、霊子」 「困ったことがあったら何でも相談にのるからね」  大学に顔を出すなり、仲の良い友達二人が優しく声を掛けてくれた。まだ父親の死から立ち直るには、時間が掛かると思っているようだ。その気持ちは嬉しいんだけど、学食前のテラスにあるこの丸テーブルには、お父さんもちゃっかり加わっているんだよね。 「休んでいた間のノートを見せてあげる」 「レポートの課題も出ているから、手伝うよ」 『お父さんもぉ、全力で霊子ちゃんを応援しちゃうぞ』  ……最後のオッサンだけどうにかして貰えれば、あとは自力で頑張れるんだけど。  お言葉に甘えてノートを写していると、友達の一人である文乃が「あっ、城之内先生だ」と、小さく弾んだ声を出した。顔を上げると、十メートルほど離れた場所を颯爽と歩くスタイリッシュな紳士がいた。 「誰なの?」  訊くと文乃は、うっとりとした声で答える。 「西洋美術史を担当している、城之内准教授だよ。私、教養科目で選択しているんだ。素敵~」  お兄ちゃんや閻魔もイケメンだけど、城之内先生はまた違った、大人の魅力が詰まっている。立ち居振る舞いの一つ一つが洗練されていて、パリのカフェがよく似合いそうな雰囲気。寂れた寺の娘である私とは、異世界の住人に見える。 「城之内先生も良いけど、私は彼の方が良いな~」  もう一人の友達である里香は、正反対の方向に視線を送った。茶髪に無造作ヘアというホスト風の男子学生。体育会系にみられる男らしさよりも、美青年を意識したタイプだ。知らない顔だったので、私は訊ねた。 「知り合いなの?」 「三年生の神崎龍太君だよ。去年の文化祭でミスター清明大学に選ばれた人。いつも遠くから眺めているだけなんだけど、それだけで目の保養になるよ」  みんな詳しいなあ。私が疎いだけか。どうであれ私には関係ない事だと、ノートに視線を戻したら、友達二人が騒ぎ出した。 「えっ、なになに?」 「神崎君がこっちに来るよ」  再び顔を上げた時には、すでに目の前にいた。彼の視線はなぜか私に向けられている。 「大往寺霊子ちゃん、だよね?」 「え? あ、はい」  私が答えるのと同時に顔をぐっと近づけてくる。確かにイケメンだ。自分に自信があるのがその表情から窺える。普通の人なら見惚れるところだろうけど、お兄ちゃんや閻魔を見慣れている私は、あまり動じなかった。 「霊子ちゃんってさ、カレシいるの?」 「いませんけど」  なぜ急にそんなことを訊いて来るんだろう。不思議がる私をよそに、神崎君はニッコリと笑った。 「良かった。じゃあ今度、映画でも一緒にどうかな?」 「え?」 「先週末に封切になった話題の映画、観に行こうよ」  何を言われているのか、咄嗟には判断できなかった。私が眉間に深いシワを寄せていると、神崎君の背後から「おーい龍太、行くぞー」と仲間の声が掛かった。 「ゴメン、行かないと。この続きはまた今度ね」  キラッとした笑顔を振り撒きながら、神崎君は仲間の元へと戻って行った。何が何だかわからず首を傾げる私の体を、神崎君推しの里香が思いっきり揺さぶった。 「ちょっと! なんなのよ今のやり取り!」 「いやあ、なんだろうね」 「いつから神崎君と面識があるの!」  里香はさらに力を込めて私の体を揺すった。ムチ打ち寸前の激しさだ。 「今まで会ったこともないし、話したのも今日が初めてだよ」 「信じられない。接点のないイケメンが、何の前触れもなく霊子に話しかけて来るなんてことがある? 方や多くの女子を魅了するミスター清明大学、方や線香臭い寺の娘だよ?」  ……念のため確認するけど、あなたは私の友達だよね?  「そんなこと言われたって、神崎君の名前さえ知らなかったんだから」 「じゃあなんで誘って来るのよ。完全に霊子をロックオン状態だったじゃない」 「うーん、そこは私の魅力に惹かれたとか?」 「そのボケ、つまらないんだけど」  ……さっきまで優しく気遣ってくれていたのに、男が絡むとこれだから女は怖い。相変わらず体を揺さぶられている私を見ながら、城之内准教授推しの文乃が冷静に判断した。 「たまたま霊子の父親が亡くなったことを耳にして、気遣ってくれているのかもしれないよ」  それを聞いて、ようやく里香が私の体を解放してくれた。 「だったら納得。神崎君、優しいから」  あなたも彼と面識ないはずですよね。見た目から勝手に性格を想像していませんか。 「もう次の講義が始まっちゃう。ノートは霊子に預けておくから」 「ありがと」  同じ講義を取っている文乃と里香が、急いで教室へと向かって行った。「復帰初日から疲れるなぁ」と自分で自分の肩を揉んでいると、周囲の視線が私に集まっていることに気づいた。  ミスター清明大学に誘われている女子がどんな人物なのか、興味を抱いた目を向けている女子学生もいれば、嫉妬や妬みの籠った目を向けている女子学生もいる。トップアイドルのリンネちゃんはきっと、いつもこんな好奇な目に晒されているんだ。その気苦労は想像を超えているに違いない。  でも滅多にない注目の的となった私は、少し浮かれ気分だった。自分の手柄ではないけれど、人の耳目を集めると承認欲求が満たされるのかもしれない。  無意識に鼻歌が漏れた私に、お父さんの声が届く。 『随分と浮かれているみたいだね。あのチャラ男に声を掛けて貰ったことが、そんなに嬉しいの?』 「どうでも良いでしょ。お父さんに迷惑をかけているわけじゃないんだし」 『急に近づいて来るなんて変だよ。何か裏があるに違いないって』 「友達も言っていた通り、父親を亡くした私を不憫に思って、元気づけようとしてくれているんだよ」 『もしそうだとしても、それは霊子ちゃんのためではなく、自分自身の好感度のためだよ。みんなが見ている前でわざと声を掛けて「気遣う俺、カッコイイだろ」って、自画自賛しているに違いないって』 「神崎君のこと知りもしないで、なんでそんなことがわかるのよ」 『だって、お父さんも同じことをするもの』  ……我が父ながら、清々しいほど正直者のクズ男だ。 「お父さんの意見なんて聞いてないから、チャチャ入れないで」   せっかく気分がいいのに、台無しにされたくない。それでもなお神崎君に対して警戒するよう、お節介を焼いてくるお父さんの声をシャットダウンするため、私はイヤホンで音楽を聴き始めた。         3 『彼が結婚をしていること、しばらく知らなかったんです』  幸子が細い声で伝えた。大往寺の縁側で並んでいる閻魔は、無表情のまま応じる。 『それが情状酌量の余地になるとでも思っているのか』 『いいえ。知っていても、恋をしていたと思いますので――』  幸子は言い訳を並べたいのではなく、ただ話したかった。生前の自分を整理するために。 『――運命は先着順なのでしょうか。彼と私の出会いが遅かっただけで、ただそれだけで無条件に諦めなければならないものでしょうか』  立て続けの質問に、閻魔は眉を顰めた。 『俺が恋のキューピッドにでも見えるのか』  幸子が力なく笑う。 『とても閻魔様にする質問ではありませんでしたね』 『まだ忘れられないのか、あの男のこと』 『……殺したいほど愛した人ですから』  可愛さ余って憎さ百倍。本気で愛していたからこそ、許せなかった。妻と別れて君と一緒になると言った、あの日の嘘を。 『彼も裁かれているのですか』 『別の閻魔が担当している。事件の関係者は別々に裁く取り決めになっているからな』 『彼の裁きは、どうなるのでしょうか』 『言えるわけがないだろう。別々に裁いている意味がなくなる』  幸子は『ですよね』と言いながらも、残念そうに目を伏せる。その時、玄関が開く音がした。霊子の「ただいま~」という弾んだ声が聞こえてくる。 『あの小娘に、異議申し立てを頼んでみたらどうだ』  閻魔の提案に、幸子は首を傾げた。 『霊能力があるとはいえ、まだ十八歳の女子大生ですよ。私の弁護ができますか?』 『これまでに二人、地獄行きでもおかしくない奴を救い出した。なにかと五月蠅い小娘だが、いないよりはマシだ』  幸子はマジマジと閻魔の横顔を見つめた。 『閻魔様が、なぜ人殺しの私にそんな助言をしてくれるのですか。さっさと黒札を渡せば済む話なのに』 『通常、殺人犯のような重罪人は、上級閻魔が地獄行き前提で裁くことになっている。だが、お前は若手の俺に担当が回ってきた。黒札が濃厚でありながらも、情状酌量の余地があると踏んでいる証だ。しかし、俺にはその余地が見えない』 『それを霊子ちゃんが探してくれるというのですか』 『あくまで可能性の一つだがな』  噂の霊子が縁側に現れた。表情がだらしなく緩んでいる。 「あっ、閻魔いたんだ。幸子さんも……こんばんは」 『こんばんは。大学で何かいいことでもあったのでしょうか?』 「えっ、わかります?」 『なんだか嬉しそうだから』 『霊子ちゃんは見るからにチャラチャラした男から誘われて、浮足立っているんですよ』 「なんでお父さんがしゃしゃり出てくるのよ」 『あんな中身のない薄っぺらい男に娘が(なび)いていれば、どこのお父さんだって心配になるでしょ』 『靡いてないから。そもそも山村さんの時と、言っていることが違うじゃない。女性を見る目は確かだ、数多いる女性の中から山村家のお嬢さんを選ぶくらいだからとかなんとか、結衣ちゃんのカレシをフォローしていたくせに』 『所詮は他人の娘なんだから、何とでも言えるでしょ』 「……あなたの方がよっぽど薄っぺらくて中身がないよ。仮にも大往寺の住職だったお父さんが、門徒と娘で言うことが違うなんて、あからさまな依怙贔屓じゃない」 『公平とか平等とか、そんな理想論は吹っ飛ぶんだよ。自分の子どもは別格なんだから』  その言葉に食いついたのは、幸子の方だった。 『親が子を想う気持ちは、理屈ではないということですか』 『その通りです。だって、我が子は何よりも愛おしい存在ですから』 「気持ちが悪いんだけど」 『そんな愛情の裏返し発言も、可愛いんだよ』 「憎悪の表面を出しているだけだから」 『ここはお父さんのアドバイスを素直に受け入れようよ。きっとあの男には裏があるって』 「神経質になりすぎ。なにもないから」 『そんなことを言って、幸子さんみたいに騙されてもいいのかい?』 「ちょっとお父さん!」  うっかり失礼なことを言ってしまった大往寺親子は、揃って恐る恐る幸子を見た。彼女は苦笑いを浮かべている。その隣で、閻魔が閻魔帳を開いた。顔を引き攣らせながら権太が訊ねる。 『あの、閻魔さん? 何をされているんですか』 『お前のマイナス査定を書き留めている。良かったな、また地獄へ一歩近づいたぞ』 『ちょ、待ってください。今のは言葉のマヤですから!』 「綾でしょ。それとも今から文明について語る気?」  呆れる娘の隣で慌てふためく権太を、閻魔はきつく睨んだ。 『俺は嘘をつく奴と、女を傷つける野郎が大っ嫌いんだんだよ』 『そんな、好き嫌いで裁かないでくださいよ~、そもそも微塵も思っていないことが、なぜか口をついて出て来ただけなんですって。名前は「幸子」なのに「幸が薄いね」なんて、これっぽっちも思っていませんから』 「……語るに落ちていることに気づかないの? お父さん」 『霊子ちゃんもフォローしておくれよ~、あっそうだ!』 「なにそのキラッとした瞳。悪い予感がするんだけど」 『お詫びに、霊子ちゃんが幸子さんの弁護をすればいいんだよ!』 「はあ?」 『殺人を犯しただけに、地獄行きが濃厚でしょ。そこをいつもの調子でパパッと異議申し立てしてさ、幸子さんの白札を勝ち取ろうよ』 「急に何を言い出してんの? そもそも幸子さんを傷つけたのはお父さんなんだから、自分で何とかしなさいよ」 『霊子ちゃん、親の不始末は子が拭うものでしょ』 「逆でしょ。このテキトー男が」  そんな親子のやり取りを見て、幸子がクスクスッと笑った。霊子が首を傾げる。 「えっと、なにかおかしいことがありました?」 『先ほど、同じことを閻魔様にも言われましてね。霊子ちゃんに弁護を頼んでみたらどうかと』 「なんで閻魔まで私に押し付けるのよ」  霊子は閻魔に向かって吠えたが、先に頭を下げたのは幸子だった。 『ごめんなさいね、私みたいなお荷物を押し付けるようなことを言って』 「あ、いや、そういう意味じゃなくて、その、何と言うか……私も大学に復帰したばかりで忙しくて、バイトも探さないといけないし、やることが多くて」 『大往寺の門徒でもなければ、知人でもない私ですから、そんなに多くのことは望んでいません。ですから、空いた時間にほんの少しでいいのです。手伝ってはもらえませんか』  縋るような視線を受けては、霊子も断れなかった。 「……わかりました。空いた時間で、なんとか頑張ってみます」 『ありがとうございます』  恭しく頭を下げる幸子に恐縮する霊子。隣では権太がニコニコと笑っていた。         4 「ふう、疲れた」  昨日と同様、学食前の丸テーブルに腰を下ろす。お父さんはまるでそこが自分の指定席であるかのように、私の横に座った。 『若いのにすぐ疲れがたまるなんて、霊子ちゃんは運動不足なんじゃない?』 「門徒でもない殺人犯の弁護をさせられる羽目になっているんだから、気疲れして当然でしょうが」 『そうカリカリしないで。リラックスが肝心だよ』  誰のせいでこうなったと思っているのよ。問題ばかり発生させるお父さんを見ていると、すでに死んでいるのに殺意が湧いてくるんですけど。 「ヤッホー、霊子」  文乃と里香も講義を終えてやってきた。私の向かい側に着座する。 「誰もいないのに、何か喋っていたみたいだけど?」  文乃が不思議そうな顔で訊ねてきた。私は慌てて首を振る。 「な、何でもない。ただの独り言」 「随分と大きな声だったよ。ストレスでも溜まっているんじゃない?」  疲れもストレスも、心身ともに溜まっていますよ。私は苦笑いを浮かべながら、借りていたノートをカバンから取り出した。 「これありがとう。助かった」 「お安い御用だよ。困ったことがあったら、何でも言って――あっ!」  急に文乃と里香が私の背後に注目した。釣られて振り返ると、私の真後ろに神崎君が立っていた。 「また会えたね、霊子ちゃん」 「ど、どうも」  なんだろう、承認欲求を満喫したせいか、変に意識し始めている自分がいる。 「さっそくだけど、明日の土曜日はどうかな?」 「えっ、なにがですか?」 「映画だよ。一緒に観に行くって約束したよね」  あの時、私はオッケーしたっけ? 「美味しいパスタの店もあるんだ。映画を観た後、行こうよ」 「は、はあ」  一方的に押されている私がしどろもどろになっていると、神崎君はスマホで時間を確認した。 「次の講義に行かないと。詳細は後で連絡するから、LINEを交換しよう」 「え、あ、はい」  なすがままの状態でLINEを交換した。神崎君は「それじゃ、またね」と、CMに出てきそうな爽やかな笑顔を振りまいて講義室へ向かって行った。里香が再び私の体を激しく揺する。 「なんで霊子がデートに誘われているのよ!」 「そんな大袈裟だよ。ただ映画を観て、食事をするだけ」 「それをデートと言うんでしょうが!」  里香が私の体に顔を近づけて、クンクンと鼻を鳴らした。 「急に寺の娘がモテ期を迎えるなんて……恋のポイントは毎日香なの?」  それを受けて文乃が言う。 「青雲じゃない? 幸せの青い雲だから」  ……お線香から離れようか、二人とも。周囲を見回すと、他の女子学生の視線も集まっていた。なんだか称賛を浴びている気分。 『やっぱり靡いているじゃない』  お父さんの声がした。私は小声で言う。 「べ、別にそういうんじゃないから」 『そんな浮かれモードで反論しても、説得力はないよ』  確かに浮足立っている自覚はある。だけど、私にだって楽しむ権利はあるはず。これまで苦労に苦労を重ねて生きて来たんだ。そのほとんどは、甲斐性のないお父さんのせいだけど。そんな私にようやくモテ期が巡ってきた。これは神様が与えてくれたご褒美に違いない……寺の娘だから仏様か。  ブーブー文句を言うお父さんと里香を宥めながら、すでに頭の中では「明日、何を着て行こうかな」と迷っていた。 『私は彼の言葉を疑いもせず、待っていたんです』  幸子は苦い味がする小さな溜息をついた。静かに佇む大往寺の縁側で、虚空の一点を見つめている。 『牧田敦史が妻と別れ、お前と一緒になると本気で信じていたんだな』  閻魔の言葉に、幸子はコクリと頷いた。 『あの人は誠実な人なんです。出世ばかり考えている人の中には、ミスを部下のせいにして逃げる一方、手柄は自分のものにするような酷い管理職もいます。でも営業一課の課長だった彼は違った。部下がミスをすれば自分も一緒に行って先方に謝罪し、へこむ部下を叱咤激励し、手柄はみんなで分け合う、だから彼は多くの人から慕われていました』 『そんな牧田に、お前は惚れた』 『春になれば桜が咲くように、自然な流れで私の心に彼が広がっていきました』  いつの間にか視線も、心も、意識のすべてが屈折することなく牧田に向けられていた。 『牧田は女房と上手く行っていなかったのか』 『一人娘を出産後、職場に復帰した奥さんは、経験年数ともに増していく職責にやりがいを覚え、仕事にバイアスを掛けるようになっていったそうです。元々彼と同僚だった上昇志向の強いキャリアウーマンですから、娘の面倒を見るよりも仕事の方がやりがいを感じるんだと思います』 『ネグレクトだったのか』 『虐待や育児放棄まではいきませんが、約束していた家事の分担を仕事のせいにして疎かにすることが増えて行き、それを巡って夫婦の間にいざこざが絶えなかったようです』 『次第に広がっていく夫婦の溝、そんな牧田に生じた心の隙間に入り込んだのがお前か』  幸子は苦笑した。 『別に虎視眈々と狙っていたわけではありませんので、もう少しオブラートに包んだ言い方をして貰えませんか』 『デリカシーがなくて悪かったな』  閻魔は無表情だったが、悪気がないのは幸子にも伝わった。この閻魔はただ、事実を淡々と確認しているだけ。 『夫婦仲が冷めていなければ私の入り込む余地はなかったので、あながち間違いではないのですが、彼はもう少し家庭的な女性を求めていたのです。奥さんではそれが難しい。でも私は違う。彼に寄り添い、支えながら生きていくつもりでした』 『お前は尽くすタイプなのか』 『その方が性に合っていますので。別に女性の社会進出を否定しているわけではなく、相性の問題なんです。彼にとって人生の歩調を合わせやすいのは、奥さんよりも私だった』 『牧田も甲斐甲斐しいお前に惹かれ、二人は恋に落ちた。妻との関係を整理し、新しい恋人とやり直すのも自然な流れだった。にもかかわらず、牧田は心変わりした』  その言葉が胸に刺さったのか、幸子は痛みが走ったように顔を歪めた。 『清算する相手が私になるとは、夢にも思っていませんでした。彼から発せられる別れの言葉のすべてが、タチの悪い冗談にしか聞こえなくて』 『お前と一緒になると言っていた牧田が、急に別れを切り出した。その変調がどうして生じたのか、わかっているのか』  幸子は静かに首を振った。 『彼はただ「関係を終わりにしたい、君が悪いのではない、すべては俺が悪いんだ」そう言うだけでした。私の他に好きな人ができたのかと訊ねましたが、妻とやり直すと言うだけで、それ以上の理由は知らされていません。いつも逃げずにいた彼が、初めて言い訳を並べて逃げ回っているように見えました』 『お前が激しく動揺したことは想像に難くないが、だからと言って刺し殺すというのは、いくらなんでもやりすぎだろう』 『あの時、彼はこう言ったんです。「やはり不倫なんてするべきではなかった」って――』  将来を誓い合ったほど本気で愛したのに、自分との関係はただ後悔しか生まなかった。相手の気持ちよりも自分の本音を優先させたこの一言は、幸子の心を深く抉った。 『――私の存在のすべてを否定されたような気になってしまって』 『ただでさえ足元から崩れているところに、その全否定が加わって、お前は臨界点を超えたんだな』 『気づいた時には包丁を持って立っていました。目の前には血だらけになった彼が倒れていて、自分がしたことを把握した時、何も考えずに持っていた包丁の切っ先を自分に向けました』  彼の命を奪った同じ刃物で刺して死ぬ、そこに不倫という立場でしかない幸子の最後の意地が感じられた。 「ただいまー」  霊子の声が玄関から届いた。その気配が徐々に縁側へと近づいて来る。 「だからお父さんには関係ないでしょ」 『あの男には明らかに裏があるんだよ。なんで霊子ちゃんはそれに気づかないのかなぁ』 「あっ、閻魔。それに幸子さん……」  気まずそうに霊子は顔をそむけた。閻魔は見逃さない。 『お前、異議申し立てについて何の調査もしていないな』 「だ、だから私も忙しくて、なかなか空き時間が取れないんだって」 『だったら明日のデートは取り止めて、霊子ちゃんとお父さんでプラスになる証言を集めに行こうよ』 「お父さんは関係ないんだから黙っていて」  父親をキッと睨みつけている霊子に、幸子が訊ねた。 『明日、デートなんですか?』 「いや、ただ映画を観て食事をするだけです」 『それがデートでないのなら、何と言うんですか』 「それは、その……会合? 親睦会? 国のトップも首脳会談で、ゴルフ外交とかイベントをするじゃないですか、それと同類ですよ」 『相手の男性は交渉相手なんですか?』 「……違いますけど」  どもる霊子の隣で、権太が溜息をついた。 『あんなチャラけた男にうつつを抜かすなんて、お父さんは情けなくて涙が出てくるよ』 「それはこっちのセリフでしょ。情けない父親に何度泣かされてきたことか」 『もう泣かさないから、あの男と会うのは止めようよ。絶対に裏があるって』 「お父さんの意見なんて聞いてないから。いい加減どこかへ行ってよ!」  半ギレの状態で霊子は自分の部屋へと入っていった。その後を権太が追うのを見て、幸子は呟いた。 『霊子ちゃん、私のように傷つかなければいいのですが』  自嘲気味に笑う幸子に対し、閻魔は言った。 『別に良いんじゃないのか。傷ついて終わるまでが恋だろ』 『えっ……』  思わぬ見解に、幸子は声を詰まらせた。 『始まりがあれば、終わりもある。出会ってドキドキして、想いが成就して二人の幸せを噛み締める。だが、最後は大抵悲劇で終わる。そこまでが恋の一幕だ』 『……確かに、終わりの部分だけ都合よく切り離そうとするのは、虫が良すぎますね』 『本気で愛すれば愛するほど、深く傷ついて終わる。それが恋だ。傷つくのが嫌ならば、最初から恋をする資格なんてない』  倒したグラスから零れたワインがテーブルクロスに広がるように、幸子の心に閻魔の言葉が浸透していった。 『……傷ついて終わるまでが恋、そんな発想はしたことがありませんでした』  深く考え込む幸子の横顔を見て、閻魔は提案した。 『大往寺の娘は自分の恋路で忙しいようだ。仕方がない、明日は俺と一緒に付いて来て貰うぞ』 『どちらへ行くのですか?』 『牧田がなぜ急に心変わりをしたのか、誠実でトラブルがあっても逃げないはずの男が、なぜ言い訳を並べてまで言葉を濁したのか――』  閻魔は幸子を見つめた。あまりにも深いその瞳に、彼女は惹き込まれながら耳を傾ける。 『――本当にお前との関係を後悔していたのか、すべての真実を教えてやる』         5 「ちょっと早く来すぎたかな」  スマホで時間を確認すると、約束の時間より三十分も前だった。もしも電車に遅延が生じたら、途中で道に迷ったら、なんてリスクを考えて早めの行動を取ってしまう。我ながら実に生真面目な性格だ。  待ち合わせの場所は立川駅の北口。新宿や渋谷まで出るのかと思っていたら、意外な場所を指定された。噂のパスタ屋さんがこの近辺にあるらしい。人混みが苦手な私は、立川や八王子くらいのお手軽な街の方が落ち着けるので、この方がむしろ有難い。  十五分ほど前になったところで、神崎君が現れた。ジャケットにジーンズというラフな格好にもかかわらず、様になっている。 「待たせてゴメンね――」  純度の高い笑顔を見せながら軽く手を上げてくる。仕草の一つ一つがイケメンだ。 「――先に来て待っているつもりだったんだけど」 「私の方が早く来すぎたので」 「ここにいても仕方がないから、映画館へ行こうか」  コクリと頷いて神崎君の隣を歩く。彼はさり気なく私を見た。 「今日のファッション、可愛いね」 「あ、ありがとう」  良かった~、どうやらこのチョイスは正解だったようだ。何を着て行けばいいのか散々悩んだ私は、結局自分で決めることができずに、友達に助けを求めていた。  まずは神崎君推しの里香に訊ねたところ、「フンドシで行け、そして嫌われろ」という辛辣な言葉が返ってきた。続けて文乃に縋ったら、「ただ映画観て食事するだけでしょ。あんまり気張って行ってもドン引きされるかもしれないから、そうだな――霊子、白いレースのトップス持っていたよね。それにライトブルーのジーンズに黒いパンプスでも合わせて、清潔感を出して行きなよ」という、実に的確なアドバイスをいただいた。文乃には後日、ジュースをおごってあげよう。  シネマシティに向かって歩いている私たち。すれ違う人たちにはきっと、どこにでもいる普通のカップルに見えているだろうな。私以外の目には幽霊が映らないから…… 『なーんで霊子ちゃんはウキウキなのかな~』  お父さんの僻み丸出しな声が届いた。私は「黙って」という意味を込めて、キッと睨む。もちろん、そんなことで自粛するような人ではない。 『見るからに胡散臭い男じゃないか。何か企んでいるに違いないって。どうして霊子ちゃんにはわかって貰えないのかなあ』  いい加減カチンと来た私は、神崎君に聞こえないように小声ながら、刺々しい口調で言い返す。 「お父さんは何か狙いがあると言いますけどね、そもそも神崎君が私を陥れて、何の得があるのよ。お金持ちの令嬢だったらまだしも、何のコネも社会的地位もない、貧乏寺の娘なんだよ」 『だからこそ怪しいんじゃないか。狙いがハッキリしていないのに、前触れもなく霊子ちゃんに近づいて来るなんて、明らかに変でしょ』 「文乃が言っていた通り、父親を亡くしたことを聞きつけて、私を慰めようとしてくれているんだって。ずっと苦しい思いをしてきたんだから、たまには青春を謳歌したって罰は当たらないでしょ。放っておいてよ」  そこからはお父さんをガン無視して映画館に入った。さりげなく「何を飲む?」と訊いてきて、さっと二人分の飲み物を買ってくれるあたり、神崎君はエスコートに慣れているなあと感心した。  話題の映画だけあって混んでいたが、席は無事に確保できた。並んで座っていると、お知らせやスクリーンの盗撮禁止など注意事項が流れる。そんな私たちの横で、お父さんは飽きもせずに文句を言っている。 『この男は暗くなったら、霊子ちゃんの手を握るつもりだよ。そんでもって、タイミング良くチューしてくる気だ。このスケコマシめ!』  久々に聞いたよ、スケコマシって。私が呆れ顔を向けると、お父さんは続ける。 『なんでわかるのよって顔をしているね。これがわかるんだよ、お父さんだったら同じことをするからね!』  ……あなた自身がスケコマシじゃない。この住職はなぜ娘の前で煩悩を曝け出してんの。 「そろそろ始まるみたいだ。楽しみだね」  神崎君は相変わらず爽やかな笑みを浮かべている。この人がお父さんと同レベルとは思えない。けれど男だ。もしかしたら、もしかするかもしれない。  本当に手を握って、キスを迫ってくるのだろうか。お父さんのせいで変に意識してしまった私は、隣の神崎君をチラチラ見てしまった。だけど、何のアクションもないまま三十分ほど経過した頃、私もすっかり映画に見入っていた。噂通りの名作で感動した。 「これは観て良かった。想像していた以上に素敵だったね」  上映が終わると、神崎君はすっと立ち上がった。結局は何のハプニングもなく、無駄に神経を使って疲れただけだった。 「まだ館内は薄暗いから足元に気をつけて」  英国紳士級のさり気ない気遣い。私は彼の背中に頼もしさを感じながら後に続き、映画館を出た。 「次はパスタを食べに行こう。トマトソースが絶品の店なんだよ」  そう言って神崎君は私を導いた。駅の方に向かうかと思いきや、途中で右折して路地に入る。大通りに比べて、急に人通りが少なくなる。 『ここだ! 気を付けて霊子ちゃん、この男はここで襲ってくる気だよ』  お父さんが鼻息荒く忠告してくるから、私も何となく構えてしまった。隣を歩いていた私が少し後ろに下がったので、神崎君が振り返った。 「どうかした?」 「い、いや、別に」 「この先がお店だよ」  神崎君が三軒先の建物を指した。一階がお店で二階が住宅になっている、昔ながらの個人経営。申し訳程度に出ている看板には、確かに『パスタ』の文字が入っていた。  店に入ると、すぐに「いらっしゃいませ」と声が掛かった。二人掛けの小さなテーブル席が八セットあるだけの、こぢんまりとした空間。それでも奇麗に整頓されていて、家庭的な雰囲気に包まれている。  空いている席に誘導されると、神崎君は私にメニューを差し出しながら、この店を紹介してくれた。 「ここは夫婦二人で切り盛りしているんだ。奥さんが接客で、旦那さんがコックでね」 「よく来るの?」 「今日で二度目。たまたま見つけたお店だけど、味も雰囲気も気に入ってね。食事は誰と食べるかでも味が変わってくるから、次は素敵な人と一緒に来店すれば、もっとおいしく感じるだろうと思って、今日まで我慢していたんだ」  その素敵な人って、私ですよね。思わず顔がニヤけてしまうと、真横でお父さんがヤジを飛ばしてきた。 『あらあら~、霊子ちゃん、随分とだらしないお顔ですよ』  ……なんなのこのオッサン。そもそも娘のお出掛けに付いて来るとか、その時点で非常識極まりないでしょ。  オススメだというトマトソースのパスタを頼んだ。家で食べるそれとは違い、芯の残ったアルデンテに、程よい酸味が特徴的な味わい深いソースが絶妙なバランスで絡んでいる。濃厚なのに後味はさっぱりという、夏野菜の旨味が凝縮した一品だった。  ほぼ初対面に近い神崎君だったけど、このパスタや映画の話で話題に事欠かなかった。食事とトークを楽しんだ後、セットで頼んだチョコレートケーキに舌鼓を打っていると、神崎君が何気なく訊いてきた。 「霊子ちゃんは将来、夢や目標があるの?」 「特にまだ、決めてはいないんですけど。周りはカウンセラーや家庭裁判所の調査官を目指しているので、私もそっち方面に進もうかな、とは思っていますけど」 「霊子ちゃんの場合は、同じ心理学でもビジネス方面に進んだ方が、有益だと思うよ」 「普通の会社勤めで心理学を生かす、ということですか?」 「消費者心理を分析して売り上げにつなげるような、コンサルタント的な方面がいいんじゃない?」 「いやあ、そういうバリバリのキャリアウーマンタイプではないので」 「そうかな。今日も相手より先に待ち合わせの場所で待っていたでしょ。女性は準備に時間がかかるものなのに、相手より先に来て、それでいてちゃんとTPOに応じたオシャレをしている。総合職としてキャリアを積みながら、将来は女性社長を目指せる逸材だよ」 「そんな、褒め過ぎですよ」  そう謙遜しながらも、まんざらでもない私がいる。 「アメリカへ留学もして、見聞を広めながら深く経営を学んで、カッコイイ女性を目指そうよ」  ミスター清明大学に釣り合う女性というのはやはり、求められるレベルも高いものなんだ。でもまあ確かに、海外留学を人並みに夢見ることもありますし、消費者心理の分析も興味がありますし、その進路も考慮する価値はありそうだけど。  すっかりその気になっている私に、お父さんが囁く。 『霊子ちゃんは寺の娘なんだから、アメリカよりもインドでしょ。インドで本場のカレーを食べながら、悟りを開こうよ』  あなたに対するイライラを抱えている私に、悟りは開けませんよ。 「進路か……一度真剣に考えてみようと思います」 「それがいいよ。応援するから」  暖かい言葉を受けて、私は上機嫌で食後のデザートを平らげた。         6 『ここは……病院ですか』  閻魔に連れて来られた幸子は、見覚えのない大きな病棟を前にして、戸惑っていた。何かの手違いかと思ったが、閻魔は頷いて返した。 『この病院がお前にとって、重要な場所になる』 『通院したことのない病院ですが……てっきりあの人の自宅へ行くものだとばかり思っていました』 『なぜそう予感した?』 『残された遺族を目の当たりにして、私がどのような反応を見せるのか、確認したいのかと』 『それは半分当たっている。残りの半分は自分の目で確かめろ。牧田の心変わりや、言い訳を並べた理由、そして後悔の言葉の意味が分かる』  閻魔に促され、幸子は入院施設のある一般病棟に入った。五階建てのその二階で、閻魔は一度立ち止まる。フロアには子供が溢れていた。 『ここは小児病患者のフロアだ。一番奥、向かって左側の病室に入れ』  閻魔が進むよう顎で先を指した。幸子はゆっくりと歩いて行く。子どもは常に元気と笑顔を振りまいているはずなのに、ここでは仕事帰りのサラリーマンのような疲労感が蔓延していた。どの子もみんな、生きること自体に疲れて見える。  幸子は言われた通り、突き当り向かって左側の部屋に入った。そこは四人部屋で、奥の窓際に一人の女の子がベッドで上半身だけを起こしていた。頭は網目状の包帯でガーゼが巻かれている。 『もしかして、この子は……』  幸子が振り返ると、閻魔は『ベッドに書いてある名前を見ろ』と指示を出した。幸子は恐る恐る近づき、ネームプレートを確認する。そこには『牧田愛理』と書かれていた。 『あの人の……牧田敦史さんの一人娘ですか』 『ああ』 『この子の頭の傷は怪我ですか、それとも何か重い病気を患っているのでしょうか』 『小児脳腫瘍という難病だ。発生率は十万人に数人程度、子どものガンにおいては白血病の次に多い。妻と別れ、再婚まで考えていた牧田が心変わりしてお前に別れを切り出したのは、この子が発病した後だ』  幸子は愕然として動けなかった。閻魔が言う真実の輪郭が、徐々に見えてくる。 『牧田は本気で妻と別れ、お前と一緒になろうと考えていた。そんな矢先に娘が発病した。お前にとって牧田は生涯を供にしようと考えていた伴侶かもしれないが、娘にとってもたった一人の父親だ。牧田自身もそのことは充分に把握していた』  元気な時でさえ、親の離婚が子供に与える衝撃は大きい。難病を抱える子どもにその現実を突きつけるのは、あまりにも無慈悲。 『お前との幸せと娘の一生、その二つを天秤にかけるまでもなく、牧田の答えは決まっていた。死んだ大往寺のポンコツ住職が言っていた言葉、覚えているか』  幸子は力なく頷いた。 『こう言っていましたね。「公平とか平等とか、そんな理想論は吹っ飛ぶんだよ。自分の子供は別格なんだから」と』 『それに対し、お前はこう質問していた。「親が子を想う気持ちは、理屈ではないということですか」と。お前自身、そう感じたから出た質問だろ』  幸子はもう、頷くことさえできなくなっていた。ただ一筋の涙がその頬を伝う。 『この病気の十年生存率は50パーセント台だ。娘の人生があと何年残されているのかもわからない。この状況で牧田が下せる決断は、娘と一緒にいる選択肢以外になかった』  優しい人なのは誰よりも幸子が知っている。そんな彼が、病気の娘を放って自分の幸せを選ぶわけがない。 『なぜ……彼はこの事実を言ってくれなかったのですか』 『それは牧田が逃げない男だからだ。お前との関係を清算するために、娘の病気を言い訳には使いたくなかったんだ』  幸子は牧田愛理を見つめた。その横顔に、愛した男の面影を感じながら。 『お前を本気で愛していたからこそ、自分の責任で別れを伝えたかった。それが牧田なりの誠意だったんだ』 『……だったらなぜ、私との関係を後悔するようなことを口にしたんですか』 『それはお前の取り方が間違っているんだよ。牧田はお前との関係を後悔していたのではない。不倫という関係に後悔していたんだ――』  幸子は真っ赤にはらした瞳を閻魔に向けた。それを受けて、閻魔が続ける。 『――不倫ではなく、妻との婚姻関係を清算してから、ちゃんと付き合うべきだったと後悔していたんだ。結果的にたぶらかす様な状況になってしまったからな。幸せにできないのであれば、最初から付き合うべきではなかった。それを自分の甘えで不倫という状況から始めてしまった。そんな自分の弱さを悔いていたんだ。お前のことが本当に大切だったからこその後悔なんだよ』  傷つけてしまったのは、すべて不倫という中途半端な関係にあったから。婚姻関係を整理するまで、新たな関係は始めるべきではなかった。生真面目な男が漏らした後悔の言葉。それがまさか、より幸子を傷つけることになるとは夢にも思わなかった。  ただ茫然と愛理を見つめていると、幸子の隣を女が通り過ぎた。愛理の表情が少しだけ明るくなる。 「ママ」 「あら、起きていたの。何か飲む?」  牧田の妻であり、愛理の母親である舞美が優しく声を掛けた。その頬は影ができるほどコケている。 「いらない。ねえパパは?」  その無邪気な質問が矢のように突き刺さる。舞美は痛みが走ったように顔を歪めた後、努めて作り笑いを浮かべる。 「言ったでしょ。お仕事で遠くへ行っているって」  幸子はハッとした。妻はもちろん、すべてを知っている。夫が不倫し、その不倫相手に殺害された、その事実はとても娘に言えるものではない。 『私は……あの人の娘に真実を伝えられないことをしたんですね……』  深い罪悪感が幸子の内面を抉る。それでも閻魔は容赦なく告げた。 『娘が病気になってから、妻はそれまでのキャリアを捨てて娘に寄り添うことを決めた。自分の夢よりも娘の生涯を大切に思って。その分、牧田が働くことになっていた。それもすべて御破算になった。この母娘にはこれから、経済的な試練も待っている』  抑えきれなくなった幸子は、自分で自分の胸をきつく抑えた。乱れる内面に感情が追い付かず、痙攣に近い震えが起きている。 『お前が犯した事件は今日もニュースで流れている。妻は娘の看病に加え、世間の好奇な目に晒されて苦しんでいる。牧田とお前は死んで終わりだが、何の罪もない残された遺族はまだ、苦しみ続けているんだよ』  舞美は酷くやつれていた。だが、それを娘の前では隠している。その姿がまた、幸子を動揺させた。 「あーあ、早くパパが帰ってこないかな」  愛理は窓の外を見つめた。舞美が寂しそうな顔で言う。 「本当に愛理はパパが好きね」 「うん。お薬も頑張って飲んでいるんだもん、きっと沢山褒めてくれるよ」  帰って来ない父親を信じて待ち続ける愛理。その姿を見たら、もう幸子の慟哭は抑えようがなかった。  土下座をするように倒れ込むと、幸子は体を振り乱しながら号泣した。         7 「ただいま~」  神崎君とのお出掛けを終えて帰宅した私を、お兄ちゃんが出迎えてくれた。 「お帰り。早かったね」 「映画を観て、食事してきただけだから」  神崎君は最後まで紳士で、どこかのテキトー住職のように煩悩を丸出しにすることはなかった。初対面なのに会話が弾み、将来について考えるきっかけとなった有意義な時間だった。それを察したお兄ちゃんが言う。 「今日のお出掛け、楽しかったみたいだね」 「わかるの?」 「霊子の顔、綻んでいるから」  その自覚はある。またお出掛けの約束をしていて、それを楽しみにしている自分がいる。 「明日の日曜日、霊子の予定は?」 「レポートの課題をやっつけないといけないから、家にいるつもりだよ」 「僕は法事で門徒に呼ばれているから、お留守番をお願い」 「オッケー。ちょっと部屋着に着替えてくる」  いつの間にか「フフフン♪」と鼻歌を漏らしていた。この状況ではまたお父さんに嫌味を言われる。私はハッとして振り返った。でもそこにお父さんの姿はなかった。思い出してみると、帰宅途中にお父さんの姿を見た気がしない。 「また幸子さんの事件現場でも見に行っているのかな――あっ!」  幸子さんの異議申し立てについて、何もしていないことに気づいた。私は引け目を感じながら縁側に出ると、そこには幸子さんどころか閻魔の姿もなかった。 「二人も事件現場に行っているのかな……まあ、いっか」  戻って来たら話を聞けばいい、この時の私はそう軽く考えていた。  翌日の日曜日、休んでいた分の遅れを取り戻すべく、午前中からレポートと格闘していた。ちょうど一休みしようかとコーヒーを入れていたら、昨夜から姿が見えなかったお父さんが慌ただしく現れた。 『霊子ちゃん、お父さんと一緒に来て!』 「はあ? どこへ行くのよ」 『付いて来ればわかる。百聞は一見に如かずだ、その目で確かめて』 「私はレポートづくりで忙しいの。何があったのかは知らないけれど、お父さん一人で行ってきなよ」 『霊子ちゃんに確認して貰わないと意味がないんだよ。一生のお願いだから、ね?』  あなたの一生、もう終わっていますけど。 「幸子さんに関すること?」 『違う、霊子ちゃん自身の問題だよ。あと翔平君もね。そうだ、翔平君にも来るように伝えて。二人に見て貰いたいんだ』 「どうせ取るに足りない事でしょ」 『違うよ。お父さんはくだらない事なんて言わないって』  あなた自身がくだらないんだけど。そう思いながらも、お父さんはいつになく真顔だった。これは本当に冗談では済まされないことが起こっているのかもしれない。 「私がレポートをほったらかしにしなければならないほど、大事なことなの?」  念のため確認すると、お父さんは深く頷いた。 『本当に重要なことなんだ』 「嘘だったら許さないよ」 『もちろん。命を賭けてもいいよ』  あなたの命はもうないでしょうが。でも、その目は真剣だ。 「わかった。お兄ちゃんは今、門徒のところへ出かけているから、ケータイに連絡するよ。出なくても留守電に場所を入れておくから、直接来て貰うことにする」  お父さんから行き先を告げられた。そこは八王子にある京王プラザホテルのロビーラウンジだった。 「作戦は順調かしら」  コスメ製造販売会社『エルモッソ』の創業者である女社長、九条紀香は向かい側に座っている神崎龍太に確認した。彼は自信のある笑みを浮かべながら頷く。 「進路について、ご要望の通り誘導しました」 「霊子の反応はどうだったのかしら」 「経営を学ぶことや留学についても、すっかりその気になっているみたいですよ。真剣に考えたいって言っていましたから」 「そう、この調子で続けて頂戴」  紀香は隣に座る高杉に目で合図した。それを受けて、高杉はそっと封筒を神崎に差し出す。中には約束の謝礼が入っている。 「ありがとうございます――」  神崎は懸賞金を受け取る力士のような手つきでそれを受領した。自然と表情がホクホクになる。 「――霊子ちゃんを誘惑しろと言われた時は何かの冗談かと思いましたが、本気だったんですね」  神崎から発せられた愚問に、紀香は鼻で笑って返す。 「妹の霊子さえいなくなれば、後は天然ボケの兄だけになる。そうなれば大往寺を廃寺に追い込むなんて、赤子の手を捻るよりも簡単よ」 「そこまでして大往寺を潰したいんですか。なんだか罰当たりな気がしますけど」 「これもビジネスよ。あなたも株式上場を控えるほど大きな会社を興してみればわかるわ。神や仏がビジネスチャンスをくれるわけではない、何事も自分で切り開かなければならないってことがね」 「まだ大学生なので経営のことはよくわかりませんが、エルモッソの役に立つことで僕のバイト代が弾むのなら、協力は惜しみませんよ」  それを聞いて、紀香は口角を上げた。 「いいわね、そのビジネスライクな考え方。気に入ったわ。これからも霊子に甘い言葉を囁いて、経営学部への転部とアメリカ留学を実現させて頂戴」 「承知しました、ボス」  神崎が恭しく頭を下げると、テーブルに一つの人影が落ちた。ウエイトレスが追加の注文を伺いに来たのかと思い、紀香が視線を上げた途端、その顔色が変わった。 「な、なぜここに……」  いつも冷静沈着な紀香が、珍しく動揺を見せた。テーブルの脇に立っていたのはウエイターではなく、霊子だった。 「……今の話、本当なの?」 「いつからいたのかしら」 「全部聞いていたよ。神崎君を使って私をたぶらかし、大往寺から隔離するつもりだったの?」  霊子の顔から色が消えていた。マネキンのように動きがない表情が、より不気味に見える。 「経営学部へ転部をさせ、留学までさせようと画策していたの? その気にさせるために、私の恋心を巧みに利用して」 「イケメンが近づいてきたからと言って、簡単にハニートラップに嵌まったあなたが悪いんでしょう」  紀香の言葉は、責任の転嫁にしか聞こえなかった。霊子は一歩前に出て紀香を見下ろす。 「どうしてこんなことをするの? そこまで大往寺が憎いの? 寂れていても、多くの魂が眠っている寺なんだよ」  負けじと紀香は霊子を見上げた。互いの視線が交差する。 「すべてはビジネスのためなのよ」 「金儲けのためなら、家族を傷つけても良いって言うの? 娘の心を抉るようなことをしても良いって言うの?」  霊子は瞳を揺らしながら紀香に迫った。 「……答えてよ、お母さん」         8 「席を外して貰えるかしら」  お母さんが神崎君に言うと、彼は受け取った封筒をしっかりと握り締め、ペコペコと頭を下げながらロビーラウンジから出て行った。こんな男に少しでも好感を抱いていた自分が情けなくて惨めに思える。  入れ違いでお兄ちゃんがロビーラウンジに入って来た。袈裟をまとったその姿から、門徒の家から直接ここへ来たようだ。私が手招きする。 「お兄ちゃん、こっち」 「やあ霊子。電話では随分慌てていたみたいだけど、なにかあったの? あれ? 母さんもいる。凄く久しぶりだね」  続けてお兄ちゃんは、お母さんの隣に座っている若い男に視線をスライド出せた。 「高杉さんじゃないですか。奇遇ですね。もしかして母さんも高杉さんにコンサルタントを頼んでいるの?」  それを聞いて、私の記憶が刺激された。この高杉って人、黒塗りのレクサスを運転していた人だ。 「実は僕も高杉さんからアドバイスを貰っていたんだ。運命的な偶然だね」 「違うよお兄ちゃん。この人はコンサルタントでも何でもない、きっとお母さんの秘書か直属の部下だよ」  私が指摘すると、お母さんは銀縁眼鏡を押し上げた。 「さすが霊子、私の娘だけあって勘が鋭いわね」 「私だけでなくお兄ちゃんも騙して、借金を背負わせるつもりだったんだね」  人を疑うということを知らないお兄ちゃんはまだ、状況を理解できていない。ただ困惑を浮かべている。 「母さんがそんなことをする理由がわからないんだけど」 「大往寺を潰すためだよ。廃寺に追い込んで、私たちの居場所を奪うつもりなの」 「それで母さんにメリットはあるかな?」 「ビジネスのためと言っていたけど、それは嘘。きっと今でも別れたお父さんや大往寺を憎んでいるんだよ」 「それは違うわね――」  お母さんがピシャリとした口調で割り込んできた。 「――優秀な人材獲得という立派なビジネス目的があって、大往寺を潰すのよ」  話が見えない私は首を傾げた。 「なんで大往寺を潰すことが、人材確保につながるの」 「私が興したエルモッソ、すでに売り上げは百億を超え、従業員は千人に迫る勢い。これから東証への上場を控えているわ。市場から集めた資金は、海外進出のために使われるのよ」 「ますます大きくなるね。流石はお母さん、やり手だよ」  誉め言葉半分、嫌味半分で言ったつもりだけど、お母さんは無表情のまま受け流す。 「事業規模拡大に伴い、それを管理する経営システムが必要になる。私一人で担うには限界があるわ。早い話、私の右腕となる逸材が必要なのよ」 「そこで目を付けたのが霊子なんだね」  珍しくお兄ちゃんが冴えたことを言った。私は素っ頓狂な声を上げる。 「えっ、私なの?」 「腹心の部下となる人物には、将来の事業継承も見込んで帝王学を叩き込むわ。実の娘以上に的確な人材はいないでしょう」 「ちょっと待ってよ、私はお母さんの会社になんて入らないよ。これからもお兄ちゃんと一緒に、大往寺で暮らしていくんだから」 「そう言うと思ったわ。だから大往寺を潰すのよ」  お母さんの眼光が、獲物を前にした蛇のようにギラリと光った。私は思わず仰け反る。 「あの寺が残っている限り、霊子は離れようとしない。だったら廃寺に追い込むのが最も有効な手段でしょう」 「経営者が欲しいのなら、お兄ちゃんを誘えば良いじゃない。浄土真宗は兼職でも問題ないし、長男なんだから」 「天然の翔平に、マネジメントなんてできるわけがないでしょう――」  それについては反論の余地がない。お兄ちゃんは誰よりも純真な心を持っているけど、商才とは無縁だ。 「――翔平は父親にそっくり。でも霊子は私の遺伝子を受け継いでいる。長男とか長女とか、そんな男尊女卑で事業を承継する時代じゃないわ。誰が相応しいか、その実力で判断するべきでしょう」 「だったら高杉さんを指名すれば良いでしょ。現時点で汚れ仕事も引き受けてくれる、立派な懐刀じゃない」 「うちの会社は女性向けのコスメを取り扱っているのよ。その決定には、女性ならではのセンスが求められるわ。高杉にはCOOとして執行を任せるつもりよ。でも決断を下すのはあくまで女性感覚を持っている経営者。その最有力候補があなたなのよ、霊子」 「そんなことで大往寺を追い詰めるなんて、勝手過ぎるよ……」 「何を言っているの。エルモッソには千人近い従業員がいて、その稼ぎで家族が養われている。さらに取引先も入れたら何万人という人生を左右しているのよ」 「自分の家族はどうなのよ!」  私は思わず声を荒げた。感情のコントロールが効かなくなっていた。 「何万人という他人のために、自分の娘の気持ちは無視するわけ? 私の人生は私が決めるんだから!」  全身で抗っているのに、お母さんは「甘いわね」と意に介さない。 「会社の命運次第では、多くの人が路頭に迷うのよ。それがどれほどの重圧か、あなたにわかるかしら」 「知りたくもないよ、会社のためなら娘を罠に嵌めて、自分の意のままに操ろうとする母親の気持ちなんて」 「だったらあなたは、エルモッソの関係者やその家族が転落した人生を送っても、平気でいられると言うのかしら」  私は思わず笑ってしまった。もちろん、呆れ顔で。 「お母さんはいつもそうやって、相手に責任を転嫁してプレッシャーをかける。他人の気持ちなんてこれっぽっちも考えず、自分の価値観を押し付ける。自己の利益が最優先なんだよね――」  私はお母さんをキツく睨みつけた。 「――確かにうつつを抜かした私がバカだった。イケメンに声を掛けられて好い気になって、お世辞を真に受けて、海外留学や経営学についてその気になって。次のお出掛けも楽しみにしていた。全部仕組まれた芝居だっていうのに気づかずに、ホント、オメデタイ女だよ」  私は涙を堪えて下唇を噛んだ。震える声をそのままに、お母さんにぶつける。 「そんな私にも心はあるんだよ! 傷つく心があるんだよ! 子どもは親の言う通りに動くアバターじゃない! お母さんのやったことはサイテーだよ!」   私はその場を駆け出した。お兄ちゃんが「霊子!」と呼び掛けたのが聞こえたけれど、この場にいたくない私は、止まることなくホテルを飛び出した。         9 『黒札を下さい……』  消え入る声で幸子は要求した。大往寺の縁側で、閻魔は墓地を見つめたまま応じる。 『それでいいのか』 『私がやったことはとても許されることではありません。地獄行きでも足りないくらいです……』  閻魔は横目で幸子を見た。そのやつれた姿はとても演技には見えない。 『最後に言い残したことはないか』 『……ありません』 『では裁きを言い渡す――』  閻魔は一枚の札を取り出した。 『――南野幸子、お前を地獄行きとする』 「……はい」  幸子は差し出された札を弱々しい手つきで受け取った。視点の定まらない目でそれをぼんやり眺めていたが、やがてその色に違和感を覚える。 『……これは黒札でしょうか? 少し淡いように感じるのですが』 『それは「灰札」だ。地獄行きではあるが、執行猶予を付ける時に渡す――』  閻魔は幸子を見た。それはとても深い瞳だった。 『――お前にはもう一度、八十年の人生を歩んでもらう。つつがなく終えることができたなら白札を渡すが、問題を起こせば即、地獄へ落ちて貰う』  幸子は小さく首を振った。 『甘やかさないで下さい。私には人生をやり直す資格なんてありません』 『勘違いするな。これはむしろ試練だ。地獄へ落とせば、お前はそれで罪を償った気になれるだろう。それが本当に罪滅ぼしと言えるのか、甚だ疑問なんだよ』  幸子はハッと目を見開いた。 『――生きて詫び続けろ、そういうことですか』 『そうだ。人生は時に厳しく、時に切ない。自ら死にたいと思うくらいにな』  実際に自ら胸を貫いている幸子にとって、その言葉は重いものだった。 『苦難を乗り越えて最後まで歩むことの方が、今のお前には辛いだろう。お前が流した悔恨の涙は本物だった。その罪を背負ったまま、生きるんだ』  地獄に落とすことで、罪を簡単には清算させない。それが閻魔なりの厳しさであり、優しさでもあった。幸子は自然と零れ出した涙を拭う。 『そのお言葉、胸に刻んで生きて参ります』 『それで良い』 『担当の閻魔様があなたで良かった。深く感謝申し上げます』 『恩を感じる必要はない。俺は自分の役割を果たしているだけだ』  不愛想ながらどこか温もりを感じる閻魔。幸子は最後に深く頭を下げてから、札を切り取った。やがて雨雲のような霧が彼女を包み、そして消えて行った。 『一つ片付いたな』  閻魔はいつもの通り、涅槃仏の姿で横になった。その時、玄関が激しく開かれる音が届いた。 『寺の小娘が帰ってきたのか。だいぶ荒れているようだが』  閻魔はそのままの姿で、霊子が来るのを待った。  今の私はきっと、酷い顔をしているだろう。鏡を見るまでもなく、それがわかる。  こんな惨めな姿、誰にも見られたくはなかった。だから真っ直ぐ洗面所へ向かって顔を洗おうとしたのに、途中の縁側で閻魔が寝転がっていた。 「い、いたんだ」 『ああ』  私は泣き顔を誤魔化すため、話を振った。 「さ、幸子さんは?」 『すでに裁いた。もういない』 「えっ……判決はどうなったの?」 『地獄行きだ』 「そ、そんな……」 『執行猶予が付いている。もう一度人生を歩み、何事もなければ白札を渡す。本人も裁きには納得している』  今なら幸子さんの気持ちが痛いほどわかる。男の人に騙される切ない気持ち。そう言えば、お兄ちゃんに霊子も不倫するかもしれないって言われた。あの時の私は騙されるほど間抜けではないなんて強がった。その結果がこの有様。 「私……何の役にも立てなかった」 『お前自身、色々と立て込んでいたんだろう。南野幸子も別に恨んではいない』 「そうだけど……」  本当に情けない自分。勝手に浮かれて、勝手にその気になって、勝手に落ち込んで。そんな私の変化を感じ取ったのか、閻魔が訊ねて来る。 『何があったんだ』 「べ、別に、なんでもない」  慌てて誤魔化すと、閻魔は体を起こした。 『俺は誰だ?』 「閻魔でしょ? 自分が誰かもわからなくなっちゃったわけ?」 『閻魔に嘘をつくと、どうなる?』 「……舌を抜かれる」 『もう一度訊いてやる。何があったんだ』  閻魔はギロッと私を睨んだ。でも不思議と恐怖は感じなかった。むしろ縋りたいほどの力強さを感じた。  私は一連の出来事を掻い摘んで話した。閻魔は最後まで黙って聞いてくれた。 「――お父さんの忠告が正しかった。私は男を見る目がないんだね」  力なく自虐的に笑うと、玄関の扉が開く音がした。お兄ちゃんが戻って来たらしい。閻魔は構わず『その神崎とかいう野郎は、女を傷つけるような真似をしたわけか』と舌打ちした。 「嫌いなんだっけ、女性を傷つける男の人が」 『ああ。金に釣られて女を傷つけるなんざ男の風上にも置けねえ。そのクソ野郎が死んだら地獄に落としてやる』 「閻魔って沢山いるんでしょ? あなたが彼の担当をするって、もう決まっているの?」 『閻魔帳に書いてやる。ここに残した記録は共有されるからな、誰が担当しても地獄行きを命じることになる』  実際に記入を始める閻魔を見て、私は不謹慎ながら、少し嬉しくなった。 「血も涙もないと思っていたけど、結構優しいんだね」 『大したことではない。単に口煩いガサツな女の心を踏みにじったクズに、地獄行きの黒札を渡すだけだ』 「ちょっと! 気遣う振りをして私を罵倒しているじゃない! こういう時は慰めの言葉を掛けるべきでしょ!」 『心優しい閻魔なんて、気持ちが悪いだろ』  相変わらず不愛想な閻魔。何なのよまったく。私が声を荒げたから、帰宅したお兄ちゃんが心配して縁側に顔を出した。 「何かあったの?」 「閻魔が私の悪口を言ったから、怒っただけ」 「え? ここに閻魔さんがいるの?」 「うん、ちょっと前からこの縁側に入り浸っているんだよ。神崎龍太を地獄行きにしてくれるんだって」 「へー、仇を討ってくれるなんて、優しい閻魔さんなんだね」 「私もそう思ったけど、全然違った。ただの嫌な奴」  ベーッと舌を出す私。それを見てお兄ちゃんが笑う。 「どんなことを言われたのかは知らないけれど、閻魔さんのおかげでいつもの霊子に戻って良かったよ」 「えっ……」  私は目を見開いた。驚きを隠せずに閻魔を見る。 「……いつもの勝気な私に戻すため、わざと悪く言ったの?」  閻魔は『フンッ』と鼻を鳴らした。 『別に。思ったことを口にしたまでだ』  そう言ってまた、涅槃像の姿で横になりながら、閻魔は少しだけ笑った。初めて見た閻魔の笑顔は、まるで少年のように屈託がなかった。 『れ、霊子ちゃん、大丈夫かい』  お父さんも戻って来た。心配そうに私を見つめている。 「お父さんの言うことが正しかったね。ゴメン、無下にしちゃって」 『大丈夫。冷たくあしらわれても、お父さんM体質だから』  ……そんなこと聞いてないよ。娘に向かってなにカミングアウトしてんの。 『これからもお父さんが的確なアドバイスを送るからね!』  意気揚々とお父さんは言うけれど、その『これから』は、いつまでも続かない。 「……お父さんも、近々裁かれるんでしょ」 『うん……まあ、そうだね』 「お兄ちゃんはもう、大往寺の新しい住職として、お父さんのいない生活を始めている。でもお父さんが見える私は、今でも心の整理がつかないまま、宙ぶらりんな状態を続けている。これはやっぱり、良くないよ――」  私は前向きに提案した。 「――いつまでも甘えていられないし、お父さんが浮遊していたら自立心も芽生えない。何を言われても今回みたいに反発しちゃうし、正しいモノを見抜く判断力を養うためには、自力をつけないと」  お父さんは少し寂しそうに俯いた。 『そうだね。霊子ちゃんと離れるのは寂しいけれど、いつまでも続けていられないし、どこかで区切りをつけないとね』  私は頷いて、閻魔に視線を送った。 「お父さんの裁き、近々して貰えない?」 『良いだろう、この場でしてやる』  私とお父さんは目を丸くした。 「今なの?」 『ちょ、いくらなんでも早過ぎますよ』 『裁いて欲しいと言ったのはお前らだろう』 「そうだけど、まだ心の準備ができていないって」 『お父さん、もう緊張で心臓がバクバクだよ!』  ――心拍数がある幽霊って怖いんだけど。狼狽する私たちに構わず閻魔は立ち上がった。 『心の準備とか言っていると、いつまでたっても腹が決まらない。ここは強制的に裁くべきだ』 「そ、それも一理あるね。お父さん、覚悟は良い?」 『う、うん。白札を受け取る準備はできているよ』  勝手に判決を出さないで。閻魔は持っている閻魔帳に一瞥をくれると、静かに告げた。 『では裁きを申し伝える――』  私とお父さんは固唾を飲んで次の言葉を待った。閻魔は交互に私たちを見ると、判決を申し渡す。 『――大往寺権太、お前を「地獄行き」とする』
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!