第1話 父と娘

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第1話 父と娘

         1 「霊子、気を落とさずにね」 「そうだよ。亡くなったお父さんもきっと、霊子には元気でいて欲しいと思っているから」  弔問に訪れた友人たちは、口々にそう言って私を励ましてくれた。それに対して、私は苦笑いで応じる。 「うん……ありがとう」 『いやあ、霊子ちゃんの友達はみんな優しいねえ。お父さんの方が泣けてくるよ』 「うるさい、黙って」  私が反射的にツッコむと、友人たちは怪訝な表情を浮かべた。 「えっ……急にどうしたの?」 「べ、別になんでもない。今日は来てくれてありがとう」 「あ、うん、それじゃ、落ち着いたらまた大学でね」  挙動不審な私を尻目に、みんな首を傾げながら帰って行く。ホッと胸を撫で下ろしていると、背後からまたお父さんの声がする。 『霊子ちゃん、実の父親に向かって『うるさい』は無いんじゃないのかい。お父さん、悲しくて涙が出ちゃう』 「私と友達の会話に、死んだ人間が勝手に出しゃばって来るから注意しただけでしょ」 『そんな冷たいことを言わないでよ。今日はお父さんが主役でしょ?』  私は「はあ?」と言いながら、眉を顰めた。 「確かにお父さんの寺葬ではあるけれど、亡くなった人が主役のワンマンライブじゃないのよ」 『それでも、翔平くんと霊子ちゃんが頑張って執り行ってくれているんだからさ、サービスしないと』  今夜は寝かせないよ、そう言いながらカラオケの十八番をアカペラで歌い始めた。こんなに陽気な死人は初めてだ。しかも私の父親ときている。  郊外にある寂れた浄土真宗本願寺派の寺、大往寺(だいおうじ)。住職だった父、大往寺権太(だいおうじごんた)の娘として生まれた私は、なぜか子供の頃から霊が見え、その声を聞き取ることができる。この特異体質は遺伝でも、生まれた環境によるものでもない。なぜなら五歳年上のお兄ちゃんには見えていないし、聞こえもしない。  私だけに備わった、不思議な霊能力。それは先日、脳溢血で呆気なく死んだ私のお父さんに対しても発揮された。  みんな急に父親を亡くした私が、悲しんでいると思っている。でも、私に喪失感なんてない。なぜなら今も、目障りなくらい私の周りを浮遊しているから。 「なんで付いて来るの! どっか行ってよ!」 『おいおい霊子ちゃん、存命中に女房には逃げられ、ご近所さんからも煙たがられていたお父さんの居場所は、この寺以外にないでしょ』  死んでまで情けないことを言わないで欲しいんだけど。 「遠慮せずに『針の山』でも『血の池』でも、行けば良いじゃない」 『なんで地獄限定なんだい? 天国へ行けるよう、霊子ちゃんには神に祈って欲しいなあ』 「いつキリスト教に寝返ったのよ」 『寝返るだなんて、人聞きの悪いことを言わないでくれよ。お父さんは最初から、隠れキリシタンだよ』 「もっとタチが悪いでしょうが。寺の住職が聞いて呆れるわ」 『冗談だよ。お父さんが死んで寂しがっている霊子ちゃんを、励まそうとしただけ』 「それは『ありがた迷惑』を通り越して、単なる『迷惑迷惑』なんですけど」  私はプイッと顔を背け、縁側に向かって歩き出した。ずっと弔問客の相手をしていたから疲労が溜まっている。少し一人になって、ゆっくりしたい。  墓地が一望できる縁側。寺ならではの重々しい景観だけど、ここなら落ち着けるはず。そう思っていたら、すでに先客がいた。黒ずくめの作務衣を着た二十代後半の男が、墓の方を向きながら涅槃仏(ねはんぶつ)の姿で横になっている。 「だ、誰!」  思わず叫ぶと、男は振り返った。清潔感のある短い髪に、整った精悍(せいかん)なマスクという、格闘家タイプのイケメンだ。見た目は洗練されているけれど、ガムを噛んでいるその態度は太々しい。 「どうしたんだ、霊子」  私の叫び声を聞いて、お兄ちゃんが駆けつけて来た。こちらも背の高いモデル系のイケメンで、昔から女の子にモテモテだけど、中身がどうしようもない天然という、残念な一面を持っている。 「縁側に不審な男がいるの!」  私が指差す方向をなぞるように見た後、お兄ちゃんは首を傾げた。 「どこに?」 「すぐそこ、黒い作務衣の男がいるでしょ」 「うーん、誰もいないけどなあ。また霊子にだけ見える幽霊じゃない?」  喪主としてやることが多いお兄ちゃんは、私の訴えを軽く流してどこかへ行ってしまった。どうやら本当に見えないらしい。  でもこの男は幽霊ではない。霊はみんな体の縁が砂金を散りばめたように光っていて、微かに透けて見える。それで幽霊だと見分けることができるけど、この男には霊の特徴が何一つ見られない。 『この俺様に向かって、「誰」とは失礼な女だな』  男は私を睨めつけてきた。迫力のある形相に思わず半歩下がると、私の後を付いて来たお父さんが、暢気な声で男に言う。 『子どもの頃から気が強い娘なんですよ。そこがまた、可愛いんです』 「お父さん、この男と知り合いなの?」 『うん、紹介するよ。こちら閻魔さん』  まるで友達がカレシを紹介するような軽いテンションで言われたため、ピンと来なかった。 「閻魔って、あの閻魔?」 『そう、メンマじゃないよ』  ツッコミを入れて欲しそうな顔で私を見つめて来たから、思いっきりお父さんを無視する。改めて男を見たけど、誰もが抱く閻魔のイメージとは掛け離れていて、しっくり来ない。 『この閻魔さんが、お父さんの裁きを担当するんだよ』 「なにそれ、閻魔は一人じゃないの?」 『裁判官みたいに、何人もいるらしいよ。お父さんみたいな歯牙にも掛けない小物は、若手の初級閻魔さんが一人で裁くんだって』  簡易裁判みたいなものらしいよ、なんてニコニコ顔で言っているけど、自分自身を小物呼ばわりして悲しくないの? 私はウンザリしながら閻魔に申し出た。 「じゃあ、さっさとお父さんを裁いて地獄へ落としてよ」 『おいおい、なんてことを言い出すんだい、霊子ちゃん。この閻魔さんに冗談は通じないんだよ』 「私も冗談で言っていないし」 『そんなこと言わないでよ~、お父さんの将来が懸かっているんだからさ』  生きている時の将来は考えなかったくせに。おかげで私とお兄ちゃんは凄い苦労をさせられた。その思いから、私は意地になった。 「ヤダ。この閻魔だって態度悪いし」 『なんだと?』  閻魔がギロリと睨んだ。お父さんが住職の本領を発揮するかのように拝み倒す。 『すみませ~ん。閻魔さんがあまりにもイケメンで、娘はつい強気に出ているだけなんですよ。ほら、小学生の男子が、好きな女の子に冷たくしちゃうことってあるでしょう。あれですよ、あれ』 「違うから。そもそもなんで閻魔のご機嫌を取っているの」  私が訊くと、お父さんは真顔で答えた。 『決まっているじゃないか。お父さんは極楽浄土でゴロゴロしながら、堕落した生活を満喫したいからだよ』  死んでまで情けない男だ。溜息をついていると、閻魔が言った。 『裁きは最長でも四十九日で結審するが、今すぐ地獄行きに決めてやっても良いんだぜ』 『やめてくださいよ~、そんなプレッシャーをかけるの。もう、閻魔さんったら意地悪なんだからっ』  お父さんはペースト状になるくらいゴマを擦っている。親を選べないことを何度恨んだことか。 『まあいい。お前より先に裁かなければならない霊がいるからな』  閻魔が親指で背後を指すと、そこにはお父さんと同年代の冴えない中年男が立っていた。先月交通事故で亡くなった、門徒の山村仁志(やまむらひとし)さんだ。お父さんは仲間を見つけたように目を輝かせた。 『これはこれは、山村さん。お元気ですか』  もう死んでいるって。山村さんは苦笑いを浮かべながらペコペコっと頭を下げた。 『私も大往寺さんと同様、この閻魔さんが裁きの担当になっているんですが、厳しいお言葉をいただいておりましてね。なんでも地獄行きになる恐れがあるということで』 『あらら、何をやらかしたんです?』 『私には高校生の一人娘がいるんですが、死ぬ一ヶ月ほど前から無視をされていたんです。最も身近に存在している家族に嫌われるような人間には、重い判決が下されるらしくて』 『一ヶ月も口をきいてくれないなんて、辛いですねえ。娘のパンツでも頭に被りましたか』  ……なぜその疑いが真っ先に出てくるの? その変態プレイ、まさかあなたが私の下着でやっているんじゃないでしょうね、お父さん。 『嫌われた理由がわからないんですよ。今でも嫌っているようで、私が死んで清々した、なんてことまで口走っているようで』 「娘さんの気持ち、わかるわ~」  私が言うと、お父さんはニッコリと笑った。 『本当に霊子ちゃんは、小学生男子みたいだねえ』 「愛情の裏返しではなく、本心で言っているから」 『わかるよ、イヤよイヤよも好きのうちってね』  本当にイヤになってきた。私はお父さんの寝言を聞き流して山村さんに訊ねる。 「このままでは地獄行きになるんですよね?」 『良くても、最も重い更生プログラムが課せられるとかで』 「その更生プログラムってなに?」  私は閻魔に質問したのに、なぜかお父さんがしゃしゃり出てきた。 『裁きには極楽浄土へ行ける『白札』と、地獄行きの『黒札』の二種類あるんだけど、白札でも無条件に極楽へ行けるわけではないんだ。みんな大なり小なりの悪事を働いているからね。そこで更生プログラムを受けて、悪行を浄化してから極楽へ行くことになるんだよ』 「身を清めるってこと?」 『そんな感じ。プログラムは悪行に合わせて十段階に分かれているんだ。山村さんは地獄行きか、もしくは最も重い十番目のプログラムになる恐れがある』 「その更生プログラムって、どんなものなの?」  地獄の一歩手前ということは、聞くのもおぞましい相当な苦行が待っているはず。えぐい話が苦手な私は思わす顔を顰めたけど、お父さんはあっさりと言った。 『山村さんの場合、『カンチョー百連発』だよ』 「はあ?」  私のことを散々小学生男子だとバカにしておきながら、更生プログラムの方がよっぽどガキではないか。 「それくらい、受けたらいいじゃない」  私が呆れながら言うと、お父さんは目力を込めて反論した。 『山村さんは痔なんだよ。その肛門でカンチョーを百発も受けてごらん。それこそ本当の地獄だよ!』  知らんがな。山村さんは照れ笑いを浮かべながら「お恥ずかしい話ですが、切れ痔なんですよ」と頭を掻いた。なんなの、このカミングアウト。 『そもそも娘の結衣は誤解しているだけなんです。そんな恨まれるようなこと、私はしていませんから!』  山村さんは必死の形相で訴えてきた。別に私が裁きを下すわけではないんだから閻魔に主張しなよと思ったけど、続けて意外なことを言い出した。 『――ですから是非、結衣の誤解を解いて欲しいんです』 「はい?」 『行き違いが解け、私への恨みが晴れたなら、もっと軽い更生プログラムの裁きが出るんです。だから、お願いします』 「いやいや、なんで僧侶でもない大学一年生の私が、そんな相談事を受けなければならないんですか」  私が「無理ですよ」と両手を振ると、お父さんが諭すような口調で言ってくる。 『霊が見えて、その声も聞き取れる。それを生きている人に伝えることも。この世とあの世の架け橋になれるのは、霊子ちゃんしかいないでしょ』 「それはまあ、そうだけど……そもそも生前に娘さんの誤解を解けなかったわけですよね?」  山村さんに確認すると、情けない表情で頷いた。 『私が話しかけても、結衣は無視するばかりでしたから。でも同世代の女性同士なら、話しやすいと思います。是非、お願いします!』  山村さんは切迫した表情で私に縋ってくる。門徒だけに無下にすることもできない。面倒なことに巻き込まれたなと悩んでいると、お父さんが口を挟んだ。 『本当は山村さん、自分の裁きなんて二の次なんだよ』 「どういうこと?」 『完全にこの世から去る前に、せめて誤解だけでも解いておきたいんだ。最愛の娘に恨まれたまま成仏するなんて、耐えられないからね。ずっと娘の成長を見守ってきた父親による、切なる願いなんだよ』  山村さんを見ると、今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。自分はもう、この世を離れている。でも娘の中に残っている父親の姿は、良い思い出として心の片隅に置いて欲しい。そんな当たり前な感情を、私はつい見過ごしていた……だって、私のお父さんはこんなだから。 「――わかりました。結衣ちゃんに会って父親を嫌っている理由、訊き出してみます」  私が応じると、山村さんは「ありがとうございます」と何度も頭を下げながら目尻を拭った。私は凛として閻魔に向き直る。 「ちゃんと誤解を解いてみせるから、山村さんへの裁き、ちょっと待ってよ」  閻魔は「フンッ」と鼻を鳴らした後、また偉そうな態度で横になった。 『この俺様に向かって異議申し立てをするとは、なかなか骨のある女だ。本当は今すぐにでも裁きを下そうと思っていたんだが良いだろう、その度胸に免じて今日一杯待ってやる。俺が判断を変えるような状況を作り出してみろ』 「言われるまでもなく、やってみせるから」 『ヤダ霊子ちゃん、カッコイイ』 「お父さんは黙っていて」  鼻息荒く宣言した私は、お兄ちゃんに「ちょっと出掛けてくる」と伝えると、キョトンとした顔でお兄ちゃんは訊いてくる。 「父さんの寺葬なのに?」 「もう誰もいないし、後から遅れて来る弔問客もいないでしょ」 「それもそうだね。父さんの人望は薄いから」  それは言わないであげて。横目で見ると、案の定お父さんが両手の人差し指をツンツン合わせながらイジけている。  他に身内がいない私たち親子。弔問客は教務所の使徒や数少ない門徒を除けば、私とお兄ちゃんの友人ばかりで、あとはご近所さんが数名、面倒臭そうに顔を出しただけ。娘の私から見ても、呆れるほどテキトー男のお父さん。自分が蒔いた種ではあるけど、ちょっと可哀想に思えてくる。  そんな嫌われ者のお父さんだからこそ、他人事に思えないのかもしれない。娘に嫌われている、山村さんの心の痛みが。 「用事を済ませたら、すぐに戻るから」  そう言い残すと、私は急ぎ山村さんの自宅へ向かった。         2 『狭い家ですが、どうぞ』  そう私たちを招きながら、幽霊の山村さんは自宅の門扉をすり抜けて庭に入った。お父さんも『それでは遠慮なく』と後に続く。 『この一軒家は、山村さんが購入した物件でしたか?』 『うちの両親が建てたものですよ。父は早くに他界したので、長い間私と母の二人暮らしでしたが、女房が嫁いでくれて、娘が生まれてからは三世代で暮らしていました』 『奥さんはよく、姑との暮らしを受け入れましたねえ』 『キャリアウーマンですから、むしろ家のことを引き受けてくれる義母の存在を、ありがたがっていました。タダで雇っている家政婦くらいに思っていたようで。その母も去年亡くなりましたが、私よりも女房の方が「ハウス・クリーニングを頼む出費が増えるわ」なんて、嘆き悲しんでいたくらいですよ』 『たくましい奥さんですなあ』 『思い返してみると、ずっと尻に敷かれっぱなしでした』 『私の元女房も似たようなタイプでしたから、よ~くわかりますよ。ホント、今時の女性はお強い』 『歯向かおうものなら、それこそ裁きの前に地獄行きですよ』 『閻魔よりも、鬼嫁の方が怖いですな』  ワッハッハッ、なんてオッサン二人で勝手に盛り上がるの止めてくれる? 「ちょっと、私はどうなるのよ」  敷地の境界線で立っていると、振り返ったお父さんがキョトンとした顔で言う。 『霊子ちゃんも入ってくればいいじゃない』 「生きている私が勝手に踏み込んだら、不法侵入になるでしょ」 『じゃあ、霊子ちゃんも死ぬ?』  あなた自分の娘に対して何を口走ってんの? 『門扉の横にあるベルを鳴らして下さい。この時間なら部活を終えた娘が帰っていますから、開けてくれると思います』  最初からそれを言いなさいよ。山村さんの指示通り、私は玄関のベルを押した。すぐにインターホンから若い女性の気怠い声が届く。 「はい、どなたですか」 「大往寺の霊子です」 「ああ、お寺の。何かご用ですか」 「突然押しかけて申し訳ないんだけど、ちょっと結衣ちゃんと話がしたいんだ」 「私と? なんで?」 「亡きお父さんのことで――」  言い終わらないうちに、結衣ちゃんが言葉を被せてきた。 「あんな奴、どうでもいいから」  酷くトゲのある口調だった。山村さんを見ると、切ない八の字眉毛で動揺している。 「なんでそんなに嫌っているの?」 「別に。お寺の人には関係ないことでしょ」  その通りなんだけど、目の前であなたのお父さんがイジけているのを見ていたら、放ってはおけないんだよ。 「成仏できずに結衣ちゃんの周りをウロウロされても、迷惑じゃない?」  女子はオカルト好きだ。そこを突いて提案すると、結衣ちゃんは「確かにキモいね」と同意し、「話だけなら」と玄関を開いてくれた。まだ学校から帰って間もないのか、制服姿のままで出迎えてくれた彼女は、とても愛らしく見える。逆に結衣ちゃんは、私を見て目を丸くした。 「葬式帰りで直接ここに?」  自分の服装を見ると、喪服姿のままであることに気づいた。 「さっき終わったところなんだ」 「親戚か友達が亡くなられたの?」 「ううん、私のお父さん」 「えっ……」  結衣ちゃんは絶句した。そりゃそうだよね、実父でもある住職の寺葬当日に、門徒の家に来ているとか、尋常じゃないもの。 「生前の山村さんとの約束で、どうしても今日中に確認したいことがあってね。門徒を蔑ろにするようでは、寺の評判も下がっちゃうし」  とっさについた嘘だったけど、結衣は首を傾げながら「狭い家だけど、どうぞ」と受け入れてくれた。親子で同じ招き方をしている。本人は嫌がっても、血は争えない。  山村家の見た目は昔ながらの和風建築だけど、室内はオシャレにリフォームされていた。  ほとんどの部屋がフローフィングに改修されている中、唯一の和室に通された。そこには仏壇が置かれている。 「この部屋は元々、おばあちゃんの部屋だったんだ。ソファよりも、座椅子でゴロゴロするのが好きだった」  その時の情景を思い出しているのか、結衣ちゃんは懐かしそうに目を細めた。根は優しそうな子に見える。だからこそ、父親を恨んでいる理由がわからない。  結衣ちゃんが祖母の遺影に手を伸ばし、その角度を直していると、彼女のネックレスが揺れた。 「可愛いアクセサリーだね」  まずは褒めて機嫌を良くして貰おうと、お世辞を言う。結衣ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。 「カレシからのプレゼントなんだ。付き合って一年の記念にって」  安物なんだけど、そう言いながらも、結衣ちゃんの表情は綻んでいた。 「付き合い始めた日なんて、覚えていないと思っていたんだ。それだけに、嬉しかった。やっぱり女子って、なんだかんだ言いながら記念日に弱いでしょ?」  同意を求められ、私は素直に頷いた。何気なく横目で山村さんを見ると、情けない表情を浮かべている。 『てっきり別れたと思っていたのに、まだあんな中身のない男と付き合っていたのか』  どうやらお父さん世代が嫌う、チャラチャラした男子らしい。でもうちのお父さんは意外なことを言う。 『そんなに悪い彼氏ではないと思いますよ』 『いやいや、仲間と馬鹿騒ぎをすることしか能のない、ろくでもない男なんですよ』 『少なくとも女性を見る目は確かでしょう。なにせ数多(あまた)いる女性の中から、山村家のお嬢さんを選ぶくらいですから』  山村さんは意表を突かれた顔を見せた後、『いや、まあ、そこは褒めてあげても良いですけどね』と目尻を下げた。まったく、色々と面倒なオッサンだ。  結衣ちゃんの機嫌が良くなっていることを見て取った私は、いよいよ本題に入った。 「生前のお父さんと、何かあったの?」  訊くと途端に表情を曇らせた。軽く舌打ちさえする。 「あんな薄情な老いぼれ、父親じゃないから」 『お、老いぼれだなんて……』  山村さんが情けない声で嘆いた。お父さんがそっと寄り添う。 『手厳しい言葉ですねえ。私が娘から本気で言われたら、泣いちゃいますよ』  それを聞いた私が此見よがしに「老いぼれ」と言うと、お父さんは泣くどころかニッコリと笑った。 『霊子ちゃんはつくづく、小学生男子だねえ』  暖簾に腕押し……この人には何を言っても響かない。 「霊子さんの父親も、どうしようもない人だったの?」  私の老いぼれ発言が聞こえた結衣ちゃんが訊ねて来た。私は「うーん」と首を傾げる。 「うちのお父さんは老いぼれというより……人間失格だね」 「うわっ、強烈」  結衣ちゃんが引くほどのダメ出しなのに、言われた本人はケロッとしている。 『人間の枠組みでは収まりきらない、規格外の存在ということだね。いやはや、照れるなあ』  究極のポジティブシンキング……この前向きな姿勢だけは仏を凌駕している。私はお父さんを白眼視しながら、結衣ちゃんへの質問を再開する。 「お父さんを嫌う原因はなに?」 「お母さんに対する態度が、ずっと情けなかったんだ。男らしくないと言うか、器が小さいと言うか――」  確かに、山村さんを見ていて背中の大きいお父さんといった感じはしない。 「――お母さんはキャリアウーマンでね、仕事をバリバリ頑張っているんだ。それに対して、お父さんは役場に勤める小役人。万年係長が関の山って感じで。そんな自分と比べられるのが嫌だったのか、何かにつけてお父さんは『そんなに仕事を頑張らなくてもいいじゃないか』と、ネガティブなことばかり口にしていた」 「男性社会で戦っている妻を支えるどころか、足を引っ張るようなことを言っていたんだね」 「そうそう。きっと自分よりも稼ぐ上に、社会的地位も高いお母さんに対して嫉妬していたんだよ。家族なんだから応援すべきなのに、すぐにグチグチと言い出す。きっと男の安いプライドが許さなかったんだろうけど。ホント、ダサイ男だった」  そんな情けない父親の姿が、ずっと結衣ちゃんの中で積み上がっていた。そこにある事件が起こり、臨界点を超えた。 「お父さんが死ぬ一ヶ月くらい前、お母さんは取締役にまで出世したんだよ。上場会社で四十代、それも女性で。凄くない?」 「同じ女性として、尊敬しちゃう」 「でしょ。他に出世した人たちと一緒に、会社が就任パーティーを開いてくれたんだ。当然、家族で参加するべきじゃない?」 「もちろんだよ――」  言いながら、まさかと思って訊ねる。 「――結衣ちゃんのお父さん、参加しなかったとかじゃないよね?」 「そのまさかだよ」 「ええっ!」  私が「信じられない」と言いながら見ると、山村さんは「あれか……」と呟いて目を伏せた。結衣ちゃんはさらに怒りを募らせていく。 「そりゃ取締役の妻に小役人の夫だよ、心無い人がその格差に陰口や嘲笑を浮かべることもあると思う。それでも妻の晴れ舞台には、夫が付き添うのが当然じゃない?」 「当たり前すぎて、他の選択肢が浮かばないくらいだよ」 「しかもパーティーから帰って来たら、お父さんは何をやっていたと思う?」 「呑気に晩御飯の支度とか?」  結衣ちゃんは「それならまだ許せるけど」と、鼻で笑ってから答えを述べた。 「テレビゲームをやっていたの」 「はあ?」 「信じられないでしょ? しかもファミコンミニの『マリオブラザーズ』だよ。そんな古いソフト、パーティーの日に欠席してでもやる必要ある?」 「なんでそんなことを……」 「当てつけにしても酷くない?」 「皮肉にも限度があるよね」 「ホント、閻魔様がいるのなら地獄に落として欲しいよ」  いるんだな、これが。そして結衣ちゃんの要望通り、地獄にリーチが掛かっているんだよ。私はそんな山村さんを睨みつけた。 「もはやカンチョー百回でも足りないくらい酷いよ」  裁きを軽くするためにやって来た私だったが、むしろ厳罰を望んでいる。山村さんは『違うんです、誤解なんです』と両手を振っているが、もはや弁明の余地はない。 「えっ、カンチョー百回でも足りないってなに?」  結衣ちゃんが怪訝な表情で訊ねて来た。私は慌てて言い訳する。 「ち、違う……キンチョー感が足りないって言ったの。夫としての緊張感」 「だよねー、ホント、どうしようもない人だったよ」  その後も結衣ちゃんは父親に対する怒りを発散していたけど、私の耳には何も届かなかった。居住まいを正した山村さんが、真剣な表情で打ち明けてくれたあの日の真相に、意識を奪われていたから。  妻が取締役に昇進したパーティー当日、欠席して古いゲームをやっていた理由、そして事あるごとに妻の仕事に対してネガティブな発言をしていた理由、言い逃れはできないと思っていたこれらの事実には、とても深い意味があった。 「――霊子さん、どうしたの?」 「え?」 「なんかボーとしちゃっているけど」 「ああ、あのね――」  私は無意識のうちに、真剣な顔つきになっていたんだと思う。向き合っている結衣ちゃんも表情を硬くした。 「――結衣ちゃん、お父さんは何も間違ったことをしていないんだよ」         3 「お父さんが間違っていないって、どういうこと?」  結衣ちゃんは眉間に深い皺を寄せて首を傾げた。私は山村さんから打ち明けられた真実を、ありのままに伝えていく。 「お父さんのお父さん、つまり結衣ちゃんのお爺ちゃんが早くに亡くなっていること、知っているよね」 「私が生まれるよりもずっと前に他界しているって聞いているけど」 「パーティーの日が、三十三回忌の命日だったの」 「えっ……」  思わぬ事実に、結衣ちゃんは目を丸くした。 「今となっては三十三回忌の法要を行うことは少なくなったけど、かつては三十三回忌まで親類を呼ぶことが多くて、弔い上げにすることもあったくらい重要な節目なの。お父さんは家族みんなで法要したかったけど、妻の晴れ舞台と重なってしまったから、遠慮したんだよ。その代わり、自分一人でも弔おうと、パーティーを欠席したの。両親が亡くなっている今、弔えるのはお父さん一人だったから」  御墓参りに来ている山村さんの姿を、私のお父さんが目撃していることを伝えると、それについては結衣ちゃんも受け入れた。 「でもゲームをやることはないでしょ。墓参りが終わったら、途中からでもパーティーに参加できたはず」 「商社勤めだったお爺ちゃんは、平日は夜遅く、休日も接待ゴルフで忙しい日々を送っていたの。そんな父と子が、僅かな時間ながら家族の団欒を楽しんだのが、ファミコンだったの」 「じゃあ、古いゲームをやっていたのは――」 「あれが思い出のゲームだったから」  私は結衣ちゃんに断りを入れてから、山村さんの指示通り押入れの襖を開け、中から一冊のアルバムを取り出した。そこに保管されている一枚の写真を結衣ちゃんに見せると、彼女は唖然とした。 「これって――」  そこには小学生時代のお父さんと、若き日のお爺ちゃんがコントローラーを握りながら写っていた。背景にあるブラウン管のテレビには、マリオブラザーズが表示されている。 「亡き父との思い出のゲームに浸る。あの日々のことを思い出しながら。これが何よりの供養だと考えたんだよ」  結衣ちゃんはマジマジと写真を見つめていた。何かを感じ取るように。 「――でも、お母さんの仕事にネガティブなことを言っていたのは事実なんだから、それは許せないことだから」  まるで認めたら負け、そんな意地を張っているように見えた。私は刺激しないよう、穏やかな声で諭す。 「この家を建てたお爺ちゃんは、家族を養うために益々働いた。時は高度経済成長期、働けど働けど仕事は減らない。そんな中、過労が祟ってお爺ちゃんは倒れ、そのまま亡くなってしまった。その姿と頑張る妻の姿が被ったんだよ」 「それじゃ、お父さんがネガティブなことを言っていたのは――」 「お爺ちゃんのように、過労を溜めて欲しくなかったから。妻に対して嫉妬していたのではなく、誰よりもその体を心配していたからだよ」  もう、結衣ちゃんの口から反論は続かなかった。その代わり、その瞳には涙が滲んでいる。 「私、すごく嫌なこと言った……ずっと無視していた……」  そう呟くと、人目も憚らず大粒の涙を流し始めた。肩を震わせ、全身で悲しみを発露している。 「何も知らなくて……ごめんなさい……お父さん……」  後悔と懺悔を震える声で漏らす。私はそっと声を掛けた。 「大丈夫。その思い、ちゃんとお父さんに伝わっているから」  現に山村さんは結衣ちゃんに寄り添って、娘の頭を優しく撫でていた。山村さん自身も涙を流しながら。  やっぱり血は争えないなと思う。その泣き顔が親子でそっくりだったから――         4 「――というわけで、地獄行きか、最も重い更生プログラムの裁きには、異議を申し立てるから」  寺に戻った私は、相変わらず縁側で寝っ転がっている閻魔に対し、仁王立ちで言い放った。閻魔は上半身を起こすと、持っていた革張りのシステム手帳を開く。どうやらそれが閻魔帳らしい。  ガムを噛みながらしばらく眺めると、『なるほどな』と呟いて閻魔は立ち上がった。ビクついた山村さんは肩を窄めながら、運命の時を待つ。 『――では裁きを言い渡す。山村仁志、お前は三番目の更生プログラムを適用した白札とする』  私たち三人の間で「おおっ」と歓喜の声が上がる。中でもお父さんが一番喜んだ。 『軽くなって良かったですな、山村さん』 『娘の信用も取り戻せて、もう心残りはありません。これも霊子さんのおかげです。ありがとう、本当にありがとう』  最初はどうなることかと思ったけれど、何度も頭を下げてくる山村さんを見ていたら、役に立てて良かったと思う。 「でも、大丈夫なんですか?」  訊くと山村さんはキョトンとした顔を見せた。 『なにがですか?』 「最も重い更生プログラム十番目でカンチョー百回ということは、三番目でも三十回は受けなければいけないことになりますよね?」  お父さんと山村さんは顔を見合わせた後、声に出して笑い始めた。 『霊子ちゃん、それは冗談に決まっているじゃない』 「ええっ! なんでそんな嘘をつくのよ!」 『本当の更生プログラムはそれなりに厳しい修行だから、それを知った霊子ちゃんがショックを受けるかもしれないでしょ。だからわざとカモフラージュしたの』  確かにあの時、私は聞くのもおぞましい苦行ではないかと懸念した。そんな私の表情を、お父さんと山村さんは読み取っていたのか。父親というのは、こうやってさりげなく子どもの様子を察しているのかもしれない。  それにしても、もう少しまともな嘘で誤魔化せなかったのだろうか―― 「まったく、下品なことばっかり言うんだから。無駄に信じちゃったじゃない!」 『逆に訊くけど、更生プログラムがカンチョーで、何が清められると思ったの?』  ……言われてみると、実にバカバカしい内容を真に受けたものだと我ながら呆れる。 『もう知らない! 二人とも早く消えてよ!』  私がプンスカすると、山村さんは申し訳なさそうにペコペコと頭を下げた。 『まさか本当に信じるとは思いもしませんで。あっ、でも切れ痔なのは本当ですから』  どういうフォローの仕方よ。むしろ聞きたくなかったよ、そんな確定情報。お父さんはなぜか微笑ましい表情で私を見つめている。 『霊子ちゃんは昔から、疑うことを知らないピュアな心を持っているからね。だからこそ、心配なんだよ』 「純粋だと褒めているつもり? むしろ世間知らずだってバカにされている気分なんだけど」 『親としてはハラハラするんだ。変な男に騙されないで欲しいからね』 「その心配はいりません。変な男に対しては、お父さんで免疫がついていますから」 『こりゃ一本取られた』  私たち親子のバカバカしいやり取りで笑った後、山村さんは静かに告げた。 『そろそろ成仏させて頂きます』  それを受けて、お父さんは居住まいを正した。 『大したお構いもしませんで』 『とんでもない。大往寺さん親子には感謝しかありません。この寺の門徒で、本当に良かった』  山村さんは満面の笑みを浮かべながら、札の一部をチケットのように千切った。やがて一条の光が山村さんを包み込む。 『一足お先に失礼します。極楽浄土でまた、お会いしましょう』  私はすぐに「無理でしょうね」と首を振った。 「お父さんは地獄に落とされるから」 『霊子ちゃ~ん、そんなこと言わないでおくれよ~』  微笑みながら深々と頭を下げた山村さんの姿が、ゆっくりと光に飲み込まれて行く。やがて溶けるようにその魂が消えると、あの世の入り口である光も散っていった。本人にとっては喜ばしい成仏のはずなのに、なぜか寂しさを覚える。 『良いことをしたね、霊子ちゃん』  お父さんに言われ、照れ隠しに「まあね」とだけ返す。 「あっ霊子、帰っていたんだ」  お兄ちゃんが縁側に顔を出した。イケメンはエプロン姿でも様になるから不思議だ。 「寺葬も粗方片付いたから、ちょっと遅い晩御飯にしようか」 「うん」  頷きながら、私は兄の頭に巻かれている布を凝視した。 「――ちょっとお兄ちゃん、頭に何を被っているの?」 「料理をするのに前髪が邪魔になったから、ヘアバンドを巻いたんだ。似合うかな?」  見覚えがあるそれに近づいてみる。間違いない、これは―― 「私のパンツじゃない!」 「えっ、そうなのか?」  お兄ちゃんは頭からそれを取ると、広げて見せた。紛うことなく私の青いパンツ。まさかお父さんではなく、お兄ちゃんが頭に被るとは…… 「道理でブカブカだと思ったんだ」 「私が太っているって言いたいの? サイテー!」 「ごめんごめん、ちょっとした勘違いなんだから、許しておくれよ」  そう言いながら、お兄ちゃんはまた私のパンツを頭に被ろうとした。 「ちょっと! なんでもう一度被るのよ!」 「え? まだ晩御飯の支度が終わっていないし――」 「別の何かで前髪をおさえなさいよ! このド天然!」 『相変わらず翔平君は面白いねえ』  ニヤニヤと笑っているけどお父さん、あなたの息子ですよ。この親にしてこの子ありですか…… 『随分と賑やかな寺だな』  閻魔が大往寺親子を見て言った。私は疲労から重い溜息を吐き出す。 「この寺で生まれ育った私でも、嫌になるくらいよ」 『案ずるな。いずれお前の親父にも裁きを下す。そうすれば多少は静かになるだろう』 「えっ……」  私が声を詰まらせると、閻魔は眉を顰めた。 『なんだ?』 「べ、別に。なんでもない」  私は惚けながらお父さんを見る。遅くとも四十九日でお父さんは私にも見えなくなる。当たり前のことなのに、それをあらためて考えた時、心の中で隙間風が通り抜けた。  そんな寂しさを感じたことは誰にも内緒にしておこう、そう思った。         ※  大往寺の正面に黒塗りのレクサスが停まっていた。寺から陽気な声が届くと、運転席に座っている秘書の高杉優斗(たかすぎゆうと)が首を傾げる。 「今日は住職だった大往寺権太さんの寺葬ですよね。まるでハロウィンパーティーのような騒ぎですが」  後部座席で足を組んでいる九条紀香(くじょうのりか)は鼻で笑った。 「この寺には、場を弁えるなんて一般常識は存在しないのよ。地域住民や門徒から愛想を尽かされるのも頷けるでしょ」  いつものことよ、そう紀香は呆れた溜息をついた。高杉は資料に目を通す。 「不甲斐ない父親のせいで、経済的にかなり困窮した暮らしを強いられてきたはずなのに、随分と明るい兄妹ですね」 「普通なら自棄になるところでしょうけど、父親の楽天的な遺伝子を受け継いだおかげで、苦労してもへこたれないのよ。雑草並みの精神力だわ」  褒め言葉とも悪口とも取れる言葉を吐きながら、紀香は嘲笑を浮かべた。高杉は資料を閉じ、助手席に置きながら訊ねる。 「長男である翔平さんが寺を継ぐようですが、どうなさるおつもりですか」  紀香は表情一つ変えずに言い切る。 「決まっているじゃない、大往寺を廃寺に追い込むのよ」  高杉はバックミラー越しに紀香を見た。その冷徹な瞳は紛うことなく本気の表れ。二十六歳の高杉にとって母親ほど歳が離れている紀香には、畏敬の念さえ抱く。 「そのための策は練ってあるわ。この寺が消えて無くなるのも、時間の問題」  紀香が経営するコスメ製造販売会社『エルモッソ』に入社してから四年、高杉はずっとこの女社長の傍らで、その剛腕を目の当たりにしてきた。そんな紀香に睨まれた以上、大往寺はあっという間に駆逐されてしまうだろう。 「あなたにも手伝ってもらうわよ、高杉」 「寺を潰すなんて、なんだか罰当たりな気がしますが」 「安心しなさい。ならず者だったテキトー住職のせいで、教務所にも呆れられるほど不謹慎な寺なのよ。大往寺の存在自体が罰当たりなんだから」  潰した方が世のためよ、まるで大往寺が浄土真宗の恥であるかのように、紀香は嫌悪感を吐き出す。 「承知いたしました。何なりと命じて下さい」  仰々しく頭を下げる高杉を見て満足げに頷いた紀香は、「車を出して頂戴」と短く命じながら、後部座席のドアウインドウを上げた。  それに合わせるようにして、レクサスはゆっくりと大往寺から遠ざかって行った。
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