第8章 - 10 years later - ウゴの正体

7/8
88人が本棚に入れています
本棚に追加
/98ページ
 イヴェットが寝た後、炊事場の窓から覗くと、隣家の一室にだけ小さく灯りが点いているのが見えた。ウゴが居座っている民家だ。  その晩は雲が厚くて月は見えなかった。暗い夜空からは今にも雨が落ちそうだ。  「待っている」と投げられた言葉を持て余して、サリーナは立ち尽くしていた。  ウゴの部屋に行けば、その行動がどういう意味を持つのか、サリーナにもわかっている。窓に背を向けて細く長く息を吐く。そろそろ月の入りだ。  自室へ戻らなければ。手燭を握り直す。  彼は、朝まで待つだろうか。  耳を掠めた熱が蘇って、サリーナは危うく手燭ごと手を耳まで持っていきそうになった。空いているほうの手には、ウゴの体温が残っている。ささくれを撫でる指は優しかった。  覚えてしまった感触を封じ込めるように、目を閉じて指先を唇に押し当てる。  セルジャン侵攻など、上手くいくわけがない。きっともう会うことはない──。  ゆっくりと目を開けてサリーナは炊事場を出ようとした。その時、背後で扉が開いた。外からウゴが入ってきたのだ。 「どうして……」  サリーナは言葉に詰まった。 「月はもう沈んでる」  こちらからの光でウゴの姿が段々と映し出される。もう目の前まで来たかと思うと、サリーナの手から手燭を取り上げてテーブルに置いた。 「困り、ます」  光から逃げるようにサリーナは後ずさった。 「わかってる……その気がないのも」  今は触れてこないウゴの眼差しが憂いを帯びて、あの夜の祈りを思い出させる。胸の奥に鋭い痛みが走った。 「……嫌でないから、困るのです」  気づかないふりをしていた。だが痛みを伴ってはっきりと輪郭を持った事実を、サリーナは認めた。惹かれているのだ、この得体の知れない男に。一方で、自分が取るべき態度も悟った。 「イヴェット様が、愛も、もしかしたら命も、失うかもしれない時に、私だけ現を抜かすわけにはいきません」  ──はずなのに、きっぱり言い切ってなお苦しい。  涙が溢れた。(こら)える間もなくこぼれ落ちた雫は、卓上の灯りに一瞬煌めいて闇に消えた。 「サリーナ」  泣き顔を隠そうとする手をウゴの指先が絡め取る。名を呼ばれるのは初めてだった。濡れた瞳で見上げた先に、ウゴの真顔。 「あんたのそういうところ、俺は気に入っている。答えは今でなくていい」  そして懐から手紙を取り出した。封蝋に押されているのはチチェクの国章だ。 「モンテガントのサランジェ卿へ、イヴェットの庇護を嘆願する書状だ。チチェクが再興した暁には、サランジェ家から王妃を迎える条件になっている。意味は、わかるな?」  手紙をサリーナに握らせる。 「あんたに預けておく。手紙を送ればもう処刑の心配はしなくていい。俺ももう、あんたを口説けない」  最後を少し冗談めかして、ウゴの手が離れた。 「渡したかった物はもうひとつある」  ウゴは木片をテーブルに置いた。薄い円形に整えられた硬貨大のものだ。 「これはチチェクの風習だ。満月に見立てた木片を作って、割る」  ウゴが木目に沿って力を入れると、それは乾いた音と共に二つに割れた。テーブルに並べると、無作為にできた裂け目が離れ難そうに引き合っているように見えた。 「再び満月に戻れる日を願うお守りみたいなものだ。一つは俺が持つ。片割れは──」  ウゴは自分の分を懐にしまうと、もう一つを摘み上げて唇に押し当て、テーブルに戻した。 「必要なければ、捨ててくれていい」  さっと背を向けると、ウゴは扉へ向かって歩き出した。 「あの……」  サリーナの声に、ウゴは振り返らなかった。 「出立の見送りは要らない。イヴェットにも宜しく言ってくれ」 「待って!」  サリーナは手紙を持つ手で木片を拾い上げ、ウゴを追った。「これ……ありがとうございます」  立ち止まった背中は無言だ。 「どうか、ご無事で……」  消え入るような声で告げる。ウゴは振り返らず、軽く手を挙げてみせただけだった。  扉が閉められ、一人きりになった炊事場で、サリーナは木片にそっと口づけた。
/98ページ

最初のコメントを投稿しよう!