第2章 - After the day - 馬車の中

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第2章 - After the day - 馬車の中

謎の男の手に落ちたレア。 気が付くと、そこは馬車の中だった。 -----  ずっと何かから逃げ続けている。物心ついた頃には、じじ様と呼んでいた老人に手を引かれて街から街へ、季節ごとに渡り歩くような生活をしていた。  チチェクで盗賊に襲われ、じじ様は殺された。盗賊の奴隷になった後も、衛兵に嗅ぎつけられるたび隠れ家を変える奴らに引っ張り回された。 「耐えろ。何があっても他人に力を見せてはならない」──じじ様の遺した言葉どおり、私はただの子供として、生きるために盗賊に従った。  耐えろ。耐えろ。  〝……の時まで〟──。  目が覚めた。でも、もう少し寝ていたい。夜明けが近づけば、いやでも下っ端に叩き起こされる。逆にいえば、それまでは横になっていていい。奴隷に許されたわずかな休息だ。  寝返りを打つ。体が痛い。こんなに硬い寝床は久しぶりだと思って、そこで初めて私はまぶたを開いた。  視界はひたすら黒く、何も見えない。両手首が束ねられている。重さからして鎖だろう。骨や皮膚に感触はない。布を当てた上から巻きつけているらしい。  口の中から鼻の奥にかけて青い味が残っている。眠らせるための薬草か。飲まされた時の状況を思い出して吐き気がこみ上げてくる。  目が慣れてきて、足の先体ひとつ分くらいから漏れる光が暗闇を薄めているのがわかった。あれは焚き火の灯りだ。覆われた空間の中にいる、これは幌。馬車の荷台に乗せられている。  薄明かりが作る微かな陰影が、すぐ目の前に転がる荷に気づかせる。掛けられた布がなだらかに登りきった先はゆっくり上下して、それが物でないことを示していた。さらに稜線をたどれば寝顔に行き当たる。あの男だ。  男は私と向き合う形で寝ていた。体を丸めて親指を口元に持っていく格好で、静かに呼吸している。  連れの兵士ふうの二人は外で焚き火を囲んでいるのだろう。話し声は聞こえないから、一人は寝ているのかもしれない。  あの時、日暮れが迫っていた。馬車で移動を始めてもそう長い距離は進めない。どこへ向かっているのか。空が見えないから夜の深さが測れない。私はどれくらい眠っていた? 「起きたのか」  かすれた声に目をやると、男の瞳がこちらに向いていた。「もう少し寝るといい。日が昇るまで、まだ時間がある」  知りたいことは山ほどあったが、開きかけた口を男の手が塞ぐ。草の匂い。薬を作ると言っていた。きっと、毒も。 「苦情は朝になってから聞く。今は、何も考えるな」  男はゆっくりと体を起こした。脇腹を押さえて小さく呻く。クロードの短剣が裂いた肉の感触が手のひらに蘇った。死にそうなクロードの姿が男に重なる。  待て、と無意識に出た言葉に、男は振り返った。呼び止めておきながら続きが出てこない。説明が難しい。  あの時は、本来なら、剣など使わずに炎で圧倒すべきだったし、できたはずだった。しなかったのは、野蛮に見せかけて突然泣いたり、見逃したくせに急に追ってきたりする男を、予想外の動きで撹乱してやりたかったからだ。今は、状況や先のことを考える慎重さより好奇心が勝った。試すには好機だ。  括られた両手を引き寄せて、左手の人差し指に歯を立てる。皮膚が破けて血がにじむ。甘い匂いは、意識して嗅げば感じられる程度にある。思えば、流浪の生活の中で、出血などいくらでもあった。気づかなかっただけで、私はずっと、人と違う何かだった。
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