第2章 - After the day - 馬車の中

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「舐めてみろ」  腕を男のほうに伸ばす。明るさはやっと男の輪郭がつかめるくらいだ。男には私が差し出すものが何かは見えていないだろう。  鎖が巻かれた手首は重い。持ち上げているのに疲れて、私は腕を下ろした。横になったままでは意図を伝えられない。床面に両手を突っ張って力を入れる。起き上がろうとしているのはわかったのか、男が私の背に手を添えて手伝った。  改めて、指を男の顔に近づける。手首の鎖を包むようにして、男は私の手を取った。傷つけた人差し指を立てると、指先に鼻を寄せてくる。  微かな錆臭が、消える先をほんの少し〝甘さ〟に振る。何度も口に含んで知っているから私には自分の血の匂いをそう説明できるが、今にも乾きそうな少量で、初めて触れるこの男には、どうか。  暗がりの中で瞳が動く。男は私の指先と顔を交互に見比べているようだった。舐めろという唐突な言葉の真意を探っているようでもあった。  急に視界が明るくなり、私はまぶしさに目を瞑った。顔に近づく熱は、──火。  男は、自分の指先に灯した火で私の指に注目していた。 「魔法、使えるのか?」  驚く私を無視して、男は照らす位置を変えながら観察を続けている。鎖越しに男の握力が強まったのを感じる。 「血が出ているな。今、自分でやったのか。舐めろというのは、これのことか」  男の息に炎が揺れる。何のために? と聞きたげな目が私を映し、言葉にしない口が試す意思を表した。私はうなずく。  男は唇で傷に吸いついた。出血はとっくに止まっているだろう。〝味〟をこそぐように舌が動き、こそばゆさに思わず引っ込めそうになる手を、強い力で固定される。  男が私の手首を離すまで、一瞬のはずがとても長く思えた。再び脇腹を押さえる男。無言で見つめてくる目。私は確信した。 「治ったか?」  問いかけると、男の表情は険しくなった。聞き取れないほどの小声で何かつぶやいて、そのあと、眉間に皺を寄せる。怒りを堪えているようにも、泣きそうにも見えた。 「これを」  男は咳払いをして、さらに声を低めた。「ほかにこれを知っている者は」  私は首を振って否定した。クロードが生き返った確証はないし、本当のことをすべて教える義理もない。 「いいか」  男の顔が迫ってくる。囁くように、だが強く、男は言った。 「二度とするな。誰にも言うな。だめなんだ、そんな──」 「賢者様」  荷台後部の幌が遠慮がちにめくられ、外からの明るさが差し込む。「お目覚めですか?」  声は、兵士の一人か。 「ああ、交代しよう」  振り返って背後に返事をすると、男は私の肩を軽く叩いた。 「朝になれば鎖は解く。他の者はここに入れないから安心して寝ろ」  出口に体を向けて火を吹き消す。私はまた暗闇に包まれた。 「お前は……何者なんだ」  賢者と呼ばれた男の背に、質問を投げる。 「俺は、ただの男だ」  ひとり残される私の耳に、抑揚のない男の声が響いた。
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