第3章 - After the day - ドニの街

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 あふれてきた涙をごまかすために、私は窓に向かって両膝をついた。月を見上げれば、瀬戸際で水面が踏みとどまる。私はこの人の前で泣いてはいけない。組んだ指で顔を隠して、下唇を噛み締める。  チチェクでは王族も盗賊さえも、月に祈りを捧げる。物心ついた時から旅人の私には信心する神はいなかったが、チチェクでは、他の攫われてきた子供たちと一緒に盗賊に小突かれながら、空に浮かぶ光に手を合わせた。  誰かが、白く円いあんな皿一杯に美味しいものが食べられますようにと願って、別の日に別の誰かが、鎌形に尖るそれで盗賊の首を掻き切ってやると誓った。  子供は新しく入ってきてもすぐいなくなる。奴隷として売り飛ばされる者が大半で、たまにスリや暴力が得意で盗賊側に格上げされる者がいた。  鱗が不気味な私はいつまでも売れ残り、各地の祭に連れ回された。最後に行ったのは──もう街の名前も思い出せない──どこかの夏至祭だ。見世物小屋が建つくらいだから、それなりに大きな街だったのだろう。  夏至祭。  そう、そこで大きく燃える火を見た。夏至の焚き火だ。まだ魔法を隠していた私は、移送用の木枠の檻の中からそれを見て……。  月を見ていたはずの私の視界が赤く染まる。瞬いて涙を振り払うと白い月がそこにある。  鱗が逆立つ感覚。薄布が燃え縮むように、記憶を塞いでいた幕がめくれ上がる。  ──おいで。  躍る舌先に誘われて、私は檻を焼き切った。慌てて取り押さえる男たちに向けて、羽毛を吹き上げるように手のひらに息をかける。生まれたての炎が、示された方向に無邪気に進む。近づく者は熱と戯れ、私を追うのを忘れる。  じじ様と二人きり、ほかに誰もいない荒野ででしか出せなかった力を解放して、私は有頂天になった。両手から立ち上る炎の翼に頭をつければ、鳥になって天高く舞い上がり、焚き火と私を行き来する。帯状にして回転をかければ、地面を転がって私を焚き火へ誘導する。  ──おいで。  導かれるままに、夏至の火に辿り着き手をかざす。目に映る明るさと肌を炙る温かさが、私の力となって体に漲る。  ──かわいい姫よ、助けてくれるね?  私はうなずく。姫なんかではないけれど。  ──きっと、来てくれるね?  もう一度うなずくかわりに、私は魔力を火にくべる。すでに薪を燃やし尽くした炎が、自らの勢いで起こした風に煽られて唸る。  ──きっとだよ。 〝凍てつく夏至の時〟に。  回想から我に返ると、隣にウゴはいなかった。夕飯を取っておいてくれたものだろうか、布が掛かった皿が窓縁に置かれていた。  あの後私は後ろから何かで殴られて意識を失った。その衝撃が原因だろう。魔法を使ったのは覚えていたが、夏至の火と交わした約束は今まで思い出すことはなかった。  以降、私は鎖に繋がれて、盗賊の塒から出されることはなくなった。間もなく戦争が始まって、一刻も早く、少しでも高く私を売りさばきたい盗賊の前に上客が現れた。十歳の時だった。
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