第3章 - After the day - ドニの街

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 宿の一階には外からも入れる食堂が付いていた。宿泊客以外にも旅人が出入りし、食事時は混雑している。二日目、私たちが朝食に降りた時すでに満席で、壁沿いに並んで待つことになった。  食堂の壁一面には古い帆布に描かれたボブロフ大陸の地図が掛かっている。旅人の往来が多い街ではよく見るものだ。この宿は建物が大きく食堂も広い。布地は荒く全体的に煤けていたが、精緻で立派な代物だった。  オクタヴィアン半島と大陸を縫い合わせるように走るスティナ山脈。私たちはこれを越えて、大陸の名を冠したボブロフ帝国に入る。  ボブロフが大陸に乱立していた国を武力行使で配下に収めたのは、十数年前の話だ。いくつもの小国と多種の民族を統べた王は皇帝を名乗り、次は半島をと狙っている。  半島は昨年、セルジャンを拠点とするアンブロワーズ王家により平定。国名をオクタヴィアンとし、半島に安寧と繁栄をもたらした。……セルジャンで貴族の教養として教えられた大陸の歴史だ。  地図はまだボブロフ統一前のものだった。半島も含め大陸全体が細かく区分され、今はただの地名に成り下がった国々の名が、ところどころ掠れて表示されている。チチェクもまだ一国として、半島の右端、スティナ山脈が途切れた位置にあった。  ウゴは地図を避ける形で壁に寄りかかっている。祖国を奪われた側には、あまり見たいものではないのかもしれない。盟約により友好的に降った国は平定後も自治を認められているが、チチェクのように事を構えた国は新しい領主が据えられ、旧国の統治は消滅している。  チチェクは特に、魔法戦の犠牲になったため土地の損耗が激しい。暮らしていた人々は散り散りに逃げ、魔物が湧いていると聞く。誰も欲しがらない焼け野原は、所領が隣接するモンテガント公に与えられた。  私の祖国はどこなのだろうか。じじ様に聞いても、「ここよりもずっと遠く」としか答えてくれなかった。両親のことも、何から逃げているのかも、私についての情報は教えてもらっていない。「瀕死の魔女が」云々は、私の炎を見た盗賊がどこかで聞きかじってきた話で胡散臭い。  ラヴァル将軍は取引した悪党を生かしておくほど甘くはなかった。盗賊は殲滅され出所はとっくに闇の中だ。プルデンスなら独自に何か掴んでいそうだが、おいそれと自分の身の上を聞ける雰囲気の人ではなかった。  やっと空席ができ、私たちは無言で食卓についた。宿泊客には乳粥が出される。ウゴは、ほかに食べたいものがあれば頼んでいいと言ったが、私は首を振った。朝は、温かくて流し込めるものだけあればいい。  じじ様は、もう少し私が大人になってから話すつもりだったのだろう、と思う。不運にも、別れは早くに来てしまったけれど、そうでなくともいずれ私は一人で生きていくことになる。自分の存在について知らないままで逃げ続けるのは限界があるから、一人前の理解力、思考力、判断力が身につくのを待っていたはずだ。ただ、今となってはその内容を調べる術がない。 「マルリル」  呼ばれて対面に目を向けると、空になった皿を前にしたウゴがこちらを睨んでいた。私の手元、持ち上げた匙から粥が皿に落ちる。考え事に夢中になって手が止まっていたようだ。 「後がつかえてる。早く食え」  ウゴが親指で指すほう、壁沿いに、まだ朝食にありつけない人たちが並んでいた。私は慌ててぬるくなった粥を掻き込んだ。
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