第3章 - After the day - ドニの街

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 驚きや恐怖から悲鳴をあげる時、人は誰かの助けをあてにしていると思う。自分しかいない場所で予測していなかった事態に見舞われたら、案外声など出ないものだ。  月光が遮られ視界が暗転した瞬間、短く息を吸い込んだだけだった私は、隣室の男にまだ警戒心が働いているのを自覚した。  形や動きから、人なのはすぐにわかった。その時点で私は、現れた人物に思い至っていた。火を灯して向けると、窓枠にはカカが貼り付いていた。庇から両腕でぶら下がり、足の指を縁にひっかけているようだ。  カカは私が気づいていることを認めると庇の上に引っ込んで、かわりに腕を垂らした。私は静かに窓を開け、その手をつかむ。  私を片腕で抱えて、カカは屋根に上がった。  二階建ての高さでは街並みを一望とはいかないが、青く照らされた疎らな往来が足元に見え、異質な空間に踏み入った気分になった。月光とともに静寂が忍び降り、酔っ払いを寝床へ追いやっていく。  カカは軽々と斜面を登り、突き出た煙突の裏に回り込んだ。私は煙突に背中を押しつけられる格好になった。顔が、近い。 「無防備がすぎる」  耳元でカカが囁く。はっとして、咄嗟に胸を押し返したが、腕をつかまれたまま、体は離れない。しまった、という思いより、ウゴよりもよほど怪しいこの男に油断した自分と、それを見透かされていることが恥ずかしかった。 「安心しろ。今日は〝おやすみのキス〟はナシだ」  言われて、顔が熱くなる。押し返す手から力が抜けると、カカも私の腕を放した。やっとできた隙間に夜風が抜けていく。手のひらに硬い筋肉の感触を覚える。顔を上げると、カカの視線にぶつかった。 「あの二人に聞かれたくない話があるんだろう?」  私はカカに促した。目は逸らさない。カカは頷いた。 「朝まで、お前を寝させないくらいには、な」  黒く光る瞳が迫ってくる。朝まで寝させない、その表現の別の意味合いがなぜか閃いてしまい、思わず顔を背けた。 「期待してることが別にあるなら、それに応えるのも悪くないかもな」  頭上からカカの声が降ってくる。髪をぐしゃぐしゃに撫でてくる手を振り払って、私は目の前の男を睨みあげた。奴は私の反応を見て楽しんでいるに違いない。悔しい!  カカは一瞬笑った──ように見えただけかもしれないが、不意に体を捩って腰から何かを外した。 「なら、さっさと用件を片付けなければな。まずはこれだ」  差し出されたのは、私が抜き身のまま持ってきてしまった、クロードの短剣だった。  革の鞘に収められたそれを受け取る。柄には傷口を手当てするように粗布が巻かれていた。この下には王家の紋章が打ち込まれているのを、私は知っている。半島統一の際、武勲に応じた褒賞とは別に王より下賜された、騎士団員の証だ。 「刃は手入れした。鞘は中古の既製品だ。少々遊びが大きいが、留め具が付いてるから簡単には抜けないだろう」  いい剣だ、とカカは言った。  留め具を外して抜いてみる。肘から先くらいの刀身に白い光が滑っていく。剣の良し悪しは私にはわからない。柄を握る手に力を入れて刃を立てようとしてみたが、重くてふらつく。本当は私には扱えない代物だ。持っていても仕方がない。 「試してみるか?」  胸元の合わせをくつろげて、カカが肌を見せる。月明かりが筋肉の盛り上がりに影をつける。カカは私の手首ごと柄を握って、切先を自らに向けた。手の大きさが違いすぎる。すっぽり包まれて圧迫され、自分の手を引き抜くことができない。 「もう少し使えるようにしておくべきだな」  剣を下げて鞘を被せる。「お前を守る騎士は、もういない」 改めて剣を渡される。私は両手でそれを抱きかかえた。硬い皮膚の感触が手に残っている。騎士はもういない。火竜姫は私じゃない。そんなことは、わかっている。  私をからかうのはこれで気が済んだのだろう。カカは屋根の傾斜に寝転んで煙管に火をつけた。 「楽にしろよ。ここからの話は、少し長い」  男の吐いた煙を、風が散らしていった。
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