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騎士の口の端から血が流れ出た。薄く開けた目で表情を強張らせて近寄る少女を見て、笑った。
なぜ、と伸ばす少女の手が震える。右脇の傷を負ったあたり、破けた布地の縁を血が固めていた。
「触るなよ、毒だ」
脇に受けた刃に塗られていた。傷を負った直後に川へ飛び込んだおかげで薄まったが、その分効き目が回るのに時間がかかったのだろう。体内を蝕まれた騎士は、すでに指を動かす力もないようだった。
「嘘だ」
少女の涙声。いつからだ。ここに腰を下ろした時? 川岸から森へ入った頃にはもう? いや、斬られた瞬間にはわかっていたのではないか?
「悪いな、〝火竜姫様〟」
こんなときでも、騎士は笑みをこぼす。溢れてくる血にむせながら、少女に離れろと促す。瞼からのぞく瞳は、もはや光を宿していなかった。
「生きろよ……マルリル」
消え入るようにつぶやいたのを最後に、騎士は目を閉じた。
「嘘だ」
少女はその場にくずおれた。
視界を焼き尽くすことはできても、毒を解す術は持たない。どこまでも自分は無力なのだ。
打ちひしがれて涙がこぼれるより早く、少女の脳裡に一案が浮かんだ。人伝に聞いた自身の出生秘話。サラマンダーの生き血で死の淵から蘇った魔女──それが本当なら、自分の血にも同様の効果があるかもしれない。
閃くや、騎士の腰から短剣を抜き、指を切った。湧き出てくる血を口に溜める。鼻に抜ける甘い匂いは、確かに騎士から流れるものとは違う。
騎士の顔にそっと手を添える。騎士の血に触れれば自らも毒に侵されるかもしれなかったが、迷いはない。温もりも、穏やかな笑顔も、今までずっとここにあった。もう震えは止まっていた。
この口づけが、海風の吹く丘で、野の花に祝福された契りであったなら。
燃える火に照らされた血塗れの儀式を、天の星だけが見ていた。
* * * * *
小枝で顔を弾き、頰に線状の熱が走る。途端に視界が開く。左右に切り分けられた薮が、来た道を戻っていることに気づかせる。
少女は駆けていた。激しく脈打つ心臓の音に責め立てられて、無意識に体が動いた。
水を吸ったローブの重さ、騎士の短剣を握った右手、左手の傷とその痛み。思い出してやっと、少女は自分の輪郭を取り戻した。乱れた呼吸に混じる、血の匂い。
息苦しくても足は止まらなかった。昨夜の戦場には、追っ手がまだ潜んでいるかもしれない。わかっていながら、とにかく進むしかなかった。木の根や石を避けて地面を蹴り、体を前に送る。この速さでは、幼な子の足でも追い抜けるだろう。森を抜け川岸に出る頃には、朝日に目覚めた鳥達が歌い出していた。
確かに、生きて欲しいと望んだ。しかし、一度動かなくなった騎士が呼吸を取り戻した時、少女の足元はぐらついた。
「よかった」
「信じられない」
「もう大丈夫」
「なぜこんなことができる?」
私は、何なのだ──。
次の瞬間にはもう走り出していた。
波打つ川面は少女の顔を映さない。震える両手で水をすくい、顔を洗う。流れ落ちる雫はかすかに甘い香りがする。
折からの風に、森から鳥が飛び立つ。対岸には、黒く焼けた森がどこまでも続いていた。
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