第4章 - 10 years later - 後始末

5/6

92人が本棚に入れています
本棚に追加
/98ページ
 北部国境、火竜領。  夏至を過ぎてやっと花盛りを迎えたマルリルに、王都セルジャンとの距離を思い知らされる。  火竜公レア── イヴェットは、中庭に面した窓辺でレースを編んでいた。よく晴れた昼下がりでも風はまだ冷たく、ストールを羽織るくらいが丁度いい。丸く膨らんだ腹部は重く、時折動いては、中に独立した命があることを主張する。  レースは生まれてくる赤ん坊の靴下や帽子になる予定だ。性別がわからないのでまずは簡素に、飾りは、女の子だったら付けられるように別に作っている。  夫は、男女どちらでもいいと言った。男の子なら領地を継がせられるし、女の子なら母に似た可愛らしい子になるだろうと。  だが、秘密を抱えて生きてきたせいか、妊婦特有の不安定さゆえか、イヴェットはその言葉の裏を考えてしまう。  性別にこだわらないのは、火竜の力さえ受け継げばいいと思っているからなのでは──。  イヴェットは十五の時にこの地に火竜姫レアとして送られてきた。  当時、国はボブロフと牽制しあっており、アンブロワーズ軍はチチェクでの苦戦がなければ大陸へ攻め入ろうとさえしていた。  半島を手中に収めたアンブロワーズの勢いを警戒してボブロフの主軍が南下を始めた、そんな噂でセルジャンが不安に陥る最中、半島の名を冠して大陸への野心を隠した国は、恩賞として領地を与える体で火竜姫を北部国境に配した。  現火竜領は、元々は一国としてラビュタン王が治めていた土地である。辺境の小国ではあったがアンブロワーズとは親交が深く、半島統一にあたってはいち早く盟約を結び、背後を守った。統一後も侯爵の地位を得て自治を認められていた。  それを召し上げて火竜姫に与えることになったのは、王都に必要なくなった不遜なほどの火力を遠ざける目的と、ボブロフに踏み込ませない壁としての役割を果たすのに最適な場所だったからだ。  ラビュタン側にも中央の決定を覆す理由がなかった。  大国と隣り合わせのこの土地に「千里を薙ぐ」魔法使いが来る。卑賤な身で称号が示す地位だけは高い、ほかに取り柄のない小娘。実権は十分ラビュタンに残る。  半島統一さえなければ次期国王となるはずだったリオネルとの婚姻を条件に、火竜姫レアは──イヴェットは好意的に迎え入れられたのだった。  ドアをノックする音に返事すると、サリーナがお茶を持って入ってきた。 「少しお休みなさいませ、レア様」  干した果実と妊婦に良いとされる薬草を煮出した茶が注がれると、ほのかに甘い香りが漂う。  サリーナは唯一、イヴェットが王都から連れて来ることのできた侍女だ。極秘裏にレアの身代わりになることが決まった時、クロードが養家として供をつけたいと口実をつけて叶った、イヴェットの心の拠り所だった。  レース編みの手を休めてイヴェットは茶を飲んだ。 「美味しい」  イヴェットは微笑んでサリーナにも勧める。  妊娠がわかってからというもの、夫リオネルは日中執務で忙しい。サリーナと二人で過ごす午後の茶は、夫のいない寂しさからも、他人になりすまして生きる緊張からも解放される貴重な時間だった。サリーナの表情が強張っているのに気づくまでは。 「……どうかした? サリーナ?」  イヴェットが聞くと、サリーナは手紙を差し出した。養家ラヴァルからだという。 「いつもの、ご機嫌伺いとご支援の内容かと思ったのです……」  サリーナの声は小さく、震えた。  イヴェットは受け取った手紙に目を落とす。そこには、クロードの筆跡で「火竜姫レアが王都に現れた」とあった。
/98ページ

最初のコメントを投稿しよう!

92人が本棚に入れています
本棚に追加