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「なぜお前がその名を知っている?」
心がざわつく。じじ様はずっと名前を伏せていたし、どうしても必要な時は偽名を使っていた。私にヴィニシウスを名乗ったのも最期の瞬間だった。
「ヴィニシウスは俺と同族だ」
「同じ?」
「〝知の巨人〟──半島ではあまり聞かないだろうな。薬や狩りの知識で、ボブロフではそれなりに重宝されている」
片腕で頭を支える格好で、カカはこちらに体を向けた。その風体にじじ様と似た印象はないが、じじ様も、路銀が底をつくと薬を作って売っていたことを思い出した。
「瀕死の魔女、火の精霊、蘇り」
私の出生秘話。嘘だとばかり思っていた。「半分は本当らしい」
俺もその頃は子供だったから、とカカは続けた。
当時大陸は戦乱の最中にあった。知の巨人族は傷ついた人々のために薬を分けては旅を続けていた。
ある時、一族の長ヴィニシウスは、ボブロフ軍が通過した直後の焼け落ちた街で炎に包まれた赤ん坊を見つける。とても助かるまいと目を背けたが、呼び止める声がした。
よく見ると子供は焼かれているのではなく、魔法の火で守られていたのだった。声は、大陸に満ちた穢れにより弱った半身を、瀕死の赤子の体に移したと言った。凍える夏至まで、この子と生を分け合うと。
赤ん坊を抱き上げると炎は消えた。以降、ヴィニシウスは一族とは分かれ、赤ん坊を連れて旅に出た。
「それがお前と火の精霊だった。魔女云々はどこぞの伝説と混じったか、ヴィニシウスが真実を隠すために作ったんだろう。いずれにしても、お前は元は普通の人間の女だ。健康ならば子供を産める可能性は高い」
普通の人間。そうであったらと願ったこともあったはずなのに、無力さだけを突きつけられた気がした。
「帝国はそれを知ったうえで、お前に子供を産ませてみたいのさ。色々な男と掛け合わせて、な」
おぞましい計画も所詮は人の子と高を括るからこそ、か。半島の化け物扱いが可愛らしく思える。だが、腑に落ちない部分もまだある。
「鱗や、あの血の効果は……」
鱗はともかく、傷を癒す血があると知れたら。考えただけでもぞっとする。
「それは俺も知らないが、紐解く方法はある」
カカは懐から小袋をつまみ出すと私の目の前に差し出した。
「これは、俺の母親の歯だ」
意図が読めず固まっている私に、カカは体を起こしてそれを近づけてきた。
「お前のことは放っておきたかった。だが、──」
袋からひとつ、白い小石ほどの物がカカの手のひらに転がり出る。「半島から奪え、と言われた」
またひとつ。
「裏切るな」
また、ひとつ。
「早くしろ」
手のひらに三つの歯が並び、カカはそれを握りしめた。
「長を失った一族はボブロフの統一戦線に巻き込まれて帝国の犬になった」
犬。
川べりに追い詰められた記憶が蘇る。唸り声、煙の匂い、クロードの息遣い。血の味。
「人質としてボブロフに軟禁されている母が、お前のことをもう少し知っているはずだ。ほかにも、ヴィニシウスの名前が鍵となって明らかになる情報があるだろう。俺たちはそういうふうに名前を使う」
カカは歯を袋に戻し、口づけた。私は思わず目を背けた。段々と出来事がつながってくる。帝国は私を奪うために、母親を使ってこの人を動かした。私は、巻き込まれた兵士たちを焼き尽くした。初めてじゃない、眩暈を堪えて、自分に言い聞かせる。ウゴの涙を噛み締める。
「これからお前の身に起こる不幸は、俺の母以上かもしれない。それでも、脅されてしたことだから許せ、とは言わない」
結果論だが、と、カカは指を立てた。
「ここまで聞けば、お前にとっては半島で貴族ごっこをして暮らすよりましなはずだ。うまくいけば、自分の秘密を知ったうえで、帝国から逃げきれる」
しまい直した小袋を衣服の上から軽く叩く。「……俺に乗るか?」
カカの目には私をからかっていた時のぎらつきが戻っていた。
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