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胸元から熱さが込み上げてくる。指先に向かって流れるはずの魔力が逆流しているような感覚だ。
決断を促すつもりか、カカが言葉を継ぐ。
「向こうへ行ったら、隙を見て母を連れ出す。お前はそれを手伝う。話せるようになったら聞きたいことを聞けばいい」
再び体を屋根に預けて目を閉じる男の上に、立ち尽くす私の影が落ちる。
「あの二人も帝国も裏切るというのか?」
やっと出た声は上擦っている。カカは返事の代わりに片目を開けて、口角を歪めた。
「帝国を敵に回して逃げ切れるはずがない! 第一、ボブロフのような大国に隙なんてあるものか!」
剣を握る手に思わず力が入る。
「まあ、そうまくしたてるなよ」
カカの台詞であの夜がまた像を結んだ。焚き火に照らされる騎士の横顔。いや、足元に横たわるのは無骨な大男だ。急速に心が冷えていくのを感じる。
「どのみち私には選べる道がない」
月を見る振りで目を逸らす。「連れていかれるほうへ、ついていくだけだ」
「それはどうかな」
煙が流れてくる。カカはいつのまにか煙管を吸っていた。
「選択肢は無限だ。お前が選ぶか、選ばないか。たとえば今ここで俺を殺して逃げることもできる」
「一人で?」
当然、とでも言いたげにカカは煙を吐く。
「いつでも、いくらでも逃げられた。単にお前が選ばなかっただけだ」
「逃げても、追われる」
「だが、アンブロワーズは何もなかったことにした」
「それは」
言いかけて、私は口をつぐんだ。用無しになったから辺境へと追いやられるところだったのだ。旅立つ前にこっそりと姿を消してしまえばよかった。
「選べ」
耳元で声がする。カカの顔が近い。また距離を詰められたのに気づかなかった。
反射的に体を退こうとしたが両肩を掴まれる。支えるような手つきなのに、後ろへの自由はない。腰を屈めたカカは正面から私の目を覗き込んでいる。
「今なら選べる。明日ここを発ったら、二人きりになるのは難しい」
「なぜ……私なんだ」
カカの胸を押し戻す。衣服越しに硬い粒の感触があった。咄嗟に腕を引いて指先をさする。さっきしまった母親の歯だ。
「精霊の半身に選ばれたことなら、母に会えばわかることもあるだろう」
「利害は一致してると言いたいのか?」
「思ったより難しい言葉を知ってるんだな」
カカは私の頭を軽く叩いた。「貴族教育の賜物ってやつか」
「馬鹿にするな!」
頭上に振り上げた手は空を切った。カカは一瞬だけ口元を緩めたが、
「母親の救出をなぜ他人のお前に頼むのか、なら、成り行き以外に理由はない」
屈めていた体を伸ばして、私を見下ろした。視線は私を通り越した先の何かを捉えているようだった。
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