第1章 - 10 years later - あれから十年

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第1章 - 10 years later - あれから十年

別れの旅路で襲われ、行方をくらましたレア。 十年の月日が経ち、クロードは……。 -----  果汁だ、と思った。あるいは若い果汁酒か。 いや違う、喉に流れ込んでくるものは何だ。  意識が戻った瞬間、口中の液体にむせた。顔に覆いかぶさっていた影が離れて光を感じる。朝か、もう昼か?  頭が痛い。瞼が重い。再び影。唇に柔らかな感触。温かい。ほのかに甘い液体。  今度は自ら飲み込む。乳を吸う赤子はこんな感覚なのかもしれない。安らぎに包まれ、静かに眠りに引きずり込まれる。  南向きの窓から差す光に、セルジャン織の窓幕が刺繍の蔦模様を輝かせている。  生地の厚さで知られる中部名産の高級品も、昇りきる直前の太陽を遮ることはできない。寝室には二度寝から覚めるのに十分な明るさが満ち、クロードは昨夜の接待酒の残る頭をもたげた。  あの時の夢を久しぶりに見た。すでに十年の月日を経て、記憶の織地も掠れている。そもそもが、意識が闇に沈み、魂の火が燃え尽きようとしていた時だ。見たはずの景色さえ、散在する糸をかき集めて作り上げた幻想かもしれなかった。  寝台を降りて幕を開ける。容赦ない光が降り注ぎ、手探りで窓をあけた。汗ばんだ肌に乾いた風が心地よい。  目覚めてからのことなら忘れはしない。木漏れ日の下で一人、横たわっていた。  衣服を染める血は乾いていて、細く立ち昇る煙のにおいが今さら鼻腔を突いた。  火竜姫はいなかった。  頭がはっきりとしてくるにつれ、喉の渇きに気づく。鈴を振り、年季の入った木製の揺り椅子でメイドを待った。 「お父様!」  ノックと同時に入ってきたのは今年七つになる娘のシーファだ。両手一杯に抱えた白い花の間から満面の笑みをのぞかせる。「見て! こんなにたくさん摘んだの!」 踊るように回ってささやかな風を起こし、甘い香りを振りまく。 「ああ、マルリルだね」  クロードは娘の額にキスをする。  マルリルは蔓状の植物でこの国でよく育つ庶民的な花だ。小ぶりな八重の花弁を持ち、房になって咲く様は“夏の精霊の訪れ”と例えられ、愛されている。アーチや生垣に造形しやすいため貴族の庭園にも多く、風に混じる花の香りは初夏の代名詞だ。 「お昼をいただいたら、お母様と花冠を作るの!」 「あら、お昼のあとは先にお勉強では?」 怖い作り声はメイド長のロゼだ。後には水差しとグラスを携えた年若のメイドが続く。 「母上様が食堂でお待ちですよ」 「はーい!」  シーファは気に留めるふうもなく、花弁を落としながら廊下へと駆け出て行った。 「よくお眠りあそばして。もう昼餉が整ってございます」  ロゼが水の入ったグラスをクロードに手渡す。クロードは一気に飲み干した。 「俺はいいよ」 「勧められるままにお飲みなさったのでしょう。若様にはまだまだ騎士団長のご自覚が足りないようで」  幼少期からクロードを知るロゼの口ぶりはまるで母親だ。「食卓についてお飲物だけでも」 「わかってる」 「モンテガント公も今朝お帰りの際にはお供に支えられるほどでございました。あまり御老体に無理をさせぬよう」 「わかってる。言ったことも聞いたことも忘れるくらい飲ませるには、自分も飲まないとな。それだけのことさ」 「今回は何のご相談で?」 「……火竜姫だ」  空いたグラスに水を注ぐロゼの手が止まる。 「シーファ様に大きめの花瓶を」  傍で着替えの準備に移っていたメイドに告げ、衣服を引き受けた。
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