第5章 - 10 years later - 画策

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 暑さと喉の渇きでリオネルはやっと寝椅子から起き上がった。微睡みの中で初々しいレアを懐かしんでいた。今は夫婦となり子供の誕生を心待ちにしている。 「私が何者であっても、愛してくださいますか」  初めてリオネルに肌を晒す時、レアはそう言った。  しかしレアの体には、どこにも鱗らしきものは見当たらなかった。 「力を妬む者が悔し紛れに流した嘘です」  リオネルはただの噂を真に受けた自分を恥じた。鱗がなくてほっとしたことには気づかないふりをして。  時折思い出しては自問する。もし鱗があったとしても、レアへの愛は変わらない。年老いても、病に伏しても。  その愛する妻のために、今日もあと半日、仕事に精を出す。リオネルは机に向かうとグラスに残っていた水を飲み干して帳簿を開いた。  ──中央からの指示で年々軍備に回す額が上がっている。税収に変化がないので、橋や街路の補強が蔑ろだ。かと言って税を上げられるほど領民は豊かではない。  同じ国境でも大陸からの通商路で潤うモンテガントとは大差がある。何か新しく産業でも興せれば、というところだが、いつ戦場になってもおかしくない国境には、そもそもが腰を落ち着けようとする若者が少ないのも悩みの種だ。  目頭を押さえてため息を吐く。今日はどうにも考えが散らかって集中できない。こんな時に限って部屋の外も騒がしく、漏れ聞こえてくる音が気になってしまう。 「どうした、ネズミでも出たかい?」  扉から顔を出して廊下を行き来しているメイドに声をかけたのは、捗らない仕事に見切りをつけた頃だった。午後のお茶を久しぶりにレアと過ごそう。気分が変われば日暮れまでの時間で今日分の目処はつけられる。  呼び止められたメイドはしばらく口籠もっていたが、迷った様子を見せた後に執事頭を呼んできた。  執事頭はリオネルを執務室に押し戻すと、きっちりと扉を閉めてから小声で話し出した。 「お気を確かにお聞きいただきたいのですが──」 「まさか、レアや赤ん坊に何か?」  リオネルは気が気でない。赤ん坊を産むのは命懸けだ。赤ん坊もまた、生まれ落ちる瞬間までどうなるかわからない。  詰め寄るリオネルに、執事頭は椅子と水を勧めた。 「いえ、それすらも不明で。お姿が見えないのです」  水の入ったグラスがリオネルの手から落ちる。 「レアが……いない?」  執事頭は頷いた。 「まだ少数の使用人で敷地の中を探しているところですが、見つかっていません。どうも、朝のお茶の後にサリーナ様と散歩に出かけられてから、お戻りになっていないようなのです」 「散歩中に何かあったのか……?」 「このところは散歩といってもお庭を回られる程度でした。護衛なしで外に出られたのであれば、事件の可能性も」 「誰にも告げずに? 誰か、誰かいるだろう……行き先を聞いている者か、共に行動している者が!」  取り乱すリオネルに、執事頭は首を振った。 「わたくしどももそう考え、まずは事を荒立てないように少人数で探しておりましたが、昼食にいらっしゃらないため探し始めてから一向に……。外で行方不明になられたなら、もう悠長にしておれません。早々に捜索隊を編成して城下を探さなければ」  執事頭は語尾をリオネルに委ねるように言葉を切った。リオネルはグラスを落とした姿勢のまま固まっている。  返答を待って絨毯に転げたグラスを拾ったその時、扉が叩かれた。ノックと呼べる穏やかさではない。急を告げる兵士の叩き方だった。  執事頭は扉とリオネルを交互に見た。リオネルは呆然と空を見つめている。来訪者に気づいていない主に代わって扉を開けると、衛兵が飛び込んできた。 「リオネル様!」  衛兵の剣幕に、リオネルは正気を取り戻した。 「今度は何だ!」  弾かれたように椅子から立ち上がり、衛兵を振り返る。衛兵は肩で息をしながら、立ったまま答えた。 「スティナ山脈を背に不審な陣営あり! 数およそ二千、スティナ砦より距離およそ四日!」 「なんだと!?」  衝撃がリオネルを襲った。思わず後ずさるリオネルの足元に、先程こぼした水がじわじわと広がっていった。
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